読書ノート:帝国の興亡
ドミニク・リーベン・著『帝国の興亡(上)』『帝国の興亡(下)』(日本経済新聞社2003)を読みました。すごく分厚い本で、読み終わるのにえらい時間がかかりました^^;
ロシア帝国・ソ連について膨大な考察があります。上下2巻もの。
上巻は、「帝国」という言葉が思想史・社会史上、どのように受け止められてきたかと言う考察が、圧巻でした。それから、近代史の帝国(ヨーロッパ列強)が急激に拡大したその理由の中に、「難病(熱帯性伝染病)の克服」という医療技術の発展が挙げられていたのは、ビックリしました(マラリア熱の治療法の発見とか…)^^;
確かに、熱帯にはびこる伝染病を克服した後は、熱帯の国々の征服はスムーズだったろうと思われました。軍事技術と医療技術は、帝国支配・植民地支配を確約するテクノロジーと言えるかも知れません。
「何を以って、国民ないし帝国臣民となすか?」の考察も面白かったです。民族的純潔を問わなかったローマと漢の古代帝国について、帝国臣民であるか否かを決めたのは、帝国中心部の文化(使用言語の制限)・振舞い・ライフスタイル等への同化であった…という指摘は、改めて目からウロコでした。古代帝国は、都を中心とした文化的優位性・経済的優位性に彩られており、中心部と周縁部との対立に伴う勃興と衰亡は、シーソーゲームよろしく進行していった…
※プロテスタント系の近代海洋帝国は、血統主義を織り交ぜた「帝国」を採用(血の純潔や肌の白さを重視)
近代の西洋列強という形で現われてきた帝国主義の下、海外植民地の獲得に邁進した近代国家は、程なくして自らのうちに、「ナショナリズム」という強烈な敵を生み出すことになった…その進行を早めたのは、都市住民と都市住民に提供されたマスコミ・システム(新聞の購読など)。
それ以前は、王朝支配スタイル(農民的・宗教的・地方的)ならではの連帯感や忠誠心が殆どでしたが、マスコミを通じて、より可燃性を高めた都市型ナショナリズムが高揚した訳です…
ビクトリア朝末期イギリスのアーサー・シーリー卿の指摘=「国家が国民性の限界を超えて進んでいけば、国家のパワーは不安定で不自然なものになる」という内容は、非常に興味深いものでした。
下巻は、ロシア帝国(帝国以前・ツァーリ帝国・ソビエト連邦)の考察…という内容でした。最後のパートは「帝国以後」というタイトルで、帝国崩壊した後の変容の考察…といった内容。こちらは近現代史を辿ると言う形で、興味深く読みました。
帝国崩壊に伴う脱植民地問題に関しては、先住民が植民地化の際に、非常に人口を減らされていたため、さほど深刻なものにはならなかった…という風に見ることができるようです。とは言え、かつて同じイギリスの植民地だったアメリカと南アフリカは、その後、非常に対照的な運命を歩むことになりました(人口学的要素による差もあり)。
以下、興味深い文章を記録:
・・・ドミニク・リーベン・著『帝国の興亡(上)』より
◆革命的マルクス主義者が20世紀に作り上げようとした新世界秩序にとって、神と帝国主義は最大の敵であった。とはいえ、マルクス自身はヨーロッパの海外帝国というテーマについて曖昧な立場を取っていた。マルクスは、ヨーロッパ資本主義が先住民の経済を破壊したことを気の毒に思ったが、その一方で、ヨーロッパ資本主義は進歩への原動力であり、先住民を「威厳が無く停滞した、植物のような生活」や「獣のような自然崇拝」から目覚めさせ、長期的には本当の意味での人間らしい合理的な生活を希望させるようになる、と考えた。
◆帝国と言う文脈でEUについて語ることは、とりわけ「帝国」ということばがドイツ語の「ライヒ」(ナチス時代のドイツ第三帝国も指す)に相当するため、怒りや不安を呼び起こさざるを得ない。EUはドイツがヨーロッパを支配するための手段であるとする見方は、イギリスに限らず根強い。ドイツはその広さ、経済力、地理のために、ヨーロッパがどのような形になっても、したがって現在のEU内部でも、突出した地位を築くことが出来る。ヨーロッパ地政学の基本的法則が20世紀末になって再び作用しているのである。
ドイツとロシアはヨーロッパ大陸で潜在的に最も強大な国家としての地位を保ち、一方が衰退すれば、他方が興隆する関係にあった。1918年のブレスト・リトフスクでロシアが敗北、解体したときこそ、ドイツがヨーロッパを支配する20世紀最大のチャンスだった。逆に、1945年にソ連が勝利し、ドイツが分裂したことで、東・中央ヨーロッパにソビエト帝国を樹立できたのである。さらに、ソ連崩壊はドイツ統一、ヨーロッパ大陸でのドイツの突出、ほとんどの東・中央ヨーロッパにおける地政学的な「無主の地」の出現へとつながった。この地域に帝国が存在しないことが、バルカン半島での紛争がこれほど破滅的で長期にわたってつづいている理由のひとつにほかならない。
