シナ研究:中原の呪縛・5
今回は、ものすごく突っ込まれるだろうな…と思いつつ、冷や冷やのエントリです。
資料をもとに浮かんできた想像と、現代的占い的な考察をいっぱい入れて、「おっかなびっくり」状態でまとめております。間違ってるところがあれば、ご指摘よろしくお願い致します(=経済のお話は、全く専門じゃないのです。文字通り一夜漬けなので、恥ずかしいばかりの矛盾があるかも…全部間違っていたら、目も当てられないですが…)
誤字脱字、単語の間違い、文字のタイプ間違いがあれば、それはきっと、おっちょこちょいな書き手が、連日の徹夜勉強でちょっとおかしくなっていたからだ、という風に、笑っていただければ幸いです^^;;;;;
「新」帝国の貨幣政策・・・古代東アジアの巨大デフレ・スパイラル
前漢末期、経済界には貨幣不足の兆候が現われ始めていました。従来は、『貨殖伝』にも〝末を以て財を致し、本を用(もつ)て之を守る〟と書かれたように、投機で儲けた資金を農業に投資するというのが最も安全な財産運用の方法だと思われていたのですが、その貨幣の流通が、著しく欠乏してきたと言われています。
春秋戦国時代以来の好況の原因は何かと言えば、それはやはり、鉄という新たな金属の流通が農器具の発達と相まって好況の下に拡大したこと、それに国土が広がったことによる、未開の地での新たな銅鉱山や金鉱山の開発と運営といった、一種の開拓ブーム(=今で言えばゴールドラッシュ=)が大きかったと申せましょうか。
後世の歴史家は、前漢時代の黄金流通の豊富な事、それゆえの黄金価格の低廉の事について、頻繁に言及しています。前漢時代の都中央部及び支配領域において、非常な好景気があった事を暗示しています。
ところが前漢以降、匈奴帝国との交易の市場が開かれ、西域との流通が大きくなってくると、前漢よりもずっと経済活動が盛んだった西域に向かって、黄金が流出したのです。それが前漢末期の貨幣不足として現われてきたと言われています(=古代であるからして、その流通の速度も変化の度合いも、現代に比べると非常にゆっくりとしたものではあった筈ですが、それだけに不景気は一旦始まると、非常に長く続いたものと思われます)。
漢代の貨幣制度は、ほぼ銅銭を基本通貨とし(五銖銭が正貨)、その補助貨幣として黄金が用いられるというスタイルでした。黄金一斤が銅貨一万銭に相当するという交換レートで運用されていたという話です。
西域との交易によって黄金が大量に西方に流出すると、流通貨幣の不足が起こりました。経済が回らなくなった前漢は、大不況に陥ったのです。この影響をもっとも受けたのが前漢の豪商・知識人たちでした。彼らは王莽を支持し、王莽は「新」帝国を樹立し、貨幣制度の改革を行ないました。
※興味深いことに、同時期(後1世紀頃)に、ローマ帝国でも黄金の東方(インド方面)への流出があった事が知られています。西方では、むしろ銀貨の方が高い価値を持っていたそうです。
復古主義であった王莽による経済再建は、概ね、武帝の経済政策をなぞったものとなりました。貨幣総量を増すため、銀に貨幣価値を付与して銀貨二品を作りました(朱提銀:重さ八両=銅貨1580枚相当/它銀:重さ八両=銅貨1000枚相当)。しかし、その結果は、武帝の失敗をもう一度なぞるものとなったのです。
※武帝の場合は、充実した国力を背景に、匈奴攻略に膨大な資金を注ぎました。この結果、国内の貨幣流通の不足が生じ、財源不足に陥りました。新たな貨幣「五銖銭」の鋳造や、鉄・塩の専売制度は、この財源不足を補うために始まったものでしたが、かえって密売などのヤミ流通が横行し、私腹を肥やす外戚・宦官が増加し、民間の窮乏が広がったと考えられます。
王莽はその後、銅貨の改鋳を盛んに行ないました(様々な王莽銭が発掘されています)。彼は大小の様々な銅貨を作りましたが、その目的は銅を小分けにして流通量を増やすという事であって、今で言えば貨幣価値の無謀な切り下げ作戦…政府が銅の国内総量をコントロールできないままに施行された、巨大デフレ・スパイラルの中のインフレ政策に他なりませんでした(…と、考えてみたのですが、だいたい大丈夫かな…^^;)
旧銭の所持者は、銅貨の価値が下がる事を恐れ、手持ちの銅銭を放出を惜しみました。ひとたび悪貨(=私貨や密造貨幣=)が市場に溢れて良貨を駆逐し始めると、ますます銅貨の流通量が欠乏し、「新」帝国の経済情勢は、いっそう悪化したのです。地方の軍閥・農民への影響は甚大なものとなり、赤眉の乱が起こりました。
