異世界ファンタジー試作3
異世界ファンタジー1-3邂逅:雪白の連嶺と谷間の紅葉
ロージー母の眠る共同墓地は、長く変わらぬ静謐な谷間の中にあった。竜王国の北部辺境にあって、冬の到来が早いのであろう、谷底から見える高い山々は、深い雪に覆われていた。その奥には、万年雪を頂く永遠の山脈が雄大に広がっている。
冷涼な空気の中、黒い喪服をまとったロージーは、年老いた墓守の一人と共に父親の遺骨を納める作業を黙々と続けていた。やがて最後の土がかぶせられると、墓守は物慣れた様子で葬送の詞を呟いた。ロージーは白菊で編まれた葬送の花冠を墓に捧げ、静かに手を合わせた。
「グーリアス殿は毎年、リリフィーヌ殿の命日に、此処に来ておったよ」
年老いた墓守の思い出話は、ロージーを改めて驚かせる物だった。墓守は「これを預かっていた」と言い、事務所の裏にある遺品倉庫から、簡素な文箱を取り出してきた。中には、「父より」と書かれた封筒のみ。じっくり観察した訳では無いが、妙に新しくない感じのある手紙である。何年か前に書かれた物かと思われた。
(これはこれで、父さんらしいかも…)
今はまだ、心がざわついている。諸々が落ち着いてから、ゆっくり開封しようと、ロージーは心に留めた。墓守の事務所を退出した後、空を見上げる。日暮れまでには、まだ時間があった。ロージーの足は、共同墓地から離れた雑木林へと向かって行った。
遅い昼下がりの中、紅葉の盛りにある雑木林は、赤に金に、キラキラときらめいている。王都に先駆けて、早くも紅葉のピークが過ぎ去ろうとしている。谷を流れる小川はあちこちで幾筋もの小さなせせらぎを作り、落ち葉が華やかに彩り、秋ならではの散策の楽しみを保証していた。
久しぶりにノホホンと歩いていると、次第に思い出されるのは、ジル〔仮名〕という名前の持ち主の事だ。私の運命を激変させた人。見ず知らずの婚約者。
最初の交流の時以来、ジル〔仮名〕とは、一度もまともに再会する機会は無かった。間もなくして王都の権力闘争が激化したためである。ギルフィル卿とは、先方の邸宅で内々に成人を祝って頂いた時に、一度だけ慌ただしく顔を合わせた。黒髪のダンディな方だ、息子に当たるジル〔仮名〕も好青年だろうとは思うが、黒髪だったという他は、どんな顔をしていたかは全く思い出せない。
しかし、激務の合間を縫って折々に贈られる品や手紙には、心遣いが溢れていた。《宿命の人》というのを差し置いても、気が合う人だと思う。初対面の時、まだ幼かったロージーにとっては、《宿命の人》とは言っても、特に目立つ好意や親近感に毛が生えたという程度の認識しか無かった――その淡い認識のまま、成人を迎え、そしてこの年になるまで来てしまった。
――母は、父にとっての《宿命の人》だったという。
竜人の男にとって《宿命の人》とは、どんな存在だろう。竜人の女にとっては――?
(もう一度、ジル〔仮名〕様と顔を合わせてみれば、分かるのかしら?)
うつむいたまま林間をそぞろ歩きしていたロージーは、改めて、父の手紙が入った文箱を、胸の前でギュッと抱きしめた。婚約指輪に指が触れる。成人した際に、成人祝いを兼ねて作り直した物だ。正式な婚約指輪では無いそれは、身元証明用のエンブレムも彫り込まれていない、ごくごくシンプルなデザインである。
ロージーは無意識のうちに、指輪をくるくると回した。
――父は、母にとっての《運命の人》だったという。
祖母がニコニコしながら繰り返し語った、平民の男と平民の女の、ささやかな恋愛物語だ。
ロージーはボンヤリと考え続けていた。
王都の混乱が収束しない限りは、婚約者とすれ違い続けるだろう。縁が無い私が、いつまでも婚約者気取りでジル〔仮名〕様を束縛し続けているのも申し訳ない気がする。何といっても、私は平民だけど、ジル〔仮名〕様は竜王国の将来を背負って立つ高位の貴族の一人なのだ。これまでの勉強の甲斐あって、貴族社会の事情は分かる。
(婚約破棄も、にっちもさっちも行かなくなった問題の、解決手段の一つだと言われている)
そしてそれは勿論、最終的な手段だ。今はまだ、そういう決定的な局面ではないが、将来どうなるか分からないのだから、今のうちから可能性を考えて置いた方が良いだろう。のっぴきならない、強い理由を探しておくとか――
ロージーは思案に集中する余り、足元や周辺への注意がおろそかになっていた。不意に木立から現れた人影にギョッとしたものの、その動きを避けきれずぶつかり、突き飛ばされ、その拍子にロージーは足を踏み外していた。
「きゃあ!」
片足が木の根に引っ掛かる。地面の支えを失った片足はそのまま空を蹴り、ロージーは転倒しかけ――
――次の瞬間、ロージーは力強い腕に身体を支えられていた。
ロージーは目をパチクリさせた。随分、背の高い人だ。目の前にあるのは、地味ながら上質な仕立てのコート。留め具の外れている隙間からは、カッチリとした、どう見ても宮仕え用の衣服。間違いなくこの辺りの平民の衣服ではない。
