読書:平安の宗教文化・前篇
読書ノート『平安時代の宗教文化と陰陽道』山下克明・著、岩田書院1996
《第三部「星辰信仰と宿曜道」を中心に覚書》
★星辰信仰の系譜-1.インド占星術と仏教★
インド固有の天文・占星術は、紀元前6世紀頃からヴェーダの祭式を補助する学として発達した。黄道を星座によって区分した27宿ないし28宿を中心に各宿の性質や宿と日・人との関係によって占うものだった。
紀元前2-3世紀頃、ギリシャ・バビロニアの占星術が伝わる。それは曜日の概念と個人の誕生時における黄道12宮上の日月・惑星の位置関係により個人の運勢を占うホロスコープ占星術だった。それ以後、インドでも惑星の位置関係などを割り出すため、数理天文学が発達する。
仏教は、このようにして発達したインド占星術の知識を受け入れ、そして次第に、仏教伝来の波に乗って、中国に伝わっていくのである。
以下、代表的な経典
【3-4世紀の訳出】…27宿ないし28宿について、各宿を主宰する神格や所属する氏族、その宿に月が位置する日(=宿直日・しゅくちにち)の行動の善悪、その宿の下に生まれた人物の性格や運勢について述べる。また、日月五惑星(=七曜)にインド発案の架空の日蝕&月蝕を起こすとされた悪神「羅睺(らごう)」、彗星「計都(けいと)」を加えた九曜にも言及する。
- 『摩登伽経(まとうがきょう)』…呉の竺律炎と支謙による翻訳(『大正蔵』第21巻399頁)
- 『舎頭諫太子二十八宿経(しゃずかんたいしにじゅうはっしゅくきょう)』…西晋の竺法護による翻訳(『大正蔵』第21巻410頁)
【5世紀初頭の訳出】
- 『大智度論』…後秦の鳩摩羅什による翻訳
第八(『大正蔵』第25巻117頁上)に、28宿を4つのグループに分け、月が各宿に存在する日と地震の関係への言及がある - 『大方等大集経』…隋の那連提耶舎による翻訳
宝幢分・日蔵分・月蔵分(『大正蔵』第13巻138頁,270頁,371頁)に28宿・7曜について『摩登伽経』と同様の詳細な説明がある。また12宮の梵名も記す
【盛唐】…密教伝来と共に内容が豊富になる。27宿9執(=9曜)に基づく吉凶善悪+新しい占星術要素が見られる。密教では特に現世利益や不祥災厄を攘(はら)う修法の効験が説かれる。
- 『金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』…金剛智による翻訳/下巻第九(『大正蔵』第18巻259頁)
- 『大毘盧遮那成佛經疏』(『大日經疏』)…善無畏による説、及び一行による記述/第四(『大正蔵』第39巻616頁)
・・・《メモ》・・・
密教で説かれている「不祥」の内容は、不空による翻訳『熾盛光息災陀羅尼経(しじょうこうそくさいだらにきょう)』(『大正蔵』第19巻337頁)によれば、次のようである。
若有国王及諸大臣所居之及諸国界、或被五星陵逼、羅睺彗孛妖星、照臨所属本命宮宿及諸星位、或臨帝座於国於家及分野処、陵逼之時、或退或進作諸障難者、
また、同じく不空による翻訳『葉衣観自在菩薩経(ようえかんじざいぼさつきょう)』(『大正蔵』第19巻447頁)によれば、次のようである。
若国王男女難長難養、或薄命短寿、疾病纒綿寝食不安、皆由宿業因縁生悪宿居、或数被七曜陵逼本宿、令身不安
以上、要するに、日月五星・羅睺・計都(彗孛・すいはい)等の惑星が個人の本命宮・本命宿を侵犯する現象を、国王以下の災厄とする…という認識であった。
本命宮とは、12宮のうち個人の誕生時刻に東の地平線に昇ろうとする宮のこと。西洋占星術で言う「アセンダント(上昇宮)」で、元はバビロニア占星術の重要な要素だった。一方、本命宿とは、誕生時刻に月が所在した27宿のうちの1つで、インド固有の要素である。本命宮と本命宿は、共に個人の一生を支配する星とされ、九曜(九執)の侵犯によって生起する厄難の消除が、密教の一課題とされた。
こうした最新のインド占星術の知識をまとめたのが不空による翻訳『宿曜経』(=『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』=)とされているが、原点が存在せず、実際は部分的な記述に留まっているという。『宿曜経』だけだと、インド占星術の初歩的な概説に留まるため、全貌が分からない状態だという事が、矢野道雄氏の研究によって明らかにされている。惑星の計算法も記述されておらず、ホロスコープ占星術を行なうには内容が不足し過ぎていると言う。
しかし、唐代の高僧・不空の指導的地位・影響力は、当時は非常に大きなものであったと言われており、日ごとの吉凶や行動タブーを割り当てるといった分野では、わが国にも大きな影響をもたらしたであろうという事が推察されている。
★星辰信仰の系譜-2.中国天文家説と道教の星辰信仰★
