シナ研究:中原の呪縛・2
【匈奴大帝国】・・・前篇
中央ユーラシアないし、内陸アジアに広がる草原の世界は、シナ=東アジア世界ともオリエント=西アジア世界とも接触しており、政治的にも経済的にも、ユーラシアの東西を結びつける、重要な役割を果たしてゆきました。
したがって、華夷秩序が成立してゆく古代の東アジア世界を考えるとき、この内陸アジアに繁栄した遊牧騎馬民族の影響を抜きにして考える事は、不可能であります。
歴史的には、匈奴(フン族)は、前3世紀末から約500年間に渡って、モンゴリアに繁栄した、多数の遊牧騎馬民族による連合体の総称と申せますでしょうか。周の記録に見える異民族「獫狁(ケンイン)」の子孫であろうと言われていますが、確証は無いそうです(夏の時代には「獯鬻(クンイク)」と呼ばれたという記録がある)。
匈奴は戦国時代、オルドスを根拠地として、燕、趙、秦の北境を侵犯していた事が記録されています。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアに持ち込んだのは、彼らでした。従来、馬に引かせる戦車と歩兵とを用いた車戦と歩戦が一般的だった中原の人々は、彼らから騎馬戦の技法を学んだのでした。
文明や国家様式といった色分けで考えると、秦・漢帝国は農耕シナ型の都市国家を結んだ固定帝国であり、匈奴帝国は牧畜オリエント型の、オアシス諸都市国家との交易を前提とする移動帝国であったと言う事ができます(そして実際、匈奴の文化は、スキタイ文化の影響を強く受けていました)
中原に近い遊牧部族ほど、「中国」の製品を手に入れる機会は多く、それを交易に回す事も出来て裕福になった事が知られています。中原をめぐって起きた民族移動としては、北方から常に新たな遊牧民が南下し、南方の遊牧民はこれに襲撃されて、更に南方か西方に移る…という流れが、ずっと優勢でありました。
中原を通過した遊牧民は、支配階級は支配階級のまま、一般の遊牧民は牧畜をしながら、農業も行なうようになります。農耕民の領域と遊牧民の領域とがまだらに入り交ざる…という、中原という〈場〉における複雑怪奇な政治模様は、こうして形成されていったと考えられます。
・・・紀元前210年に始皇帝が死ぬと、中原の統一が破れ、各地で反乱が起きます。
その中で、項羽と劉邦が天下を二分して争っていた時期、北方の陰山山脈の匈奴部族の冒頓単于が、ペルシャのダレイオス大王やマケドニアのアレクサンドロス大王に匹敵する程の、世界征服を行ないました。
冒頓単于の指導の下、匈奴帝国の勢力は、東方では大興安嶺山脈を越えて、今では中国領になっている遼寧省、吉林省、黒竜江省一帯の狩猟民に及び、東の遊牧民東胡・他を服属させました。北方ではバイカル湖、西方ではアルタイ山脈にまで及んで、月氏・他の遊牧民を全て支配下に置きます。
「匈奴帝国」は、モンゴル高原を最初に統一した遊牧騎馬民族による、空前の大帝国でもありました。将来「五胡」と呼ばれる事になる多くの民族、つまり鮮卑などのトルコ系、韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系などをまとめ上げた大国だったのです。
※「マンシュウ」って、「満洲」と「満州」と、どちらが適切な漢字なのか、ちょっと分かりませんでした。パソコンで変換すると、どちらも変換候補に出てくるので、どちらも正しいのかなと思っていますが…、手元の教科書では「満州」になっていました。古い漢字とか、常用漢字を拡張した場合に、「満洲」になるのかな…^^;;
「冒頓」はモンゴル語で「バガトゥール」ないし「バートゥル」と発音し、「勇者」という意味を持っています。「単于」とは「テングリコト単于」の略です。「テングリ」=「天」、「コト」=「子」で、つまり「テングリコト」とは「天子」の意味。続く「単于」とは、「広大」という意味。
要するに「単于」は、中国の「皇帝」に相当する、匈奴帝国の最高指導者の称号です。ちなみに、冒頓単于は、戦士30余万人を率いた大王だったと言う事です。
※参考資料《引用始め》・・・『モンゴルの歴史』宮脇淳子、刀水書房2002より:
モンゴル高原の遊牧民にとっての方位は、南(実際はやや東南)が前、北(実際はやや西北)が後ろである。今のモンゴル語でも、左と東、右と西は同じ言葉を使う。匈奴でも、左翼(左方)の部族長達は東方におり、北京以東、満州・朝鮮半島の前線を担当した。右翼(右方)の部族長達は西方にいて、陝西以西、中央アジア方面の前線を担当した。単于の本営は中央にあって、山西の前線を担当した。
単于以下、それぞれ割り当ての土地があって、その範囲内で水と草を求めて移動するのである。24人の部族長はそれぞれ、千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)などの官を置いた。この匈奴帝国の仕組みは、後の13世紀モンゴル帝国と全く同じである。遊牧騎馬民自身が残した記録はこの時期はまだ無いが、伝統は受け継がれていったのだ。
匈奴が史上初めて遊牧帝国を作ったのは、秦の始皇帝が中国を統一したために、それまでのように遊牧部族が個別に中国の農村を略奪する事が難しくなったからだと言う意見がある。
《引用終わり》
図書館&資料&アドバイスに感謝。おかげさまで、だいたい、まっとうで、おかしくない、まとめ文章に仕上がったのではないか…と、こっそりと自画自賛しております。間違って理解している場所もあるかも知れませんが、その際は、よろしゅうご指摘くださいまし…という訳で、次回(=匈奴帝国の後篇=)に続く…^^ゞ