こうして1985年から91年の出来事は、近代ヨーロッパ史の重大な問題を再び明るみに出した。どうやってドイツのパワーをヨーロッパ大陸の平和と繁栄へ向けさせるべきか。
両大戦の発火点となったサラエボからダンツィヒ(現在はポーランドのグダニスク)にまで広がる東・中央ヨーロッパはソ連の支配で沈黙を強いられ、西側が直面した大きな軍事的、地政学的挑戦には、アメリカが責任を負ってきた。ソ連崩壊でこうした情勢は根本的に変わり、その過程でヨーロッパにおけるアメリカの軍事的立場も損なわれている。
このように古くて新しい現実に対し、EUは潜在的であれ、答えを提示している。もしヨーロッパが本当に、世界の秩序と安定の柱になるつもりならば、それはヨーロッパの旗のもとにドイツのパワーを動員することによってのみ可能なのである。
ヨーロッパの国民国家レベルでの伝統的なバランス・オブ・パワーの戦術は、もはや道理に合わず、大陸の資源や潜在能力の浪費でしかない。現在のドイツ連邦共和国はウィルヘルム皇帝の帝国(ライヒ)とは非常に異なり、ナチス帝国とはまったくかけ離れている。
ヨーロッパは、アメリカのグローバルな覇権の影響下にあるのだから、バランス・オブ・パワーの戦術は二重の意味でばかげている。しかし、EU枠内であれば、ドイツのパワーを効果的に動員できるのと同時に、制限できる可能性もある。このことは、フランスのエリートがEUを評価しているという根本的な現実とも一致している。彼らがEUを評価しているのは、ドイツ人に対して歴史的に培われた恐怖心を抱いているからであり、ドイツ人自身もEUを評価しているのは、彼らが――少なくともヘルムート・コールの世代は――自らに対して、またドイツのパワーに対しても、歴史的な恐怖心を抱いているからである。
相互依存がますます進む世界で、ヨーロッパ統合を支持する論理は常に、ヨーロッパ大陸の運命を左右するようなグローバルな問題でヨーロッパが大きな発言力を手にするということにあった。EUはすでに国際貿易に関し、そうした発言力を保っている。通貨ユーロが成功すれば、国際準備通貨としてのドルの独占的な地位も弱まるだろう。また、もし生態環境の問題が深刻になれば、一体となったヨーロッパは間違いなく、一連の小国よりも大きな発言力を持ち、アメリカとは異なる政策を発展させることもできるだろう。グローバルな貧困の問題について明らかに独自の立場をヨーロッパがとるケースも考えられよう。
・・・ドミニク・リーベン・著『帝国の興亡(下)』より
(ロシア)西部国境では文化的に劣っていて、しかも弱いと感じているロシア人の意識は、西ヨーロッパ諸国の海洋帝国主義に見られた文化的な傲慢さとは、まったく対照的だ。西部国境の「ロシア人」住民に一定の特権と保護を与えるよう提唱した元陸軍大臣のアレクセイ・クロパトキン将軍(1848-1925、日露戦争で極東軍総司令官。奉天の会戦での敗北後、左遷された)は次のように述べている。「平等や自由の理念は、文化的に弱い民族にとっては危険であり、逆に強い民族にとっては有利である」。これはまるで、自信に満ちた帝国主義者の発言でも政策でもない。むしろ、これは東南アジアやアフリカで中国系住民やインド系住民の経済的・文化的支配に対抗しようと躍起になっているポスト植民地時代の民族主義政府の発言と政策である。
このように、ヨーロッパとアジアにおいてロシアの帝国主義が異なっていた背景には、根本的に重要な点がある。エリートや政府の視点に立てば、ヨーロッパにおけるロシア帝国のほうがアジアでのロシア帝国よりも、はるかに重要だったのである。ひとえにこれは文化の問題であり、エリートは自分たちをヨーロッパ人であると感じていたからだ。
セルゲイ・サゾノフ外相(1861-1927。1910-16外相。革命後パリに亡命し、自衛軍政府代表を務めた)は1912年の議会でこう述べている。「ロシアがヨーロッパの列強であり、その国家が成立したのも、黒いイルトゥイシ川(西シベリア地域を流れる大河)ではなく、ドニエプルやモスクワ川の岸だったこと……を忘れてはならない」。この発言を聞いたロシアの議員で、ロシアの文化的、歴史的本質をめぐる外相の理解に同意しなかった者はほとんどいなかっただろう。