※同時期に寒冷化が始まっていたという気象データがあり、悪夢のようなスタグフレーションや食人(カニバリズム)が起きていた可能性がありますが…どうなんでしょうか…(冷や汗)
※王莽の外交政策も、過度の中華思想の下に武帝をなぞったものとなり、匈奴や高句麗の反発を買いました。
・・・《ポスト「新」としての後漢の文化と経済についての小記》・・・
王莽を倒して天下を取った赤眉の軍と覇権を争い、後漢王朝を樹立した事で知られる光武帝・劉秀は、漢委奴国王の金印を奴国(1世紀-3世紀前半、福岡市付近に存在した国)に授けた皇帝でもあります。
讖緯(予言書)を利用して帝位についた光武帝は、中国史上、稀な名君として知られています。その治世は、民間の活力が上昇し、最高識字率を達成した事でも注目されます。
『三国志』の時代は、それまでの時代とは異なり、檄文などの文書戦や知謀戦のスタイルが新たに発生してきますが、こういった現象は、光武帝の遺産と考えても良いかも知れません。
一方で、王莽のもたらした甚大なる経済混乱とデフレ不況は、その後の豪族や商人たちの経済的サバイバルに影響を与えたと思われます。彼らは、なるべく銭を使わない経営をする、つまり荘園などの自給自足の経済圏を築き、塩と鉄を買う時にだけ金銭を放出するというような対策を取るようになりました。
必然の流れとして、彼らの旺盛な消費活動は、もっぱら素材購入に集中し、加工品に出来るだけ手を入れたものを自分の車船に積み込んで、荘園外に出向いて商品として販売し、少しでも余剰利益を大きくするという方向に向かったと言われています。
(★想像ではありますが、このような経済サバイバル習慣が、おそらく、現代中国に蔓延する偽ブランド商売や密輸の習慣に、密接に関連しているのではないでしょうか…?? …とすれば、こうした偽商品や商売詐欺の習慣は、ゆうに2000年の歴史を持っていることになります…冷や汗)
このような消極的な経済活動は、一箇所に蓄積される貨幣の量を増加させる一方で、ますます市場における貨幣流通を少なくし、デフレ・スパイラルを強め、不況や経済格差が更に拡大・長期化する原因となった筈です。後漢頃には、こうした「上に政策あれば下に対策あり」経済活動が定着したものであり、そのまま三国・南北朝(五胡十六国)の時代へと突入したのだと考えられるのです…
・・・・・・《補遺》・・・・・・
「新」帝国は短かったですが、中華変容へのディープインパクトだったと想像しています。
興味深いのは、政権交代で鳩山政権となった2009年の年末に、「今年の漢字by清水寺」が「新」という漢字を書いているのですね。鳩山政権も、後々の時代から見れば、王莽なみの中華ディープインパクトだったと評価されるようになるのかも…と、「占い的に想像」しています。
でも、日本が商売詐欺の大国&中華バージョン食人列島化するのは、やっぱり嫌です。もし自分が日本で一番えらい神さまだったら、すぐにでも八百万の神々を動かして、そういう恐ろしい変容をストップさせるのになあ…と、思いました…^^;;;;;
FriendFeedコメントより転載
【2010.7.17-管理人メモ】コメントが無いので、この静けさが、いささか不安(アセアセ)…エントリの趣旨は、論理の組み立ても、すごく変だったのだろうかと、ちょっと焦っております。今の自分の経済知識ではこのレベルの理解が精一杯ですし、このまま、ホームページ用に編集してみます。勘違いがあれば、いつでもご指摘お待ちしております、というメッセージだけ残しておきます…
さてお呼ばれしているような(♪)気がするので少しだけ。シナ社会の経済に関する研究は資料が存在する宋代以降からに集中しているような気がします。漢代となるとほとんど想像の域なのではないでしょうか。専門外なのでよくは知りませんが。家内がある研究プロジェクトで明末清初を担当していましたがそれでも資料がすくなくて大変そうでした。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。「中国史」の記録は山ほどあるのに、経済の記録の方はやっぱり薄いみたいですね。古代から経済活動がものすごく活発な印象があるので、何だか意外です。当時の役所の記録や日常に関する記録は、木簡や竹簡に記録されたと思いますし、発掘調査の進展を待つしかないみたいですね。六朝時代を調べていて、「中国人は日常の役所の定例的な記録は重要視せず、技術を尽くした巧緻な文章(詩文&名文etc)を後世に残そうとする傾向があった」という文章がありました。そのあたりの気質も影響しているみたいですね…