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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『賭博の日本史』(2)

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

【右京の行政長官であった藤原明衡が11世紀半ばに記した『新猿楽記-雲州消息』より】
大君(おほいきみ=長女の意)の夫は、高名の博打(ばくちうち)なり。筒(どう)の父(おや)、傍(あたり)に擢(ぬ)け、賽の目、意(こころ)に任す。語条、詞を尽し、謀計術を究む。五四(ぐし)の尚利目、四三(しそう)の小切目、錐徹(きりどほし)、一六の難(だ)の呉流(くれながし)、叩子(おおいこ)、平賽(ひやうさい)、鉄賽(かなさい)、要筒、金頭(かながしら)、定筒(じようどう)、入破(いれわり)、康居(たらすえ)、樋垂(えいひれ)、品態(ほうわざ)、賽論(さいろん)、猶、宴丸(えんくわん)、道弘(みちひろ)に勝れり。即ち四三、一六の豊藤太(ぶとうだ)、五四(ぐし)、衝四(しうし)の竹藤掾(ちくとうじよう)の子孫なり。字は尾藤太(びとうだ)、名は伝治(すけはる)、目細く鼻扁(ひら)にして、宛も物の核(さね)の如し。一心(しん)、二物(もつ)、三手(しゆ)、四勢(せい)、五力(りき)、六論(ろん)、七盗(とう)、八害(がい)、欠けたる所なきか。
【意味】
伝治という名の長女の夫は、目が細く鼻が扁平で容貌の良くない男であるが、雙六賭博の名人である。それで、賽の目の四と三、一と六を自在に出すことの出来る豊藤太や五と四、四と四の目を望むままに出す竹藤掾という有名な博奕打の子孫と称して、字を尾藤太という。尾藤太も五と四、四と三、一と六などの目を自在にあやつり、宴丸や道弘のような博奕の上手より勝れているという。(一)心をゆったりと持ち、(二)賭物は十分に用意しておき、(三)技術的な修練を積み、(四)勢いのある打ち方をして、(五)力づくでも勝ち通そうとし、(六)言葉でも相手を言いくるめ、(七)相手の賭物を盗み取り、(八)相手を殺してでも賭物を奪い取る。勝つためには、これで不足は無いであろうか。
『梁塵秘抄』
●博打の好むもの、平賽子(ひょうさい)鉄賽子(かなさい)四三賽子(しそうさい)、それをば誰にうち得たる、文三刑三月々清次とか[17]
●我が子は二十歳(はたち)になりぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党に、さすがに子なれば憎かなし、負かしたまうな、王子の住吉、西の宮[365]
●媼(おうな)の子供のありさまは、冠者は博打の打ち負けや、勝つ世なし、禅師は早(まだき)に夜行(やかう)好(この)めり、姫が心のしどけなければ、いとわびし[366]
●拘尸那(くしな)城の後(うしろ)より、十の菩薩ぞ出でたまふ、博打の願ひを満てんとて、一六三とぞ現(げん)じたる[367]
●法師博打の様(やう)かるは、地蔵よ迦旃(かせん)二郎寺主(てらし)とか、尾張や伊勢のみみづ新発意(しもち)、無下に悪(わろ)きは雞足(けいそく)房[437]
【鎌倉幕府・寛喜3年(1231年)6月6日「関東御教書侍所沙汰篇」】
田地所領をもって雙六の賭となすこと/右、博戯の科は禁制これ重く、しかも近年、ただ制符に背くに非ず、あまつさえ田地をもって賭となす由があるときく、自今以後、停止たるべし。もしなおも違反せしめる者は、はやく重科に処すべし。その賭を没収せしむべし。

賭物にした田地所領は没収すると命じている。このように下知しなければならないほど雙六賭博が蔓延していて、かつ田地所領の賭物が頻繁だったのだろうと推察される。御家人の土地喪失は政権の不安定を招くので、支配者層にとっては、放置することの出来ない重要な問題と認識されていた。土地が賭物になることは、貧富の差を拡げる要因というだけでなく、鎌倉政権をゆるがす政治問題に直結するものだった。

