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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代の祭祀/四月・三枝祭

『事典 古代の祭祀と年中行事』2019吉川弘文館

四月・三枝祭

概要

毎年の4月、国家(神祇官)が大和国添上(そうのかみ)郡(奈良市本子守町)に鎮座する率川神社(率川社)の祝部に幣帛を託し、大物主神の子孫とされる大神氏(三輪氏)の氏宗(うじのかみ=氏上)が行なった祭祀である。

率川神社は率川坐大神神御子神社ともいい、3座の神が祀られていた(『延喜式』神名帳上)。

城上(しきのかみ)郡(奈良県桜井市)に鎮座する大神神社の祭神である大物主神の御子神もしくは「大神の族類の神」(「令釈」)とされてきた。

率川神社は大神神社とは離れた地にあり、その創建は大神氏の勢力が最も拡大した持統朝(7世紀後半)であったという〔和田:1989〕。また付近には後に平城京の外京(げきょう)(条坊拡張部分)が成立し、大神神社の神威は平城京にももたらされていったと考えられている〔藤森:20018〕。


祭祀の内容と方法

『延喜式』四時祭上には三枝祭と3月の鎮花祭(大神神社・狭井神社)の両者について、全j津の通り幣帛を祝部に託すことが記されている。しかし両祭には、祈年・月次祭の班幣のような祝詞宣読などの何らかの祭儀(行事)が神祇官で行なわれた形跡は窺えない。祭日についても4月としか記述がなく、鎮花祭と同様に吉日を選んで行なわれていたと考えられる。

具体的な次第などは不明であるが、祭司にあたり「三枝」の花で飾り付けた酒樽を供えたことが分かり、これが「三枝祭」の名の由来であった(『令集解』「令釈」)。

三枝は通常ヤマユリ(ユリ科)のことと言われるが、他にイカリソウ(メギ科)やミツマタ(ジンチョウゲ科)などとする説もある〔宮地:1949〕。

いずれにしてもその読みは「福草(さきくさ)」に由来し、「三枝」の字義が示す通り茎の先が三つ枝に分かれた、福寿を祝う瑞草であったことが分かる。また酒樽に納めた神酒は、神税の稲百束から醸造されたものであったと考えられる(『延喜式』四時祭上)。

三枝祭の斎行に重要であったのは、事前に大神氏の氏宗が定められていなければ斎行は適わなかった(「令釈」)。三枝祭は氏宗を祭祀者(神主)として行われたのである。この形式は「古記に別なし」とある通り「大宝令」の頃にはすでに定められていた。

国家がみずからの願意を率川神社に伝えるために幣帛を奉るにあたって、幣帛を神祇官から現地まで運ぶのは祝部であり、これを最終的に祭神に奉るのは大神氏の氏宗の役割であった。

祝部は主に神戸(かんべ)の中から任命され、神祇官にて名簿が管理された在地出身の令制官人であった。(『令集解』)。すなわち祝部が幣帛を運搬することは、国家に所属する末端官人としての自然な任務と言える。

一方で、現地で祭祀を行う大神氏は在地の一氏族であり、令制でも明確な規定はなく国家の管理下にはないため、国家祭祀の祭祀者ではない。

国家が主体となり国家のために行う祭祀(国会祭祀)を、特定氏族に委託するという特徴的な形式であった。


祭祀の背景と性格

大神氏が率川神社に対する国家の祭祀を担うこととなった背景には、鎮花祭と同様に、記紀神話における崇神朝の三輪山伝承が語る大神氏と大物主神との関係があった。

それによると崇神天皇の御代、疫病の流行により多くの人々が犠牲となった。あるとき天皇の御夢に大物主神が現れ、疫病の原因が自分の神意であり、その子・大田田根子(『古事記』では意富多多泥古)に自分を祭らせれば、たちまち国に平安が訪れることを伝える(『日本書紀』ではさらに三人の人物が同様の夢を見ている)。

天皇は国中を探して、ついに大田田根子を見つけ出し(『紀』では茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)〈大阪府堺市東南部〉、『記』は河内の美努(みぬ)村〈大阪府中河内郡〉とする)、これを神主として三輪山で祭祀を行わせた。すると疫病は収束し、国家は平安を取り戻して五穀豊穣になったという。

三枝祭の神主となる大神氏は、この大田田根子の子孫にあたり、右の伝承を起源として祖神・大物主神を奉斎してきた。大神神社の御子神である率川神社へも同様である。

古来の原則として、国家は国家の願意(疫病鎮静など)を個別の神社に直接祈り祀ることはせず、在地・氏族の祭祀に対しては不介入の姿勢を保った。そのため、神話伝承で大物主神の子孫とされる大神氏の氏宗を神主として、国家祭祀(三枝祭)を委ねる必要があったのである。

三枝祭の意義については明確な記述がないが、率川神社の親神を祀る鎮花祭と同様、疫病の予防・鎮静の意義をもつと考えて良いだろう。国家にとって率川神社は、三輪山から離れた平城京における防疫神と認識されたのである。

一方、大神氏は個別の氏族(氏神)祭祀として大神祭(四月・十二月上卯日)を行なっていた。これは貞観年間(859~877)に公祭となるが、大神氏が氏族のための祭祀を行う時、大物主神は他氏族の氏神と同様の単なる始祖神であった。これは国家にとっての大物主神が防疫神としての性格で認識されていたことと対照的である。

国家祭祀の三枝祭と氏族祭祀の大神祭が、祭司者を同じにしながらも全く祭祀の目的を異にする祭祀であったことがわかる〔藤森:2008〕。

また二月・十二月の「率川祭」は率川神社の祭祀ではなく「率川阿波神社」(現在は率川神社の摂社)への祭祀であった。


変遷

三枝祭は平安時代中期には廃絶したが、明治12年(1879)に率川神社が大神神社の摂社となるに伴い、同14年に再興した。

現在は毎年6月17日に別名「ゆりまつり」として行なわれており、濁酒(黒酒)・清酒(白酒)を入れた酒樽を三輪山のユリの花で飾り供える祭りが行なわれている。


参考文献

宮地治邦「三枝祭について」『神道歴史学』一、1949

和田萃「率川社の相八卦読み」『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』中、塙書房1995(初出1989)

藤森馨「鎮花祭と三枝祭の祭祀構造」『古代の天皇祭祀と神宮祭祀』吉川弘文館、2017(初出2008)

(木村大樹)

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