西洋中世研究1スラブの黎明期
ゲルマン諸族の大移動は4世紀。スラブ諸国の黎明期もまた、4世紀にさかのぼるものであったようです。ゲルマン諸族が移動した後のエルベ川以東の地やバルカン半島には、スラブ民族が広がりました。
スラブ人社会の成立は古く、ゲルマン人の社会成立とほぼ同時期に進行したと言われていますが、遊牧騎馬民族の侵入が繰り返され、情勢が長く安定しなかった事もあり、その歴史ははっきりしていないそうです。
現代のポーランド及びロシア地域に相当するヨーロッパ部分一帯は、森林に覆われた広大な平原であり、境界を定める事の難しい地勢となっていました。この大平原の領有を巡って、古来、様々な民族が入り乱れてきました。この地域の民族勢力図が、現代に近い状態で安定したのは、13世紀になってからの事です。
紀元前からのスラブ人の移動先は東方、すなわちロシア地域がメインだったと言われています。そして、紀元後5世紀から6世紀にかけてスラブ人は方向を変え、西方と南方に大移動を始めました。ゲルマン勢力が西欧に定着し、東欧からすっぽり抜け落ちたというのが大きい理由の一つですが、もう一つの理由は、東方(ロシア方面)に強大な騎馬民族勢力が出現し、東方への移動が阻まれたという歴史的事実にあります。
まずフン族=匈奴勢力が東方に立ちふさがり、フン族が内紛で解体すると、その場所に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が再び勢力を伸ばしてきました。一方、はるか東方では気候変動と群雄割拠とが進み、突厥・ハザールなど、遊牧騎馬系の巨大勢力が登場してきました。その突厥に追われて西進してきたのがアヴァール人であり、スラブ人はアヴァール人の侵入にも悩まされる事になったのです(後にはヴァイキングにも追われる事になる)。
続く7世紀、ハザール族とブルガール族(=フン族の残党勢力)とに圧迫され、スラブ人はバルカン半島を南下し、エーゲ海方面へ押し出されてきます。殆ど毎年のようにスラブ人の集団がドナウ川を渡り、都市テッサロニケ(マケドニア王国の中心都市)に続々と入り込んでいた事が知られています。
やがて彼らは、アドリア海沿岸に沿って北上し、モラヴィア、クロアチア、スロヴェニア、セルビアへも移動しました。10世紀には、バルカン半島で最も人数の多い民族になっていたという事です。彼らは遂にバルカン半島全体に広がり、ここに、「バルカン半島におけるスラブ問題」が根を下ろしたのです。
突厥帝国とアヴァール汗国が勢力を誇ってスラブ人を西方・南方へと追い出していたのが6世紀末であり、7世紀後半にスラブ人による第1次ブルガリア帝国が出来ましたが、この頃にはスラブ人とブルガール族は既に同化していたと考えられています。ブルガリア帝国は東欧の雄として、長い間ビザンツ帝国を悩ませました。
ブルガリア帝国で有名なのは、ビザンツの正教会によるキリスト教布教と、キリル文字の普及です。後世のスラブ文化に、決定的な影響を与えたと言われています。
一方、8世紀頃のキエフでは、スラブ人が部族社会を構成して住んでいたと言われていますが、実態はよく分かっていません。8世紀キエフのスラブ人社会を蹂躙したのがヴァイキング(=ノルマン人)でした。ノルマン人は多くのスラブ人を捕獲し、奴隷交易の商品として南方(アラブ方面)に売り払ってゆきます。
いずれにせよ、彼らノルマン人がロシアの地に持ち込んだのは、先進的な航海術、飽くなき戦闘力、交易術など、様々な分野に及ぶものでありました。ロシアに巨大なヴァイキング交易権が構築されたという事象を無視する事は出来ません。
当時のロシアは、ビザンツ帝国からの呼称で「ルス」ないし「ロース」と呼ばれた最果ての辺境でした。
ロシア建国神話は、このヴァイキングのうち、ヴァリャーグと呼ばれた一族の王、リューリクから始まります。ヴァリャーグは極めて強大な一族で、何度も黒海方面に遠征し、846年にバグダード襲撃、860年にコンスタンティノープル襲撃など、大きな事件を起こしてきました。最終的にはハザール汗国と関係を持ちながら、キエフに定着したと考えられています。
リューリクの代、ノヴゴロドに、複数のヴァイキング部族による連合国家「ルス」が建国されました(後に、スラブ民族に同化したとされています)。リューリクの時代から50年ほど後には、コンスタンティノープルを襲撃し、有利な条件で通商条約を結んだ事が知られています。日本学術文献では「キエフ大公国」としていますが、当時の正式呼称は「ルーシ(亦はルス)」で、ビザンツ帝国は「ルーシ」という呼称を使っていたという事です。
歴史的に見ると、10世紀のルーシ(キエフ大公国)は富強の大国でした。ビザンツ帝国との通商で豊かになったのに加え、ビザンツ文化が大量に流入したからです。
10世紀当時のヨーロッパは、東西教会分裂の兆候が明らかになっていました(1054年東西教会分裂/ギリシャ正教会成立)。キエフ大公国は基本的にはヴァイキングの神々を信奉する多神教の国で、この豊かな大国が、東方の正教会と西方のカトリックと、どちらに改宗するかが注目されていました。
ちなみに、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のカトリック教会は盛んに東方布教を行なっており、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。スラブ系の王国ポーランドは、この頃、既にカトリックを国教とする国になっていたという事です(966年:西欧キリスト教界により「ポーランド公国」承認)。
★次回は、ゲルマン諸族の動向についてであります…^^