実際には、中世における土地問題ははなはだ不明な部分が残っており、土地を賭物とした場合の法的処分は、地方によってまちまちだったことが指摘されている。しかし、賭博による質入れとして田地が取引されていたことは厳然たる事実であり、当事者双方が所有権を主張する財産として認識していたことは明らかである。

★公家の賭博・・・高度な教養が必須の賭博。『看聞御記』『権記』『花園天皇宸記』他
●連歌・連句●碁●賭弓(のりゆみ)●香合(十種香)●貝覆●回茶(闘茶)●闘酒
●闘鶏●競馬(くらべうま)●蹴鞠
●目勝(めまさり)=賽を振って出た目の多い方を勝とする
●初音=郭公の初鳴きをどちらが早く聞けるか勝負
●根合(ねあわせ)=根の部分を繋ぎ合わせた長さを競う。菖蒲の根を使ったらしい?金や銀で偽の根を作って競争した?
●文字書(もじがき)=別称「文字合(もじあわせ)」=偏や旁から文字を創ってゆく賭博
●掩韻(おおいいん)=別称「韻掩(いんおおい)/韻塞(いんふさぎ)」=詩句の韻をふむ部分を伏せ、伏字を当てる賭博…etc
>>「二条河原落書」(建武元年・1334年)…連歌賭博を揶揄>>
京鎌倉をこきまぜて一座そろわぬえせ連歌、在在所所の歌連歌、占者にならぬ人はなき

★下層民の賭博・・・神人が多かったらしい。例:春日社

春日社は8世紀後半に建てられた古い神社で、後に本宮と若宮に分かれた。神事や儀式に関わる社司・氏人と、社務や雑用に従事した多数の神人がいた。本宮の神官中臣氏は代々の神官が記録(『春日社記録』)を残している。この記録には神事だけでなく様々な記録があり、大便や小便で社頭を穢す者がいた事や、最高位の執行正預職にあった遠忠が死人を喰べて解職された(建久9年/1198年)…等の内容がある。

春日社には雑役や警固の仕事に就いていた神人たちが数多く居て、「平郡の良順房の許に神人百人を差下す事」(文永9年5月8日/1272年)の例のように、想像上に多数の人間が勤務していた。神人たちは低い地位や苛酷な労役への鬱憤のゆえか、粗暴な振る舞いが多く、しばしば乱酔し喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかった。賭博に耽って処罰されているのも神人たちである。

>>文永9年・神主中臣祐賢宛ての手紙>>
近頃、神人たちの間で博奕があると聞いています。(勝った者は負けた者の)住宅に打入り、子に淋しい思いをさせ、あるいは負けて衣装を奪われ、出仕する事が出来ない者もあるといいます。四一半を打つ者は、氏により重科に処せられ、神の怒りに触れるでありましょうか。博奕が露見した者は全て罪科を蒙り、法皇御中陰以後は、博奕の党を捜し出して御沙汰の由あるべきと存じます。恐々謹言/三月九日/謹上-若宮神主殿
>>祐賢(=中臣氏は若宮神主を兼任する場合もあった=)の回答(請文案)>>
近日、神人の中では四一半を打つ者があり、露見した場合は罪科に処すようにとの御書状謹んで承りました。速やかにこの旨を徹底したいと存じます。ただし、若宮の神人たちが四一半を打っている事は、まだ聞き及んでおりません。よくよく尋ね明かして、もしそのような事実があれば沙汰に及びます。この旨を披露いたします。恐々謹言/若宮神主-祐賢-請文
>>回文>>
今日、衆徒より、去る一日、社頭で山賊等と氏人や神人等の間で博奕があったと聞くが、両条は罰文をのせ、落書をするようにと御命令になった。来る九日に件の状などを集められるという事である。恐々謹言/四月四日/謹上-正預殿並びに権官氏人御中/追伸-若宮の神主殿はご存知になっているのだろうか。若宮の神人へ(本文にあるとおりの)沙汰を下知して下さい。

