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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

シナ研究:中原の呪縛・1

・・・・・・【序文】・・・・・・

〈上古諸州〉が滅び、次世代の〈前シナ文明〉もまた崩壊した後、真に〈シナ文明〉の歴史が始まります。

この〈シナ文明〉こそ、数々の栄華と乱世とを生み出し、現代にまで続く「中華世界」の基を築いた文明です。大室幹雄・著『劇場都市』に、そのダイナミックな活動を描写した文章があったので、以下引用します:

《引用始め》

孔子の没後、中国の社会は大きく変貌する。君主権を確立し、征服と破壊と併合によって強大化した大国は領土国家へと巨歩を進め、それは端的に軍隊の編成と戦闘法との変化として現われた。春秋期に始まる歩兵と輜重兵の増加は諸国で動員の方法にさまざまの試行を生んだが、杜正勝のいう「全国皆兵」の傾向は動かしがたい趨勢になり、また趙と秦とに導入された遊牧民の戦闘法、いわゆる「胡服騎射」は大量の騎兵軍団を戦場によびいれた。
農業もまた変化した。鉄製農器具の開発、灌漑と施肥の普及、犂耕その他の農耕技術の発達により農民人口は増加し――戦国期の全人口は約2500万人――、土地を家族で所有するようになった農民が荒地を開墾するいっぽうで余剰人口は都市へ流入してそのほとんどは都市細民を構成した。そして商人に倣って農民たちも南方へ、現在の広東、広西省、はては遠くヴェトナムのトンキン地方にまで移住していった。
商業――貨幣の使用が始まり、交易や鉄鉱山と鉄工場の経営などで鉅万の富を築いた大商人は農民と下級貴族を対象に高利貸を営み、諸侯の租税徴集の請負人となり、蓄財と土地の取得にいっそう前進した。農民の商人への依存の度合いは高まり、商人のうちには地方官庁の官吏になるものも現われた。この中国史上で最初の隆盛期に都市が発展したのはいうまでもない。都市化は漢-シナ人の領域外へまで拡張し、従来の方形を基本的なプランとする都市のほかに、交易市場から発達した不定形の町や都市が現われ始めた。

《引用終わり》@大室幹雄・著『劇場都市』/第三章「知識人の登場と退場」より

そもそもの〈シナ文明〉とは、春秋戦国時代にスタートした、青銅器と鉄器の併用のあった文明と申せましょう。『詩経』の元となった地方王権神話と融合しつつ、秦の興亡を挟む激しい社会変動と共に、各地に拡大してゆきます。幾つかの断絶を起こしながら、「漢」帝国という絶頂を迎え、ここに「中華」概念が完成します。

(参考知識)・・・中原の初期の鉄は鋳造鉄でした。これは武器としては非常に脆いものでした。ゆえに、春秋戦国時代の戦争で活躍したのは、ずっと青銅武器でありました。実際、当時の鉄は「悪しき金」と呼ばれ、青銅より下の地位にあったという事が知られています。中原の鉄が鍛造鉄に置き変わるのは秦・漢代の事であり、『三国志』の時代に至ってようやく、青銅の武器と鉄の武器とが干戈を交えるという場面が見られるようになってきたという事です・・・

つまり、秦の始皇帝が一代で創出し、漢が完成した文明、それが〈シナ文明〉であります…

・・・いわゆる中国の歴史とは、皇帝の歴史そのものである。近代以前には、「中国」という「国家」があったわけでもなく、「中国人」という「国民」があったわけでもない。言い換えれば、「中国」という国家が先にあって、それを治めたのが皇帝だったのではないということになる。先にあったのは皇帝である。
皇帝の支配が直接及ぶ範囲を「天下」といった。この「天下」とは、具体的には、皇帝を中心に展開した都市のネットワークをさすものであり、各地にはりめぐらされた商業都市網の経営が、すなわち皇帝制度の本質なのである。・・・

シナ文明の構造から生まれる「シナという病」III/ブログ『シナにつける薬』より、引用

…そして、秦末期、陳勝・呉広の乱が発生しました。反乱は見る見るうちに拡大したのでありますが、秘密結社のネットワークの力が大きかったようです。

最初に蜂起した陳勝・呉広は「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」と叫びました。秦は確かに最初の統一帝国を作りましたが、その前身は諸侯国の身分であったので、ここで、文字通り、出身階層も血統も問わない、無制限・権力バトルの時代が始まった事が宣言されたのであります。

「漢」帝国の前身は、「秦」とは異なり、下層階級の秘密結社に基盤を置くものでありました(…と、認識していますが…これで、合ってるのかな…^^;)。

陳勝が死んだ後は、西楚の覇王・項羽と漢王・劉邦との間で、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、当時の中国のほぼ全土を巻き込んだ内戦が繰り広げられたのであります…

「秦」から「漢」へ。儒教イデオロギーに伴う、「中華の継承」という牽強付会の概念の発生。

雑多な民族が交じり合って作り上げた、都市文明型の共同幻想…「漢民族」という名の、灼熱の呪縛。

この瞬間に、〈異形の帝国〉が誕生した…と考えられるのではないでしょうか…

★・・・引用が多くなってしまいましたが、おっとりと、次回に続く…^^;

目下、匈奴帝国の中身を調査中。これがちょっと理解しにくい世界だったりします…^^;


FriendFeedコメントより転載

五胡と呼ばれる北方騎馬民族ですが、彼ら自身は記録を残していないのでどうしてもシナ側の偏った物語にたよるわけですねえ。それでより理解しにくくなっているのです。匈奴というのは民族ではなく国家と考えてください。モンゴル、トルコなどの様様な民族、それが五胡であるのですが、鮮卑などのトルコ系、韃靼などのモンゴル系、柔然などの東ツングース(後の金や満洲)系とおよそ三つに分けられるでしょう。それらが匈奴時代には渾然一体となって国を作っていたものと思われます。 - 丸山光三
なるほど…匈奴もまた、漢と同じように、五胡を含む雑多な民族から成っていた大きな勢力グループなんですね(=これも知らなかったです。「スキト=シベリア文化の影響を受けたチュルク系っぽい大民族」という風なイメージでした。でも、広大なユーラシア大陸なのだから、多民族連合体の方が普遍的ですね…^^;)…考えてみると、「漢帝国」と「匈奴帝国」という二大帝国が並立していた情勢というのは、想像以上に、東アジアにおける周辺事態や世界認識に影響を及ぼしていたのかも。アドバイス、どうもありがとうございます…^^ゞ
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