ロージーが頭をヒョイと上に向けると、見下ろして来ていたその人と目が合った。
「申し訳ありません、気が付かなくて…大丈夫でしたか、令嬢どの」
「え、あ、ハイ、こちらこそ」
ロージーは息を呑んだ。心配そうにこちらを覗き込んで来る男性の目は、深い青だ。息詰まるような威圧感こそ薄いが、明らかに貴族クラスの竜人。切れ長の目やきつく寄せられた眉が、威厳を感じさせた。しかし、心持ち長い黒髪が少年っぽさを感じさせ、地位や年齢相応の厳しい雰囲気を和らげている。
ロージーはそそくさと足元を整え、対象範囲の広い簡易版の淑女の礼を取って、丁重にお礼を述べた。見知らぬ男は驚いたように目を見開いていたが、すぐに綺麗な微笑みを見せ、「どういたしまして」と腰をかがめて応じた。
(笑うと随分、印象が変わる人だわ)
ロージーは、心臓がドキリと跳ねたのを自覚した。しばらくの間、見知らぬ男から目を外せない状態だったが、ようやく、不躾にジロジロ見ている形になっていた事に気付き、慌ててあらぬ方へ目をやった。
「令嬢どの、此処へは葬儀か何かで来たのですか?」
頭の上から、男の低い声が降って来た。声も素敵だなんて反則だわとロージーは思いながらも「ハイ」と答える。ロージーはコートを着ていたが、その下は明らかに喪服だ。それをこの男は見て取っていたのだ。
ロージーは慎重に見知らぬ男を振り返り、「あなたも、葬儀か何かで?喪服ではありませんよね?」と問い返した。男は無言でロージーを眺め続けていた――特に、艶やかな白緑の髪を眺めていたようだ――が、やれやれと言ったようにため息をついた。
「ええ、まあ、急いで知人に会いに行ったところだったのですが、一足違いでした。献花だけはしましたが…」
ずいぶん忙しい人ではあるらしい。多忙の合間を縫って、やって来たのだという事が窺えた。男の黒髪は乱れがちになっていた。高位の竜人ならではのチートスペック、つまり竜体で空を飛んで駆けつけて来たという事なのだろう。誠実な人らしい。
「お心は伝わっていると思いますわ」
ロージーが軽く微笑みながらそう言うと、見知らぬ男は流し目をくれた。思わぬ色気に、ロージーは再びドキッとし、抱えていた文箱をギュッと抱きしめた。男はロージーの反応を知ってか知らずか、乱れていた髪をかき上げ、軽く整えている。
――その男の指にキラッと光ったのは、指輪。
(結婚指輪だったら特殊加工を施した宝石を付けるから、これは婚約指輪の方かしら)
素敵な相手がもう居るんだわ、とロージーは納得していた。きちんと良識を守って、節度のある態度を取らなければ…と気を引き締める。逆に言えば、気を引き締めなければならない程、ロージーは彼の雰囲気や佇まいに強く惹かれていたのだ。しかし思い通りにならないのはやはり無意識で、ロージーは同時に、無意識のうちに、自分の指輪をくるくる回していた。
男の方は、ロージーから視線を外し、北部辺境を成す雪白の連嶺を眺めている。どのくらいそうしていただろうか、男が立ち去る気配が無い事に、ロージーは疑問を覚え始めていた。不躾にならないように気を付けながらも、チラチラと男を眺める。
やがて男が、やっと口を開いた。
「此処は美しいところですね。令嬢どのは、この辺りの出身ですか?」
「ええ」
「成る程」
男はフッと微笑んだ。不意にやられると心臓に悪い――ロージーはドギマギするばかりだった。
「令嬢どののお名前を尋ねても?」
「ロージーとお呼びください」
後から考えてみても、この時のロージーは、明らかに舞い上がっていた。冷静じゃなかったのだ。低く朗々として甘い男の声は、ロージーをすっかり魅惑していた。この声で、ロージーと呼んで欲しい。平民クラスの感覚で愛称を答えてしまってから、ロージーはハッとしたが、もう遅い。貴族クラスは、何故かその辺は神経質なのだ。余程の関係じゃないと、愛称を呼ばせない。
(でも知らない人だし、ローズマリーもロージーも同じなんだから、まあ、いいか――私は平民クラスだし)
ロージーは無意識のうちに目を伏せ、再び指輪をくるくる回していた。無意識の癖になってしまっている。
「あの…あなたのお名前は?」
男の返答は無かった。うつむいていたロージーは、不思議そうに顔を上げた。男はロージーの手をじっと見ていた――即ち、ロージーの指にはまっていた婚約指輪を。
――気まずい雰囲気が流れた。婚約者としての立場を不意に思い出し、ロージーは動転の余り、そそくさとあらぬ方を向いた。
「済みません、――大事な人を亡くしたばかりで…」
緊張の余り、筋が通っていない内容になっているようだ。あああ。どういう言葉を続ければ良いのだろうか。取り繕えば取り繕うほどボロが出て来ているような気がする。ロージーは、穴があったら入りたい気持ちで一杯になった。
男は「私の方が失礼をしました」と言って苦笑した。そして、ロージーの手を、壊れ物を扱うかのように大事そうに取った。
「――ロージー嬢の"大事な人"に敬意を表し、名乗らずに済ませましょう」
男はそう言って、ロージーの手に軽く口づけしたのであった。