この回文は、正預・権官・氏人(=社司の子弟)宛てとなっており、全ての社司、社家をあげて一大賭博取締り運動を実施する事になったのだろうと推測される。それほど春日社全体に賭博が蔓延していたらしい。

ここにある「落書」は、無記名投票か匿名投書のようなもので、これによって犯人を摘発する手筈となった。バックで何者が動いたのかは判明しないが、この賭博事件に関しては、非常に迅速で組織だった法的処置がおこなわれようとしていた。

>>同月13日、御八講座から「神人の間で四一半を打っているのは顕然とした事実」と断定、速やかに社司評定をして犯人摘発の落書をおこなうよう要請。

>>同月14日、寺家から「社司、氏人、神人が先に罰文を載せた置文を提出し、その後に落書を差出させて、15日の般若会の場で落書の内容を発表する」と提案。

>>4月30日、回文案と置文の写しが記録された>>
神人が博奕をしているので置文を提出させます。詳細でなく、各々便宜に従って書名と判を押すようにすべきかと存じます。恐々謹言/四月三十日-神主泰道/謹上-正預殿並びに殿原御中/追伸-若宮の神主殿にも同様にお知らせ下さるように。謹言
>>定置>>
神人などの間で四一半を打つ者は落書に任せてその結果で罪科を加えること。右は御八講の満座をもって御評定された趣である。寺家より社家に触れられたものである。近頃、神人等のなかで博奕が盛んになっていると聞く。それゆえ、落書をもってその名前を注進させ、罪科を加えるものである。但し、このようにして名前があらわれた者が、朝夕の勤めを励んでいるからと言い、或いは有力な縁故をたよって博奕をしたことを潤色して罪を逃れようとするならば、後代まで断絶されるであろう。かねて定められた罪科に限り、多数の落書に名前を書かれた者は、一番多い者から六番まで罪科に処す。それは住宅を破却し神人職を解任することである。このように定めた上は、社司等はえこひいきしてはならない。もし判形をしながらこの状の主旨に背く社司等があれば、嬌□の沙汰がある。尊神の御罰は不空の者に定まる。よって寺家の御定に任せ、定置するところ件の如し。/文永九年四月□日…(以下、代表者の連名連判が続く)
>>5月5日、御節供の儀式の後で集会があり、集められた神人たちの落書が発表された>>
春熊四通、春松五通、石王五通、北郷の虎王四通、南郷の虎王四通、延命二通、春日一通、亀寿一通、延命一通(南郷または北郷か)、高薬師一通
>>祐賢の日記より>>
すでに五人は罪科の執行を終えた。置文にあるように六人を処罰するところであったが、延命は寺家に申し開きしたので、罪科は免除になった。解職された者は寺家から御沙汰があって、公人により住宅を破却された。若宮の神人のうち、今度の落書に名前を書かれた者は一人もいなかった。神妙である。

少なくとも11名の賭博常習犯が摘発され、この時の賭博取締りの一件は落着した。摘発されたのがわずか11名であるという状況は、実態を反映していない。実際には、もっと広範囲の人々が賭博遊戯に関わっていた。

落書で罪科を蒙るため、神人たちは互いに庇いあい、隠しあったと推察されている(=下層に位置する者ほど処罰が厳しくなった。上層部の者も賭博に関わっていたが、上層部は罪科を免れ、下層部の神人たちは上層部の罪科のしわ寄せを受ける立場に居たのである)。

また、「若宮神主にも伝えよ」という繰り返し伝達があるのは異様なことで、何らかの政治的意図が隠されていたと見ることもできる。上記の博奕事件が権力争いの道具として利用されていたという可能性を考えると、若宮神主であった祐賢が「若宮の神人で名指しされた者は一人もいなかった」と記録したのも、そういう状況の中では、深遠な含みがあったと言わざるを得ない。


【中世のサイコロ賭博】
「七半」・・・2コのサイコロの目が合計7の時、賭金の半分をやり取りできる
「四一半」・・・2コのサイコロで1と4の目が出た時、賭金の半分をやり取りできる
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