意識と変容・雑考
この記事は、当ブログ=《思案:匿名・実名と社会責任》という文章化がきっかけとなった「全くの不意打ちの、或る悟り」があり、その内容を文章化してみたものとなります。実際は膨大な量とも思える悟りがあったのですが、とりあえず、今の時点で公的に文章化できるものだけ文章化
社会のあらゆる中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人は、だいたい過激な言葉で過激な意見を出す人が多いようです(ナントカ維新とか、徹底的な政権交代とか)。そして、膨大な中間プロセスを省いた、一ッ飛びの「結論」を好む。
それは残念なことに、社会をいっそう混乱させ、普通の人々を苦境に追いやる「ラディカルな意見」である事の方が多い…その過激さで、我が身の未熟性・浅い見識を呈していることに自分で気付かない人が多い…というのも、まま見られることです。
個々の社会現象を連結している膨大な中間プロセスの要素に対して、想像力が働くかどうか。「点と線」を繋げる強力な思考力があるかどうか(=古代人は、この思考力を豊かに持っていた。間違い無く)。それが、人の見識の大小を、そしてひいては、決断する政治家の質を決める、決定的な要素である…と自分は思うのであります。
社会…政治、マクロ経済とミクロ経済、国内外の情勢の変化、折節の季節の要素…
それは阿頼耶識の深淵の底から、各種の膨大な数の意識要素が立ち上がるプロセスにも似て。
中間プロセスや因果律の構造を軽視する人は、それだけ表面的な、点在的な思考にもなりやすい。モノゴトの一面しか見ようとしない、見えない…今見えている表層的な現象を支えている、中間層や深層といった、水面下の多様な繋がりや要素を見ようとしない。でも、時間に、空間に追われている人間としては、多くの要素をシャットアウトして生きていくしかないのも現実。
人間は見たいものを見る生き物、信じたいものを信じる生き物。そして「自分がどう見られるのか」をさえ、コントロールしたい生き物。だから宗教があり、信念があり、個人のポリシーがあり、無意識的・意識的な演技や演出があるのです。それは全て、個人レベルの阿頼耶識から生まれ出でたものが、決めるもの。
ソクラテスは「無知の知」という事を言っている。人が賢明になれるとしたら、その「無知の知」の奥義を極めた後の事なのでは無いかと思いました。それは、意外な事に「正しい恐怖心(=精神の一極集中により、鋭敏な予見力を発揮する)」ないし「未知のものに対し、正しく畏怖する心」なのです。
その心が弱い人は、「何が原因か?」「次に何が起こるのか?」という因果律的な想像力を働かせる力が弱い。未来が見えないことがとても不安であるが故に、予言にも振り回されやすい。個人レベルの生命としては、「死にやすい生命体」に区別されるのだと思う。人類文明社会の圧倒的な構造力がもたらす強力な保護が無ければ、野生自然状態では、あっという間に淘汰される存在です。
革命。それは、人類文明社会の基盤を破壊しない様式で成されるべき「変容」です。
社会の基盤システムとは何か。その前提、定義、存在、中間構造にすら想像力が及ばない人々は、自らの手で自らの保護システムを破壊し、荒らぶる自然環境の中にさらされ、国際社会環境の中にさらされて、淘汰される存在になるのです。
その意味で、我が手で我が死をもたらす「思考停止ゆえの革命」集団自殺は存在します。その革命の意義を支える狂気の暴走の前では、あらゆる論理、あらゆる思考が停止する。
自分の正義を信じる人は、概して、自分の意見を点検することなく相手にだけ譲歩を求める。それは言ってみれば、「退かぬ!媚びぬ!!省みぬ!!!」(by『北斗の拳』)です。
自分の、帝王の如き正義感や高貴さを信ずる余り、自分が思考停止していることに気付かないのです。不愉快な相手をやり込めるためだけに過激な言葉を使い、過激なレッテル張りを使い――そして、しまいには相手の言論弾圧にまで及ぶ。「お前は既に死んでいる…by『北斗の拳』」というレッテル張りをすることもある。
そうして、自分だけの論理を永遠にループする。それが思考停止。新しい要素や変化した前提を自分の思考に織り込むことができなくなっているのに、それにも気付かずに、もはや次元上昇も変容もしない思考経路を、全力で走り続ける。無意識のうちに、同じ行動を永遠に繰り返す。
それもまた、個人レベルの阿頼耶識が決めるもの。他人は、その人の阿頼耶識が表層意識にまで現われてきた「何か」、つまり「その人を構成している各種の要素」に気付き、指摘するだけです。しかし、同時に、気の遠くなるほどの膨大な中間層・深層の要素に、意識的に気付くこともある。「魂(自我の座)を読む」。非常に珍しいことだと思うけれど、案外、無意識領域では頻繁に起きていることなのかも知れない。
