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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『月瀬幻影』

◆大室幹雄・著『月瀬幻影(げつらいげんえい)』中央公論新社2002

〝風景のナンバリングまたは政治学(227p-232p)〟より、興味深い議論を記録…

・・・(前略)ナンバリングの発想は漢土の古代、中国文明の歴史のうえで、思想が、従って言説が、相対的にもっとも自由で、それなりに多様な可能性の萌芽がきざしていた戦国時代(前403-前222)に確立された。筆記の用具が未発達で貴重品だったこの時代に、書物のコピーはきわめて少なかったから、学問をすること、読書することはまず第一に暗誦し記憶することだった。記憶すべき対象を整理し限定して数にまとめる、これはたいていの人が経験で知っている暗記術の初歩である。つぎに中国語は単音節言語、明るく開きっぱなしの一個の音節が一個の意味を有する言語で、動詞をはじめ形容詞、名詞に人称・時制・格などによる屈折変化がないし、語そのものにそれ自体としては品詞の区別がない。それで一音節からなる一語は、他の一語(一音節)と容易に結合して、意味が限定された。逆に拡張された複数音節(通常は四音節どまりが好まれる)からなる新しい一語がつくられる。・・・(中略:瀟相八景のひとつ「平沙落雁」について、音節結合の例を挙げている)・・・
これらの要因に加えて、ひとくちに諸子百家と呼ばれる多様な学派と思想のうち法家の韓非が現われて、その明快な言説においてナンバリングの長所を最大限に活用した。・・・(中略)・・・
韓非の活発で犀利な言説は、かかる絶対的専制の理想を実現するにあたって、それを阻害する困難がいかに多く存在するかを抉剔(けってき)することに向けられた。・・・(中略)・・・シニカルな心理主義によって、絶対的専制の実現を妨げる障害をあばきだすリアリズムは、放胆かつ躍動的であり、飾りも媚びもなしに覚書のようにそっけなく書きつけられた言説はほぼ数学的な明晰にちかい。その覚書に類いする散文に多用されているのがほかならぬナンバリングのレトリックなのだった。・・・(中略)・・・
(と過去形で書いたけれど、ナンバリングによる思考と言表が政治的言語として活用されたのが韓非の時代特有の現象ではなく、現存中華人民共和国において最大限に使用された(ている)ことは、毛沢東と彼の共産党によって、二十世紀半ばに敢行された二回の革命において、たとえば、今日ともなればすでに骨董的な「三大規律」「八項注意」以下「黒五類」のたぐいにいたるまで、ひんぱんに夥しく発動されて、何がどうやら永久にわからないままの老百姓(ラオパイシン)たちを熱烈歓迎、感涙、熱狂、恐怖、怨嗟、失望、冷却に駆りたてつづけた政治的口号(スローガン)の堆積によって記憶に新しい(?)であろう)

(感想1)・・・この辺りの中国語の事情は、全然知らない事ばかりだったので、非常に参考になりました。言語が政治体制を創出する現場に立ち会った…ような思いがします。

政治と記憶術には非常に密接な関係があって、そこにナンバリングと言う手法が導入されると、それまでバラバラの無秩序な相だったものが、極めて序列化パワーの強い数字と連結することによって、人間が集ったその無限定の場に、一気に社会秩序(政治制度)の相(それがたとえ世界の非常に微小な部分だったにせよ)を現出するという図式が浮かび上がってきました。

(そして、当時の政治は祭政一致スタイルで、儀式順序の記憶は、極めて重要だった筈…)

※身近なナンバリング…「春の七草」「秋の七草」という形で記憶する方法がありました…^^;

中国語が単音節語だというのが、ナンバリングを使った言論が極めて効果的に働いてしまった要因では無いかと思いました(大室氏による細かな議論の部分があって、ちょっと分かりにくかったけど、ほぼうなづけるように思いました。当方から何か付け加える事があるとすれば、「数字の魔術」でしょうか:タロットからの曖昧な感じで恐縮ですが、数字そのものに象徴性や寓意性を見ると言うオカルト的な心理も作用したかも知れない、というようなものであります。たとえば「八は吉祥の数字」とか…)。

このようにナンバリングの思考と言説は、権力もしくは権力への期待による支配と管理と抑制の政治的論理である。世界の無限性、環-世界(ウム-ヴェルト)の多彩な魅惑、社会の猥雑な多様性はこの論理にとって本質的な敵である。この論理にあっては、未知なもの、不可知なものはすべて嫌悪され排除されなければならない。それらは人を無限の可能性の原野へ誘い出すけれど、その原野へ迷いこんだばあいの人間の浮動と社会の流動を、この論理は嫌悪して否定する。無機的なまでに冷厳な秩序と安定へ人間と社会のありようを固着させることがこの論理の第一原理だからである。・・・(中略)・・・その限界はこのうえもなくせまい。しかしそれが極まれば、一種シニカルな明快と軽捷を思考と言説の双方に(さらには行動まで)わたって発揮しないではいない。それは単純なものに固有の属性である。そしてそれが前記のような中国語の特徴に従って放恣に濫用されるとき、未知なものの排除のあとに残された極く少数なものの真らしさの信憑性を高めないではいないから、反復して口号されるナンバリングの言説は、人びとの思考と感受を対照的世界の全事象、のみならず世界全体が彼らの理解のうちに明らかになったという確固不動の心理-精神的な安定をこしらえあげることに成功する。

