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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

占星術の起源に関する覚書

◆出典◆わかってきた星座神話の起源-古代メソポタミアの星座(誠文堂新光社2012)近藤二郎・著◆

「天体観測と占星術」より

《天体観測の実施》

古代メソポタミアでは、天体の観測は国王に仕える神官によって実施されていました。神官たちは、国家的行事や宗教的行事と結びつけて、天体の観測をしていました。すなわち、古代メソポタミアでは、国家の命運や国を支配する王たちの運命を占うために観測を実施していました。
古代メソポタミアの都市国家には、「ジッグラト(Ziggurat)」と呼ばれる日乾煉瓦で造られた小高い基壇建築が存在していました。ジッグラトとは、アッカド語の「山の頂上」なども意味するziqquratuという語に由来していますが、英語ではtemple tower(聖塔)と一般的に翻訳される建造物です。こうしたジッグラトの頂部で天体観測が実施されたものと考えられています。
ジッグラトは、明らかに高い基壇を持つ神殿建築であり、古くは紀元前3000年紀初頭のウルクのアヌ神殿の例があります。
・・・(中略)・・・
古代メソポタミアでの天体観測は、もちろん肉眼で行なわれていました。そのためこうした高さが20メートル以上もあったジッグラトの上からは、とりわけ地平線上に位置する惑星や月の観測に適していたと考えられます。背景である固定された星座の間を複雑に動いていく惑星の軌道は、古代人にとって非常に興味深いものでありました。そして、惑星と星座との位置関係を詳細に観測、記録することで星占いとして利用したのでした。
また、古代バビロニアをはじめ、メソポタミア地域では、古来、太陰暦が使用されていたことから、月の初めの一日は、実際に夕空に新月を観測することで決定していました。こうした実際の観測で月の初めを決める事は、その後もイスラームの暦でも伝統的に続けられてきたものです。現在でも、断食を実施するラマダン月の始まりは、基本的には実地観測によって決定されているのです。
太陰暦の月初めを決める事は、夕空の地平線付近に日没後に見える細い月を観測する必要がありました。そのため、ジッグラトのような高さがある建物は観測に適していたのです。

・・・(中略)・・・

《「エヌマ・アヌ・エンリル(Enuma Anu Enlil)」》

古代メソポタミアには、「エヌマ・アヌ・エンリル」という名の天文前兆占文書が存在します。この「エヌマ・アヌ・エンリル」に関しては、…アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板の冒頭「エヌマ・アヌ・エンリル(アヌ神とエンリル神が…する時)」という言葉があることから、この名前が付いています。
現存する粘土板文書の多くが、新アッシリアの都が置かれたニネヴェのアッシュルバニパル王(在位:BC668-627)の王宮文書庫から発見されたもので、現在、大英博物館に所蔵されています。
「エヌマ・アヌ・エンリル」は約70の粘土板文書からなるもので、全部で約7000もの前兆が記録されている古代メソポタミアを代表する占星文書です。
「エヌマ・アヌ・エンリル」は四部に分かれており、それぞれ月神シン、太陽神シャマシュ、金星女神イシュタル、天候神嵐神アダト神の四神にあてられています。アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板がこの「エヌマ・アヌ・エンリル」の63番目の粘土板であることから、その起源は、少なくともバビロン第一王朝のアンミ・ツァドゥカ王(在位:BC1646-BC1626頃)の時代にまで遡ると言われています。
そして、新アッシリア時代に至るまでの天文観測を加えることによって、7000もの天文現象とその解釈とを編纂することが可能となったのでした。そのため「エヌマ・アヌ・エンリル」は古代オリエント世界における最初の占星術の手引書の役割を果たしていたと考えられます。
それは、新アッシリアの時期に注目すべき役職名があることからも明らかとなっています。新アッシリアのエサルハドン王(在位:BC680-BC669)やアッシュルバニパル王の治世には、トゥプシャル・エヌマ・アヌ・エンリルと呼ばれる称号を持つ人々が存在していました。
トゥプシャルとは、アッカド語の「書記」を意味するトゥプシャルに由来しており、この称号は「エヌマ・アヌ・エンリルの書記」という意味になります。…彼らは、ある特有な天体現象が起こると、「エヌマ・アヌ・エンリル」を使用して、関連があると見られる前兆現象が記された部分を探し出してきて、専門に占星術を行なっていたと推定されています。

・・・(中略)・・・

《国家の占星術から個人の占星術へ》

…古代メソポタミアでは天体観測は密接に占星術と結びついていました。それは極端に言えば、占星術のために詳細な天体観測が実施されていたともいえます。古代の天文学は現在の天文学とは異なり、私たちが考える「科学」とは別の領域に属していました。天体の動きなどは、地上世界の変化の前兆であり、それによって地上の国家や民族の命運を左右すると考えられていました。
やがて、国家や民族の行く末を占っていた占星術も徐々に、個人の運命を占う今日の占星術へと変化していきました。現在のような、個人の運勢を占う占星術、すなわちホロスコポスの最古のものは、BC410年頃のものです。アケメネス(ハカーマニシュ)朝ペルシア時代のものであり、メソポタミア地域がペルシアの支配下に組み込まれた時代なので、メソポタミアの国家や民族の命運を占う必然性が無かったことも、こうした占星術が個人の占星術へと転換するきっかけとなったと思われます。
実際に、個人の占星術(ホロスコポス)が急速に普及するのは、ヘレニズム時代以降のことになります。
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