媽祖の考察:境界都市
【考察】媽祖信仰の広がりは、中世に伸びた航海技術・港湾都市と関係がある?
地上ネットワークとは異なる、海上ネットワークのありようを考えてみます。
地上ネットワークは、大陸の諸都市を結び付けます。各々の都市の神が、各々の都市の中心部(宇宙軸となる場所)に祀られ、征服・被征服活動を通じて、或るものは滅び、或るものは栄え、次第に「首都=皇帝の都」という存在が出てきます。
地上の都市…それは堅牢な城壁に守られた都市であり、防衛にすぐれた城門が、セットで現われるものです。そして強大な都市神(都市文化)であればあるほど、ブルドーザーの如き画一化・膨張性を持っています(大室幹雄・著『劇場都市』で、シナ都市文化の南方への拡大が指摘されている…)。
ついでに言えば、地上ネットワークでは、辺境が、常に戦争の舞台となります。国境は伸び縮みし、進出後退を繰り返す、ダイナミックな「想像上の境界」であり、極めて不安定な「架空の城壁」なのです。この「架空の城壁」を全て突破された後に、「宇宙軸」を持つ首都を取り囲む城壁を舞台にして、最終的な決戦が行なわれるのです…
対して海上ネットワークは、港湾都市を各地に作りながら、諸都市を結びつける航路が拡大交錯していくという過程を辿ります。港湾都市は航路を通じて、ゆるいつながりを持っています(城壁の代わりに発達したのが、おそらく安全な航路の保持に関わる各種の取り決め)。そこでは、諸都市の神々はむしろ、母港とゆるいつながりを保ちつつ、船と一緒に遠くへ運ばれ、各所に移動してゆく…という性格を持っています。
そして航海に際し、ご利益のある神であればあるほど、各所に散らばった神々と習合してゆき、或いは神話で合成され、他の渡来神と区別無く一緒に祀られるという傾向があります(インドネシア、バリ島の習合神話、南シナの媽祖信仰、沖縄神話、日本の神仏習合など)。
海上ネットワークでは、疫病や厄運の漂流・移動が大変な問題であり、そうした神々を悪神・厄病神として恐れました。恐れる代わりに、怨霊神・タタリ神として祭り上げたりする発想もありました。海上ネットワークにおける港湾都市は、果てしない海に面した「境界都市」そのものであり、「中心軸」の発想も無ければ、「国境線・城壁・辺境」という発想もありませんでした。
※以上、これらの説は、神話を適当に比べてみて、その移動ルートや傾向をざっと逆算してまとめただけなので、矛盾や反証はいっぱいあると思います。大体、全般的に見て、上のようなものではないか
…ひとたび海に漕ぎ出せば、身の安全を保障するのは薄っぺらい舟板一枚であります。そして、海上に、それと分かる牛馬の踏み跡などの目印は残らないのであります…海上ネットワークは、むしろ、果ての無い「混沌」が主役といってよい、不安に満ちた世界だったと思われるのです(=その分、目印になった夜空の星や陸の特徴的な地形などが航海の安全を保障したため、神として祭り上げられた)。
港湾都市は、必然として、大陸に築かれた都市とは異なる性質の都市として成長せざるを得なかった。媽祖信仰を船に乗せて持ち出した南シナ人は、立ち寄った都市ごとに媽祖廟を建立していったという事が知られていますが、媽祖はその来歴からして、「習合神」的な位置づけとなったのでは無いでしょうか。
媽祖廟が置かれた港湾都市は、時と場の「境界」そのものであり、「境界」にまつわる祝祭的なイメージを、いっそう膨張させることになったと思われるのであります(=エキゾチック、異国風味の都市=)。
船の中は地上都市の延長であり、海の上に持ち出された地上世界でもありました。
※中世の航海技術の伸びは、良いことばかりをもたらしたわけではありません。海賊が出没し、人身売買ネットワーク・密輸ネットワークもまた発展した時代でありました。地上都市における治安維持の権力が及ばない分、海の上に無法地帯が広がっていたことは確かなのです。船内における船長が絶対君主として振舞うようになったのは、この無法地帯を生き延びるためであったと考えられますし、これもまた、「船内に地上世界がパックされた状態」を維持するのに必要だったものなのだ…と、思われるのであります。