(感想2)・・・ナンバリングのキモとは、実に「数字を制するものは世界を制する」という呪術的な考え方なのだなあとシミジミです(この辺りは、二進数の数字を使って世界の相を判別すると言うスタイルを取った『易』の普及で、増幅・強化されてしまった部分があるかも知れない…)。

自分ないし他人が生み出した言語=思考に呪縛されるというのは、何とも言えないですが…(ニガワライ)

それでも、人間心理というもの、完全に言語化(意味分節/幻想)できないような完全なリアルの混沌の相には、耐えられないのかも知れません(何処かの詩人が、「嘔吐」と表現していたような…)。人間は秩序の中に生きる生き物であります。一番身近な秩序が、どのような未開の社会にもある「親/子/孫」という秩序…

問題は、目の前の身近な風景を見る時、景勝を見る時、世界を見る時、宇宙を見る時――その認識において、人間の頭脳は、如何に多様な秩序の相(認識の相、あるいは幻想)を編み出しうるのか?という未知の可能性の方だと思いました。

中国的な言語結合の思考(ないし漢詩的文脈)やナンバリング思考による秩序の認識は、風景批評を可能にするような完成された世界観を構成するひとつの回答ですが、それだけが唯一絶対の正しい答えという訳ではなく、おそらく、我々がまだ知らない秩序パターンのあり方――認識のあり方――が、宇宙には無限にあるのだろうと想像しています。

東洋の認識スタイルでもなく、西洋の認識スタイルでもないもの…それを日本古来の伝統文化が生み出せるのかどうか…となると、「ちょっと心もとないかなあ」と言う部分もありますが…(でもそれなりに、期待してみたりする…)

…と、キマジメに考えてみたのであります…(余り大した内容じゃ無いですが・汗);^^ゞ

最後になりましたが、毎度コメントありがとうございますm(_ _)m<読書のヒントになりました

コメント・メモより⇒
〝『月瀬幻影』ですが、わたしが以前アマゾンの書評に書いた以下の部分が核心だろうと今でも考えています。<シノワズリ(シナ趣味)の江戸人たちの風景の見方、つまり自然をそのままに見るのではなく、社会的秩序に従って見ること。ここでは彼らの頭を満たす漢文の世界観、審美観によって風景を見出すこと、それはほとんど幻想であること。本書のポイントが、もうすでに書名に見事に表徴されている。>、と♪〟

《おまけ》・・・311pの〝ムラ-ゲマインデ概説〟に添付されていた図版は面白かったです^^

古代(5-6世紀ごろ)の地方豪族の居館の図、中世の土豪領主の居館の図、近世17世紀ごろの豪農屋敷の図、歴史も建築技術も、ゆうに千年の差がありますが、構造的・機能的な部分がまるで変わって無いので、笑ってしまいました。

自分の田舎にある、元・網元(水郷エリア)のお屋敷や、元・名主(水田エリア、今は収入が大きい芝生の栽培がメイン)のお屋敷も、建築こそ20世紀バージョンに近代化されてますが(=厩が屋根つきの駐車場になったりとか)、まさにそんな感じ…

「宗家」とかもあって、昔々は、分家の方では宗家から来たお嫁さんに頭が上がらなかったとか、そういうエピソードを聞いたことがあります。田植えの時期は、身元不明の「フーテンの寅さん」みたいな不思議な人も厩とかに泊めてあげて、屋根や食事を提供する代わりに、田植えを手伝ってもらっていたとか…、ただ、いつ頃の話かは分かりませんでした。江戸時代という感じはありましたが、江戸時代と戦前時代と滑らかに連結している状態なので、余り区別が付かないのです。

自分が子供だった頃も、「元・網元」とか「元・名主」とかいう家は、割と地域に影響力を及ぼしている部分があったみたいで、「網元ってとっても偉いんだからね、気をつけてね」なんて注意されたことがありました…^^;

そういう田舎事情を思い出してみると、鳩山前首相が「皇族の血筋をひいている高貴な家の出」というのは、北海道の方でも、何故か当選確率が高いとかいう風に、政治的な影響力などが極めて大きくなっている理由のひとつと考えられるのかも知れません…

でも最近は、第一次産業中心の共同体構造が崩れてきた影響か、田舎の雰囲気も変化しているようです(さすがに、時期的なものとしては、3.11東日本大震災の被害を受けた影響もあるかも知れないです。部分的にせよ集落人口がいっぺんに削られると言うのは、けっこう深刻なものがあります…)。

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