「運命の巣」の考察
意識をどんどん深く沈めていくと、集合無意識と呼ばれる「運命の巣」のような領域に到達する。
この集合無意識は、「今ここにある自己」の有り様(現世の生活)を規定するところである。
社会が自分一人だけの行動で成り立っているものでは無いのと同じように、この集合無意識も、自分一人だけの意識で成り立っているものでは無い。
ここ集合無意識(意識の深層)の中では、他人と自分との意識の境界も、「殆ど無い」と言えるほどに薄い。他人が自分の鏡になり、自分が他人の鏡になるところである。
したがって「運命の巣」とは、「引き寄せの法則」が強烈に働くところでもあるといえる。
「自分」という紐―意識の深層に下ろされたDNAのような微細な紐―に、どのように他人の意識が引き寄せられているのかをじっくりと観察すると、自分の心の底で波打ち続けている様々な「感情的言葉」(=言霊の波動?=)が、まるで磁石のように、似通った波動の意識を引き寄せているという事が分かる。
磁石にへばりつく鉄の粉のように、自分の意識を構成している「紐」の各所に、びっしりと、名も知らぬ大勢の他人の意識の「紐のかけら」がへばりつくのである。その途方も無い重みが、己の意思も思考も行動も、まったく左右してしまうのである。
(どうやって「他人の意識のかけら」がへばりつくのかは知らない。意識の深層は精妙かつ緻密な構成になっており、数学的性質からして高次元の世界なのだろうし、多次元多面体の奇妙奇天烈よろしく、その辺の不思議は相応に在りなのだろう)
〆(’’;<…『蜘蛛の糸』(by芥川龍之介)のクライマックス・シーンが近いイメージか?
仏教の「業(カルマ)」というのは、いわば、これらの「〝自分〟という意識にびっしりとへばりついた見知らぬ鉄の粉のようなもの」を意味しているのでは?とすら思えるのである。
これら「びっしりとへばりついたもの」が、負のトラウマや嫉妬や怨嗟の波動に満ちていた存在であった場合、これらを駆除し、或いは浄化しない限りは、己を変えることも社会を変えることも出来ない。万有引力の法則よろしく、その重みに引きずられてしまうからである。
即ち、自らの意識の深層が、負のトラウマと怨嗟の感情に満ちていれば、その負の要素を次々に自らの身に引き寄せてしまうのである。負の要素の増幅&濃縮の中で、負の流れに引きずられるような形で、自らに授けられていたはずの運命を、自ら崩壊させてしまう、という現象も出てくるのである。
そこで、最初に、「透明な感情」をもって、自らの意識を満たす事で、意識の深層にびっしりとへばりついたものを駆除し、浄化をするのである(=「かがやかに、澄み明らかなる空」のイメージに近いと思われる。いわゆる「感謝」や「喜び」という感情が、そういう浄化イメージを、強力に生成するのだろうか?)
(「駆除」というのは、オカルト的な言葉で言えば「憑依を解く」というものになるか?)
すると、磁石の力が無くなって鉄粉が剥がれ落ちていくように、自己意識にへばりついていた見知らぬ他人の意識も剥がれ落ちていくのである。
その後で自己変容を起こし、新たな波動で自己意識を満たせば、その波動に見合った他人の意識が「引き寄せられてくる」のである(=他人の意識をも浄化し、新たな環境を構成するきっかけになる)
…ただし、自己の波動が成長・変容しない限りは、同じ事を延々と繰り返すのみである…
仏教者の場合は、浄化の究極の境地を「三昧(サマーディ)」と言うのであるが、三昧に到達した後で自己変容を起こさない限りは、やはり前と同じような波動のもの―旧世界―を引き寄せるのである。
意識の成長は、やはり深い意味での「出逢い」や「雷のようなインスピレーション」、「人生修行」を要求するものであるらしい。それも、極めて精妙な均衡バランスを要求するものである。
…現実のイデオロギーや思い込みや考え方を変えるのがどれだけ難しいかを思えば…深層意識の魂の分野における「成長」も「変容」も、なかなかに生じにくいものなのだ、という事も理解できると思われるのである。
「波動」「変容」と言葉で綴るのは簡単だが、それを成し遂げるのは、実に困難なのである…
…実際、主体的に打ち立てられるような「己の意思」、「己の思考」、「自我」などというものは、何処にも無いのである。己を動かすのは、不可思議なる大宇宙の流れである。身体と人生とは、大いなる宇宙からの贈与である。我々は皆、大いなる風の流れに舞うひとひらの雪片よりも更に軽く、大自然の操り人形に過ぎないのである…
…〝少年老い易く、学成り難し〟…或いは、〝…言葉移ろい易く、伝統成り難し…〟
そういった事柄を考えれば、数千年の時をかけた日本人の意識、そして長い伝統を持つ日本語、及び和歌は、やはりそれだけの大いなる霊威に満ちているのである。
…そして、日本語は同時に、今なお若く、未完成である…
今なお生ける「始原の言葉の神(言霊)」が息づき、「運命の巣」に最も近く、強力に渦巻いている陰陽呪術的言語なのであろうという事を、ひっそりと、つつましく、述べるものである。
《トンデモ試論=「運命の巣」の考察=終わり》
―関係が在るかも無いかも知れない記事コレクション―
- NTT-イリュージョンフォーラム(錯視と錯聴を体験!)
- 意識が存在を決定する(丸山光三さまのブログ-変容する世界)
- 運命は自らが決める(ZEPHYRさまのブログ-西洋占星術シリーズ記事)
- 覚書=井筒氏と司馬氏の対談
- 《司馬》なるほど。私は阿頼耶識についてはよくわからないんですけれども、ユングのいう無意識というものより、阿頼耶識のほうが、ずっと思想的に深そうですね。
- 《井筒》まるきり深いと思います。なんといっても長い伝統をもつヨガ修練の体験に方法論的に基づいていますからね。ユング的な無意識の場合には、その底はもう行かれない。ところが阿頼耶識の場合には、ユング的な集合無意識の底に潜んでいるもうひとつ底の無意識、つまり「無意識」とすらいえないような意識の深みまで、唯識は行っていると思います。(中略)阿頼耶識とは、第一義的には、意味が生まれてくる世界なんです。意味というのは、存在じゃない。存在じゃなくて「記号」なんです。(中略)それが言葉と結びつくと言語阿頼耶識になる。(中略)つまり、結局すべてコトバということですね。
出典=『十六の話』司馬遼太郎