「変容しない」という事が、その人にとっての幸いならば、その人にとっての世界は逆転する。「人類社会という特殊な人工環境」は、そのような逆転現象をも、広い範囲で許容するのです。「何故?」を自分で考えなくても、誰かが、答えを出してくれる。それが人類社会が進化した方向。我々は皆、「我々そのものである社会」を、上から目線でけなし、批判しつつも…肝心の自分は何をしたら良いのか分からないまま、完全に依存している
現在、地球環境は激変しつつあります。地球は、「変容しない存在」を淘汰し始めるという事なのかも知れません。それはあくまでも、地球にとっては、「思考停止ゆえの革命」ではありません。「変容」なのです。
自分が、その地球の変容にシンクロ出来るのかどうかは、自分にも分かりません。これは「生きてある存在」ゆえの、答えの無い問題です。この道の専門家はおらず、自分で考え、思いつく限りの多様な対処をするしかありません。「次に何が起こるのか?」と緊張しつつ、自分の知らない「あらゆる方向」に、アンテナを伸ばすのみです。
思うに、社会を支える膨大な中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人というのは、自分以外の何処かに「理想的な答え」を見出すのが上手い人でもあるのかも知れません。
「理想的な答え」「決定的な瞬間」を見出した時、意識は、それ以上考える事をやめる。平板化・硬直化が起こる。その過程で、その場でしか有効では無い瞬間沸騰的な「浅い見識ゆえの高揚」が生じた場合、「思考停止ゆえの革命」に発展し、場合によっては、集団自殺をもたらす。
利点と欠点は、同じものの「表」と「裏」なのです。タロットカードに正位置と逆位置があるように、それはいずれとも決めがたい。場の状況に振り回されるままに、あっけなく価値逆転する要素ではあるけれど。
…瞬間的な、脆弱な意識を持つ人をも、人類社会は守る。地球環境の激変が、社会基盤の破壊にまで及ばない事を祈るものではありますが
以上のような事を、現状の前提のもとに、自分は思考しました。
自分は、まだまだ「学ぶべきもの」が多い者であります。
前提が変われば、今回の結論も変わると思います
《補足》
「信じる」というのは真に貴きこと、大切なことだと思います。
「何を信頼性の基本とするか」です。身分?言葉?行動?フィーリングの一致?
判断基準は、人によって異なる。自分の判断基準が何なのか、多様な状況に応じて、自分で決める。未知の状況にも応じて自律できる柔軟な精神状態であれば、それで良いのです。
しかし、未熟な精神状態にある「精神的赤子」のうちは、「自分がこの人と決めた」精神的指導者に、指導を仰ぐという事が絶対的に必要です。多くの場合、それは親であり恩師であります。或いは忘れられない本とか。
精神的指導者にも色々ありますが、自分の無意識的なビジョンに応じて変化するので、内容に関しては、余り確定して言える事は無いと思います。
自分のビジョンや意識が成長すればするほど、それに応じた人物や出来事と出会うものです。一貫するものがあるとすれば、それは「シンクロニシティ」に他なりません。そうして畏怖すべき未知の世界もまた、広がってゆく。おそらくは無限に。
「縁」というものの神秘は此処にあり…と思えるほどです。
http://twilog.org/t_ota/date-121105"
太田俊寛さまの2012.11.5ツイート
>小林和彦『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』(新潮文庫)を読了。巻末の解説によれば、著者の病状は現在の精神医学では「統合失調感情障害」と呼ばれるものとのことだが、パラノイア的な世界観がきわめてクリアな文体で描き出されており、とても参考になった。
>パラノイアの思考様式においては、対象の範囲を限定して綿密に考察することができなくなり、世界全体を「救済か破滅か」といった単純な二元論で捉える傾向が顕著となる。こうしたパラノイア的世界観は、統合失調症のみならず、その他の精神障害、カルト宗教の教義や陰謀論にも見受けられる。
>また、精神障害者ではない普通の人であっても、何かの切っ掛けで極端に心の余裕を失ってしまうと、同種の思考法に陥ってしまうのではないだろうか。その意味において、パラノイア的世界観は、実は人間理性にとって原始的な思考様式の一つではないだろうかと感じさせられた。
☆単なる趣味のメモ(YouTube動画)
伊勢神宮秋季神楽祭・迦陵頻迦
http://www.youtube.com/watch?v=3O2HrtKQv5s