だが、それよりもはるかに現実的で重要な要素があった。西部国境地帯は、ロシアにとっての唯一の脅威――ヨーロッパからもたらされた――からのロシアのパワーの政治的、経済的中心地を守っていたのである。加えて、西部国境地帯はロシアのアジア地域に比べて、はるかに豊かで人口も多かったため、歳入の増加や軍事力の強化に著しく貢献してもいた。これは特に、19世紀から20世紀にかけてのウクライナにあてはまる。1900年までにウクライナは、主な農業地域であり穀物輸出の一代中心地となっていたため、国際貿易のバランスをとる上でも、ひいては近代化に不可欠な外国からの借款をロシアが受け取るためにも重要であった。1914年に先立つ50年間には、ウクライナ東部も炭鉱業と冶金産業の中心地になった。こうして、1917年から18年にかけて起こりかけたように、ロシア帝国がウクライナを失えば、ロシアはもはや帝国でも大国でもなくなってしまう恐れがあった。…(中略)…1980年代までに、もしウクライナの巨大な人口がなかったら、ロシアはソ連の中で孤立し、文化的に異質で経済的に後れ人口も急増しつつあった南部周辺地帯の「ムスリム」に囲まれていただろう。
もし、そうなっていれば、政治的には帝国を維持することも不可能で、それがロシア人の利益にもならないことが間もなくわかったに違いない。実際のところ、1991年秋にウクライナが独立を決意したわずか数日後に、ソ連は崩壊したのである(モスクワでの保守派クーデターの失敗直後、ウクライナは8月24日に独立を宣言。12月1日の国民投票で九割以上の賛成を得て独立宣言が承認された。独立国家共同体CIS誕生は12月8日で、ゴルバチョフは25日にソ連大統領を辞任した)。
◆陸上帝国と海洋帝国では医療の歴史も異なっている。…(中略)…もし人間の死が帝国の強制する最も高い代償であるとすれば、虐殺あるいは搾取よりも、むしろ病気こそが帝国のもたらす最大の犯罪であった。アメリカ大陸やオーストラレーシアでは、先住民が免疫を持たない病気が流行し、虐殺に匹敵するような結果がもたらされた。
黒死病(ペスト)がヨーロッパで大流行したのは、モンゴルがユーラシアのほぼ全域を統一したためだ、というウィリアム・マクニールの主張が正しければ、ヨーロッパ人もかつて、図らずも帝国の膨張の犠牲者になったわけである。ロシア人の到来以前のシベリアでは、ほとんど天然痘は確認されていなかった。ロシアによる膨張はおおむね、単一の生態内で膨張していったため、大半の住民(シベリア北部の一部住民は除いて)はすでに、ロシア人がもたらした病気に対する免疫を持っていた。
◆植民地化や帝国をめぐる西ヨーロッパ人とロシア人の考え方を分け隔てるのに、地理は重要な役割を果たした。ジョン・エリオットはこう述べている。「『恐ろしい海』を渡っていくという経験は、ヨーロッパからの移住者に数世代にもわたって深く刻み込まれた」。いったん「新世界」に足を踏み入れれば、植生や気候、動物が明らかに本国とは異なっていたから、入植者自身、新しい生活を踏み出すのだという気持ちを新たにした。グロスターシャー(イングランド南西部の州)には結局、カンガルーなどいないのである。
一方、ロシア人入植者は、川を下り、ステップ地帯を越えていくという先祖伝来の移動方法を踏襲していたため、そこがロシアとはまったく別の場所であるという感覚を受けなかったようだ。現在のロシアでも、植民地と本国を区別する強力な伝統的感覚を欠いていることが、ポスト帝国時代におけるロシアの国境線の正統性や安定に関して、重要な結果をもたらすかも知れない。
・・・《以上》・・・
(補遺)筆者の説によれば、バランス・オブ・パワーが17、18世紀に遊牧民社会から定住社会へと完全に移行するまで、ロシアは遊牧民からの侵略と圧力に弱かったという。このため、モンゴル帝国、次いでキプチャク・ハーン国の影響下にある間(1240年代から15世紀後半まで)、ロシアは徹底的にヨーロッパから切り離されていたと見ることができる。
その後のロシアは3世紀にわたってヨーロッパの影響を受ける形になったため、19世紀になってからいきなり西洋列強と対峙した中国や日本とは、全く異なる帝国概念を培うことになった。
ただし、ロシア人が抱く帝国概念を考察する際、地理的ファクターは確かに重要だが、過大視すべきではないという(地理的決定論の尺度では、ロシア人の帝国概念を説明し切れない部分がある)。