そのいわば「パックされた大陸都市」から解放されて羽を伸ばすのが、立ち寄った先の異国の港湾都市、すなわち「境界都市」なのです。船乗りはそこで、羽目を外し、船の中の労苦を忘れ、祝祭的な気分に浸る…色々、口をはばかる娯楽とか。そうして精気を養った後で、ふたたび船の中の労働に戻るのであります。
これは、農耕よりはるか昔の、原初の社会の間で繰り返された、冬至における死と再生の祝祭と同様のスタイルを持っている…と言えるのではないでしょうか。
ここで注意することは、海上ネットワークと大陸ネットワークとの政治的な差異です。大陸ネットワークでは、領地を城壁で囲い込んだ征服者の権力が、域内のネットワークに一義的に及ぶのに比べ、海上ネットワークでは、むしろ安全な航路の独占が重要な手段であったため、港湾都市は、分散された基地として以上の意味を持つことが出来なかった筈です(一つの都市を首都とする事が出来ず、古代的な意味での帝王を設定することが出来なかった。或いは帝王を出しても、都そのものが移動するケースがあった)。
つまり、大陸的な政治環境の中では古代的な「帝王」が天下統一するような社会構造になるのですが、海洋的な政治環境の中では、各所の複数の「基地領主=港湾管理者=航路守護者」が分散し、相互に主客交換するような社会構造になるのです。それが大陸性祭祀と海洋性祭祀のスタイルにも影響したはずです。
更に、風土や言語に強烈に制約されている人間集団の文化圏が、地政学上の制約や限界を超えて、どこまで広がるのかが問題であります(=たまたま日本列島では、大陸文化と海洋文化がほぼ均等に混ざったため、その歴史的揺らぎの中で、幸運な社会構造を構築できたのではないかと思われます。ただ、見えないところでの犠牲は、大きかったと思います=天変地異など)。
そうした制約を超えて、中世において、海上ネットワークを効率よくつなげたのが、「曖昧な共通点を持ちつつ広がっていた各地の海洋神話」だったのだと考えられるのです。中世の媽祖信仰は、そうした中世の海上ネットワーク形成に関与した、「ごく曖昧な神話複合体=宗教的なもの」だったのだ…と思うのであります。
※さらに幇を作れば、相互扶助が期待できるのです。媽祖信仰のネットワークの広がりは、曖昧ながら、そうした幇の役割を果たしていたと思われます…
☆資料=『劇場都市』大室幹雄・著
・・・・・・第四章・宇宙の鏡・・・(城壁都市を成す心理に注目)
各民族は各々の世界像に照応した都市を建設する。したがって自覚的に論理化された固有の世界像を持たない民族は輪郭のはっきりしない都市、農村との差異の明瞭でない、古代中国の用語でいえば都邑と野または鄙との区分、われわれの用語でいえば文化と自然との区分が自覚されない都市――日本のそれのような――を作るであろう。
人間は世界の中で自分が占める位置を核として世界を構想する。人間が意識として世界に相対立し、それによって世界と人間とを分割し、さらに両者を新たな統合へ導いていくとき、それは自覚的に論理化された世界像となる。こういう世界像を有する民族は都市の形成に当って彼らの都市を厚く高い城壁によって囲繞する。彼らは世界から分離し孤立している自分たちの位置、コスモスから分断された自分たちの意識が保護も隠蔽もなしに自然のうちに遺棄されていることを知っているからである。
唯一至高の神によって創造されたのであれ、いつか知られない原古以来自生的に存在してきたのであれ、人間が神に呪われ見捨てられた、あるいは自然から分断された存在であることを自覚したとき、人間は守護者も隠蔽物もない孤立性を否定し、それから逃れ、それが生命と意識を脅かす危機を回避するために都市を作り出す。積極的にいえば、世界または自然のなかの孤立性に直面させられた人間がその孤立性を起点として彼の独立を成就しようとする意思によって、その結晶として都市は創造される。城壁は都市として形象化されたこの独立への意思のもっとも鋭い象徴である。
