差別と区別・考
【差別と区別】http://homepage2.nifty.com/Daiou2/インターネット研究会Jさまより転載
「インターネット研究会J」の管理人さまは、トラブル処理のような事をやっておられるようなのですが、最近の記事に、非常に考えさせられた内容があったので、今後の思案のために保存させていただきます…m(_ _)m
―以下、転載(読みやすさのため改行加工させて頂いております)―
私が調査を苦手とする事件はいつも共通している。それは、ある特定の外国人犯罪。いわゆる在日系とかいう人が行為を行うと、困難が一つ増えるので困る。
悪い事をした人がいる、そして、その人には何らかの仲間がいる…とする。証拠をコツコツ集めて解明したとしましょう。すると…「差別するヒドい人」のレッテルが貼られる時がある。悪い事をした人が、たまたま在日系であり、仲間に在日系が多くいただけの事。調べたらそう出たのだから仕方がない。私がしたのは差別ではなく区別である。
どうやら、これを混同する人たちが多いようだ。現在、日本では特に偏重しているように見える。
差別と言うのは理由説明なく「在日は悪質」と言ったり「あいつはXXだ」と言い放つケースの事を言う。別に国籍は関係ない。日本人同士が根拠なく言いあっても同じことなのだ。
被害者は実際に被害に遭っているので、こういう理屈も理解が早い。
問題は『区別』を『差別』と勘違いしている人たちだ。「差別するな」と憤る人は正義感が強いが、少し踏みとどまって読んでほしい。
何十万の人がいて、犯罪率は日本人の○倍とか、なぜ在日外国人でも国別の傾向があるのか? どうして犯罪率に差が出るのか?ある特定の国が増える、この原因を知っているだろうか。
犯罪をするかどうかのギリギリの境界にいる人は多い。どの国の人でもだ。
その時に一回は偽名が使えるとしたらどうだろう。簡単に犯罪に走る人が出てくる。偽名というと悪いイメージかもしれない。偽名は「通名」と言って銀行などのカードが本名と2枚作れる。凶悪犯罪で一回逮捕されても、別の名で生きれば別人としてお天道さまの下を堂々と歩ける。一回逮捕された経験から、次はこの程度で止めれば逮捕されないなど把握し、スキルが高くなる。問題だ。
逮捕された在日アメリカ人が通名を使ったとしよう。微利・呂(ビリー・ロー)で写真は目が青い。ハッキリ言って恥ずかしい。だから在日アメリカ人は本名がメインで殆どの人が通名を使わない。不要だ。
国によるんだが、通名を好んで使う○○系があるからこそ問題となっている。私は一つだけを使えばいいじゃないかと思うし、どうしても二つ必要と言う理由は理解しにくい。
環境が人を変えることも多い。社会で出世したらその立場に似あうように頼りがいが出たりする。逆に、悪いことをするのに有利な法律があれば、悪者へと簡単に落下するのも同じだ。調べたことがあるのに差別と言うなら問題はない。知らないのに差別を正義感で使うのは、間違ったことをしでかすケースが多い。
犯罪率が6倍というケースがあるようだが、こういう場合を「区別する」という。原因になっている法律があるのなら、修正していくのが必要だ。犯罪は少ないに越したことはない。
悲しいことに、被害者が声を上げても、被害を受けてない第三者が「差別するな」と抑える傾向がある。「差別しない」というのは立派な姿勢である。それを私は否定しているわけではない。私自体、60か国以上を訪問し国籍で人間を見ないのに、差別主義者と言われて閉口したこともある。
よく共通するのは、加害者が「差別されて私は悲しい」というので同情心に訴えかけられて、いつの間にか加害者に加担してしまったというものだ。悪い結果が出てからでは遅いんだ。加害者は本当に差別されていたのか?具体的に悪さを指摘されてたのじゃないか?いい加減ではなく確かな根拠があって悪さを指摘されていたのなら、それは差別ではなく区別である。
何の根拠もなく○○系は悪いとするのが差別である。ネットの記述を含め、特にこれの区別が必要。
知るキッカケがあったら勉強すればいい。間違えてたら学びなおせばいい。
くどいほど「差別と区別」の繰り返しをしてますが、わざとです。
―以上、転載終わり―
(コメント)・・・人間はどうしても事前調査を怠り、人の意見に流されて、楽な判断をしたがる生き物であります。こういうバランスある姿勢を養うのは非常に大切だけど、ものすごい根気と忍耐力が必要で、日常生活に追われる一般人には、困難なことでもあると思いました。
最近は、「電力は足りたか?」「足りていなかったか?」で論争が起きているのを見かけましたが、このモノの見方にも、差別と区別が混同されているケースの方が、ずっと目立っているように思いました。
あとは、放射能に関する様々な意見がネットに広がっているようですが、これは、意見を述べた人物の「その前後の行動」を、じーっと観察して判断するしかないと思います。
こういう時代なので、ツイッターでもブログでもホームページでも、「その意見(情報)を選択した責任」というのが生じてまいります。「解釈には責任が伴う」という事であります。それは言論の時空を構成する、我々自身の責任でもあり。
個人的には、自らの専門分野の話を分かりやすく論じること無く、いつの間にか、人気取りのための一方的な主張や政治的なアジテーションに移行したりしていたら、「その人物は信用できない」という基準を設けて、判断しておりますが…(その論で言ったら、マスコミは殆ど「信用できない」グループに入るかも)
占い的なモノの見方になりますが、基準のハッキリしないテーマに関しては、「善人が悪人になり/悪人が善人になる」という奇妙な逆転現象が増える傾向があるので、決定や判断についてはくれぐれも、一呼吸置いて、慎重に…という事しか言えないですね(「思い込み」が一番怖いです)