殷周革命以来、中国では天帝を至上神として尊び、占星術は天帝が起こす天文現象の中に天の意思を読み取る術とされてきた。『史記』天官書によれば戦国期は不安な世相を反映して多くの天文家が現われ、秦では太白(金星)、呉・楚では熒惑(火星)の運行で予兆を占ったという(=諸国ごとの占星術があった)。
漢代の頃、従来の諸国の占星術は、天人相感の思想の下に体系化された。
全天の星座は北極星を中心に北斗七星など周辺の星座を含む中官、28宿を四方に7宿ずつ区分した東西南北官に分けられた。それらを皇帝・太后・太子・官僚・官曹或いは公的施設に対応させ、それぞれの星座に関わる変異を、地上における国家的変事の予兆と見なしたのである。特に前漢末期に緯書(神秘的予言集)が流行した時は、天変に際して緯書の内容を典拠として天文占いが行なわれた。
(変異の例=惑星の星座侵犯現象、彗星の出現と接近、星の増光・減光など)
公的祭祀においては、北極星=北辰が最も重視され、緯書の思想の中で天皇大帝と同一視された。鄭玄の礼学で、儒教の至上神=天帝(昊天上帝)とも習合したが、唐代には分離し、星辰は天帝の下位に位置づけられた。
他に、日・月・参辰(おそらくオリオン座三ツ星)・南北斗・熒惑(けいわく・火星)・太白(金星)・歳星(木星)・塡星(ちんせい・土星)・28宿の祭祀があった。農業神としての霊星の祭祀もあったという。
緯書はその後の弾圧で散逸したが、唐代天文類書『天文要録』『天地瑞祥志』『乙巳占』『開元占経』などに、天変の種類ごとに諸書の予言が分類されており、太史局の天文家はこれを使って前兆を占ったという。この天変を占う占星術が7世紀ごろ日本に伝わり、律令体制下の陰陽寮の天文博士の職務となった。
漢代以降の道教では南斗星・文昌星・老人星など様々な星辰が信仰されたが、最も重要視されたのは北斗七星である。北斗七星は、夕刻に出る柄の方角により季節の変化を知る目印となり、生活と密着した星座でもあった。南北朝時代の北斗七星は、北極星と同様に人の生命を司る「司命神」と見なされていた。
例えば、隋の粛吉撰『五行大義』第16-論7政によれば「黄帝斗図云、一名貪狼、子生人所属、二名巨門、丑亥生人所属、三名禄存、寅戌生人所属、四名文曲、卯酉生人所属、五名廉貞、辰申生人所属、六名武曲、巳未生人所属、七名破軍、午生人所属」となっている。この配当は緯書に由来するものであったらしいが、生まれ年によって決まる属星が人の運勢を支配するという内容は、道教の星辰信仰で主流を占める要素となっていった。
(北斗の祭祀儀式を記述した道教経典…『北斗延生醮説戒儀』『北斗七元星燈儀』『太上玄霊北斗本命延生真経』『太上北斗二十八章経』『北帝七元紫庭延生秘訣』etc)
★星辰信仰の系譜-3.中晩唐期の星辰信仰★
- インド占星術=27宿・12宮・12位の黄道座標の上に個人の誕生時より本命宮・本命星を定め、9執(9曜)の所在により個人の運命を占う。惑星の位置計算を必要とする
- 中国占星術=官曹と対応する星座上における変異を以って国家及び為政者の未来を占う。惑星の位置計算を行なう必要性はあまり無い
- 道教占星術=北極星・北斗七星を主な要素とする。惑星の位置計算を行なわない
密教が隆盛した8世紀末頃から、密教と道教信仰の習合が目立ってくる。中晩唐期のいわゆる唐代後期密教は極めて道教民俗化の様相を示すが、それは特に星辰関係において顕著であり、数々の混合的な星辰祭祀関連の書籍が現われる(=例=『宿曜儀軌』『北斗七星念誦儀軌』『北斗七星護摩秘要儀軌』『仏説北斗七星延命経』『七曜星辰別行法』『北斗七星護摩法』『梵天火羅九曜』etc)。
庚申三尸説と仏教との習合時期=9世紀半ばと推察されており、道教の信仰を特に濃厚に取り込んだ雑密儀軌の成立もあったとされている。
安史の乱以降、社会不安の中で星暦を習う者が増加し、七曜吉凶説と共に九曜を使うホロスコープ占星術も流行した。密教と道教の習合の中で、互いの要素が互いに浸透し合ったのである。
ホロスコープの作成には九曜の位置計算が必要であるが、中国の官暦法にはインドで想像された羅睺・計都の二隠星は載らなかった。ここで利用されたのは『七曜符天暦』(8世紀末頃、術者の曹士蔿=そうしい=が作成)だったと考えられている。唐代から民間で流行し、五代には準公暦的な地位を占めていた。
また、密教の書籍では『七曜攘災決』(9世紀、金倶吒=きんぐた=が撰する)があった。七曜の災厄及び攘災法、十二位と七曜の組み合わせによる吉凶、さらに28宿を座標に毎月一日における九曜の位置を記した表を含み、仏典としては特異な内容になっていた。九曜ホロスコープを前提とし『符天暦』と親密な関係を持っていたが、精密なものでは無く、特定日時の九曜の位置を知ることは出来なかった(この書を以って個人のホロスコープを組むことは困難とされている)。
平安時代以降に日本で隆盛した陰陽道や密教の星辰祭供は、以上の要素を元に形成されたと言われている。
《後篇へ続く》