心理学的にみればこの意思は父性的なものである。茫漠と境界もない広がりと黄泉の底涯も知れぬ深みとによって人間を抱擁する母なる大地から分断されて、目に見え、明確な区画と限界を持ち、あくまで地上のものとして人間によって作られた場所、包みこむためよりは切断し拒絶し分割するために、人間によって彼のためだけ、あらゆる文化とその意味とを充填して作られた場所、それが都市である。
・・・・・・終章・アルカディア複合とユートウピア複合・・・(境界的・祝祭的な心理に注目)
厳延年伝の臘に顔師古は「建丑の日、臘祭を為し、因りて会飲す、今の蜡節(させつ)のごとし」と、そして武帝紀の臘では「臘とは冬至の後に百神を臘祭す」と注している。したがって要約すれば、臘祭とは冬至後のいずれかの日に、農民が大勢参加して飲食を楽しみ、一年の労働の辛苦を癒し、門戸および門戸の神を含むさまざまな神々を祀って、古い年を送り新しい年の到来を迎える祭であることになる。
そして後漢時代にはその前日に大儺が行なわれ、顔師古の唐時代には類似の祭祀に蜡節(させつ)があった。が、実は顔師古が「今の」といっている蜡節(させつ)は臘と同じくらい古い由来を持つ祭であり、その起源と変遷は問わずとも、年末に行なわれる季節祭としていくつかの特徴と一つの宇宙論的な象徴性を臘祭と共有しているのであった。
蜡の祭は収穫のあとに農民たちが祝う感謝祭あるいは収穫祭であった、つとにM・グラネが指摘し、H・マスペロが概説し、ちかくはD・ボッドが臘との比較において詳論しているように。
『礼記』郊特性篇その他の文献に散見する記述によって素描すれば、歳末十二月に天子以下、諸侯から共同体の農民までが、「八蜡(はちさ)」すなわち先嗇(鄭玄によれば農耕を発明した神農)、司嗇(農事の神々)、農(上古の農業監督官の霊)、郵、表、畷(初めてでごや、みち、あぜを作った人々の霊)、禽獣(家畜)、貓・虎、坊(初めて堤防を作った人の霊)および水庸(灌漑の最初の作製者の霊)――農耕に関連する八種の神、文化英雄・精霊・動物に供物をささげることを中核とする。
閭里あるいは共同体のレベルでは、おそらく父老が白い鹿皮の冠ををかむり、素衤會(しろぎぬ)の服を着て、葛の帯をしめ榛(はしばみ)の杖をついた喪装で祭司をつとめる。野夫・田夫つまり農民は黄の衣服をつけ、黄冠すなわち黄いろのわら帽子をかぶって参加、父老を助けるのである。供物は農作物、鳥獣が用いられ、おそらく祭司を演ずる父老であろう、過ぎた年に訣別し、古びた生命をとむらい、生命を宿すべき存在者へ蘇るときまでの休息を請う祝詞を誦する、曰く「おお 土よ おまえの休みの宅(ところ)へ返れ、おお 水よ おまえの壑(みぞ)に帰れ、おお 昆虫よ 活動するなかれ、おお雑木と雑草よ おまえたちの沢(あれち)に帰れ!」。
そして参加者に供物が頒たれ、直会(なおらい)の饗宴が開始される。それは牛飲馬食、性の放縦がゆるされ、さまざまな音楽と舞踊が演じられる狂演(オルギア)であって、猫や虎の仮装のミミクリィを中心とするマスカレイド(仮装演戯)も欠けてはいなかった。
蜡は農作業の季節から寒気のうちに来たるべき再生を待機し休息する季節への祭、衰弱した生命に感謝しつつ訣別し、やがて到来する新たな生命をいまだ期待と予感のうちに歓迎へと待機する狭間の時間に、つまり季節の運行の境界(リーメン)に位置する祭であった。参加者の白の喪服と黄の衣冠との同時並存の対照が死への訣別と再生への期待との共存を証するであろう。
ここでは過ぎた季節における労働の辛苦が忘れ去られ、その日々の生活を律していた性別にもとづく分業、所有や身分による分節、労働のための家族からの分離(供犠の対象の一つである「郵=でごや」は耕作地に設けられた廬、農繁期の出作り小屋である)等々、そうした日常生活を律していたすべての分割が撥無され、異性の所有という最も基本的な分割の形式さえもが突然に訪れた心理-精神的な解放と救済の気分のうちに性の放埓となって解消し、人間は虎や猫に扮することで自身の同一性を失って嬉々として鼠や野猪を追いかける。男は女のうちに溶解し、個人は集団のなかに消滅し、人間は動物に変態し、共同体全体がそれをとりまく自然の万物と世界のリズムのうちに結合を遂げてしまうのである。
《以上》
FriendFeedコメントより転載
