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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

空海と水銀・前篇

歴史の研究のため、保存メモ(fideli d'Amore様による著作、サイト消滅にも備えて)

以下、《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50806598.html》より必要部分を抜粋


もう大昔のことになるが、オーストリア在住の英国の建築家の通訳として以前高野山に行ったことがある。そのとき宝物殿の中にカドケウスの杖(二匹の蛇が、螺旋状に絡み合った杖)があった。その建築家は、どうしてこんなところにカドケウスの杖があるのか、と驚いていた。ぼくもそのときは、その当時の東西の文化交流は、一般に考えられているよりも、ずーと広範なんだな、と思った覚えがある。(中略)

ところが湾岸戦争あたりから、中東の宗教に興味が沸き、いろいろ読みあさっているうちに、中央アジアやシルクロードの歴史や宗教、特に7,8世紀ごろから11,12世紀の歴史に興味を抱くようになり、そこからどういうわけか日本や西欧の文化を見直してみると、とても新鮮に見えるように思えた。そして世界の文化を理解する鍵は、中央アジアにあり、と徐々に勝手に「思い込こむ」ようになった。正倉院の御物には、ペルシアの文物が保管されているのは誰もが知っているのだから、多分そんなことは、慧眼の士はとっくに気づいていたのだろう。ボーとしているぼくも、遅ればせながら、積極的な興味を持つようになった。そんな眼で、天平時代を見てみると、なにか遥か遠くのシルクロード西端の文化まで含む当時の国際文化の終着駅のように見えてくるのである。

曽我氏や聖徳太子のルーツを中央アジアの遊牧民、スキタイに求める栗本慎一郎もその著『シリウスの都 飛鳥』の序で、「私は、東イラン高原が人類文明の起源の地であるだろう」と語り、氏は、「日本史は今後、世界史のキーになるだろう」と予想している。またこんなことも言っている。「王権や律令国家の基礎は曽我氏が作って今日に至るのだ。また北日本を中心にして、金属高山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った曽我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。蝦夷の将軍アテルイ、奥州藤原氏、北関東の王・平将門は、いずれもその関係者またはその後裔である。」

そして栗本氏は、日本の文化要素を、ゾロアスター教よりもっと古いミトラ教に求めている。

またアーサー王伝説の起源をスキタイのサルマティア人のナルド神話に求めるスコット・リトルトンとリンダ・マルカーの共著『アーサー王伝説の起源』の解説を書いている神話学の吉田敦彦氏は、日本神話の起源もこのスキタイの遊牧民の神話にそのルーツももっているという。西欧の伝説もこの極東の神話を同じルーツを持っているなんてなんと魅力的であることか。


《http://blog.livedoor.jp/hsmt55/archives/50807253.html》

まずは、このカドケウスの杖であるが、別名メルクリウスの杖(水銀=メルクリウス=ヘルメス=女性原理)の杖とも呼ばれて、ギリシアの医神アスクレピオスの杖との同根と考えられている。神話学者のケレーニーによれば、東洋全般に流布していたように、古代ギリシア人は、蛇の絡まる杖を大地の治癒力と考えていたようである。蛇を大地性と結びつけるのは、洋の東西を問わず、ユダヤキリスト教以外の世界では、世界中広く流布している。さらに起源を辿れば、この原型は、シュメールやバビロニアの医神で、また冥府の神でもエンキドウが持つ2匹の蛇が巻きついた杖にあると言われているが、カルタゴでも崇拝されたフェニキアの医神をエシュムーンも同じように描かれ、ギリシア人によって医神アスクレピオスに同化されたものと言われている。

冥府を蛇と結びつけられているのも全世界に見られるものだ。出雲大社も、黄泉の国の入り口と看做され、蛇を祭っている。筑紫申真氏によれば、アマテラスだってはじめは、雄の大蛇だったという話である。縄文の蛇信仰は有名だ。ともかく「蛇」は、出雲から縄文にまでの連続性を感じさせる。

北欧神話の生命樹イグドラシルの根の下にも蛇が描かれ、蛇が冥府と再生のシンボルであり、その地母神的性格は、万国共通なようだ。南方熊楠の十二支考だって「蛇」の項は長い。またインド的関連では、このヘルメスの杖は、イダーとピンガラといういわゆるサーペントパワー(クンダリニー)の上昇する経路と同一視されたり、西欧の錬金術の図像にも多く登場する。人間の男性的側面と女性的側面の結合、太陽と月、硫黄と水銀の結合など多くの解釈を生んでいる。

それはさておき、空海との関係だが、空海が入唐したのは、804年。805年に長安の西明寺に居を定める。その当時の長安は、安史の乱(755年~763年)の以後の世界で国力は衰え、混乱した時代であった。ところでなぜ安史の乱と呼ばれているかといえば、反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前に由来しているが、安禄山は、西域のソグド人(イラン系)と遊牧の民、突厥を両親にもっている。このことからも空海が入唐した時代の長安の雰囲気を感じることができる。唐の時代は、石田幹之助氏の名著「長安の春」でも詳説されているが、西域の文化が一世を風靡した時代で、石田氏の研究によれば、「安」という苗字は、西域のブハーラやサマルカンド(今のウズベキスタン)出身者につけられた苗字とのこと。

ついでに触れておけば、唐とイスラームの戦争の最前線であったこの西域の地域は、戦争ばかりでなく、双方の深い文化交流のあった地域でもあった。中国の紙は、サマルカンドから、イスラームそして西欧に伝わる。また道教医学から多大な影響を受けたアラビア医学の祖、ブハーラ生まれのアヴィセンナことイブン・シーナの思想は、フランスのモンペリエ大学に伝わり、西欧医学の礎となっていく。またこの地域は後に、多くのスーフィーたちを生み、少し下ったイランのホラーサーンやバクトリア(現在のアフガン)のバルフあたりは、スーフィズムのひとつの中心となる。栗本氏は、日本文化の発祥の地はこのあたりだという。

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