世界史的な視点では、シナ化都市化が南シナ海に到達した後にシナ的なコスモロジーは新たな変容を迫られたにも関わらずそれを実現していない、ということになりましょうか。まず彼らが対抗勢力としてぶち当たったのが「倭寇」としての日本と台湾だったでしょう。それに対する対抗策は「海禁」という政府の鎖国政策と、倭寇への同化という民衆的生活の智慧でした。この伝統的シナ官民の乖離は形を変えて拡大し、いままさにわれわれが直面しているものでもあります。さらには産業革命を実現し海洋に乗り出した西洋文明です。之にたしても一切なすすべもなく敗退を続けているのがシナ文明です。中共の海洋進出はこれらの歴史的視点から見てはじめてその内的な衝動が理解できるのでした。 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます。明のあたりが、シナ中原文明にとっての、変容のチャンスにしてターニングポイントだったのかも知れないですね。海禁政策=鎖国政策というのは知りませんでした。お勉強になりました(汗)。ウィキペディアで調べてビックリしたのですが、観光スポットとして有名な万里の長城も、明の作品だったみたいです。現実化・永遠化した「シナ文明の城壁」のようだと思いました。…現在の海洋進出への執念は、はるかに奥深いものから来ているのである、とすると、事はいっそう深刻ですね。どうやって対応したらいいのだろう…という事はなかなか思いつかないのですが、かつての中世の媽祖信仰の広がりに、将来に向けての手がかりが見つかるかな…と、思っております(ちょっと無謀すぎるかも知れませんが…汗)
《管理人FriendFeed呟き》先のコメントで言及された倭寇の活動が気になって、ウィキペディアで調べてみると、倭寇の活動マップがそのまま中世の媽祖信仰の調査で出てきた地名と重なっていて、腰を抜かすほどビックリしました(変なことですが、媽祖信仰の拡大に注目していて、倭寇の活動を調査していたつもりは全然無かったので)。うーむ。開いた口が一時間ほどふさがらなかったです。もしかしたら、媽祖信仰を船に乗せてあちこち航海していた南シナ人って、「前期倭寇」なるものの勢いに乗って、その後もずっと活動し続けていたグループなのかな…もし、清が来ていなかったら、もっと面白い事になっていたのかも…
当然そうなるでしょうね。海へとあふれだしたシナ人たち、つまり当時で言う海禁破りの海外貿易という不法行為を働いた水賊、自衛のために武装した貿易船が「倭寇」だったのですし、彼らが航行安全を祈ったのが媽祖ですから♪歴史に「もし」を仮定するのは非常に有意義なことです。もし、満洲人たちがシナ征服に失敗していたら、あるいは最低でも南シナへ進出できなかったら、と仮定すると、まったく違ったシナ像があぶりでてきます。かっての南北対峙とはことなって海上交通によるネットワークにもとづいた政治経済連合体が南シナに形成されていたかもしれません。がしかし、もういいちど考えてみてください。鄧小平の経済改革は、主に台湾香港シンガポール南洋などのいわゆる「華僑」やそれ以外の地域の華人ネットワークの経済資本と投資に頼っているのでした。その経済実態のうえに中共北京の政治権力がかぶさっているだけなのです。つまり夢想できた南シナ海洋国家というものは実質的に存在しているのです。あとはシナ人自身が何時その事実に気づき、そして新しい世界観、すなわちシナ・イデオロギーに手足を縛られたコスモロジーから脱却し、現実にそった国家へと変容できるかどうかが今後の鍵となることでしょう♪ - Marco Maseratti
《返信》インターネットで「現代中国は一枚岩ではない」とささやかれている理由がよく分かりました。倭寇は、陰に陽に、現代に至るまで、興味深いインパクトをもたらしているみたいですね。現在の政治社会の状況や、日本に来ている「中国人」を観察する限りでは、まだまだ根強い「古代的な中華意識&無頼的・徒党的無意識」が浸透しているみたいで、どうやって付き合ったらよいのかなあ…というような、微妙な抵抗を感じています。変容後の彼らがどういう風になるのか、非常な興味をそそられます