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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・3

今回はさらっと、歴史関連のピックアップと、地元住民の物騒な習慣についての調査。

大陸内部では様々なタイプの秘密結社があり、任侠タイプから、本物の犯罪者集団まで色々だったようです(…が、どちらも腕力に訴える、武闘派であることには変わりないかも…)^^;

資料=[清国の台湾領有と初期の経営]…「天地会と分類械闘」の部分より一部抜粋

先住民と比較して、移住民の抵抗が圧倒的に多く、かつ規模も大きかった原因の一つに、鄭氏政権崩壊後に顕在化した秘密結社である「天地会」の存在がある。天地会は政治的には異民族である満州王朝の打倒と、漢民族の明王朝の再興をめざし、経済的には孤立無援の移住民の互助を目的とする民間組織である。
天地会の名は、「天地を父母とし、盟員は兄弟」とするところに由来し、入会は互いに血の杯を交わす「挿血為盟」「飲血為盟」の儀式によって認められる。当時、移住民は単身の男子ばかりの状況にあり、義兄弟の契りを結ぶことで、清国政府に対抗すると同時に無聊を慰め、家族的な団結を強めることができ、異郷の地に生きる方途として、経済的にも社会的にも助け合ったのである。
清王朝に反感を抱き「血で固められた」集団だけに、いつどこで決起しても不思議ではなく、いったん事あればたちまち燎原の火となり清国政府を脅かした。
天地会の初期の活動には、政治的な動機が強く見られたが次第に薄れ、相互扶助の性格が顕著となって行った。移住民の増加とともに盟員も増え、やがて移住民の原籍地ごとの組織に枝分かれした。
朱一貴の役や林爽文の役において、短時間に台湾全域を席捲した背景には、天地会の組織的な動員力があり、また、失敗の一因には、ビン南系と客家系の反目があった。いわゆる「分類械闘」の問題は、ここに絡んでくる。

資料:械闘について[械闘:中国・新興国・海外ニュース&コラム | KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ)

(考察)

械闘とは、同郷人を結集した私的闘争のことだそうです。水争いや土地争いなどの武闘が大きくなったもので、徹底化した場合は、相手の村落を断絶させる事もあった。人々は、コロニーを要塞化(=円楼)し、必要に応じて、鎌や鍬や包丁を持って戦った。闘争の終結には卓越した組織力と調停力が問われ、ここに任侠派(?)-秘密結社としての「天地会」が発達する理由があったと考えられる…

清によって強制された大型移民が、この事態を招いた(?)

少数の家族単位での移動の場合はお互いに融合しやすいが、部族単位の大移動は、殆どの場合、先住民との間に大きな緊張を生む。また、出身地コロニーごとに分かれるために、部族ごとの習慣差も言語差も保存されやすく、移民側には、ことさらに自らの伝統を墨守するという心理が生まれやすいという事が指摘されている。

清が追いやった被征服民が「客家」として発達したのは、こうした心理的事情が大きかったと思われる。広東省等の一部地域では、清代には、土着民と客家の双方で合計50万人を超える死傷者を出すといった械闘が生じた事が知られている。こうした闘争の中で、自らの「漢人」としての正当性の主張が盛んに行なわれ、いつしか「客家=正統な漢人」が定説として広まっていったのが、実情ではなかったか。

また、土着の民との緊張を強いられるコロニー生活の特殊性が、後に強力な指導者を輩出する苗床となった事は容易に推測できる。「天地会」の組織力と、「客家リーダー」の指導力とが、奇跡の合体を果たしたのが、例えば孫文政権という現象だったのだろうと考えられる…

(世界情勢)

クリミア戦争(1854-1856)…ロシアvsオスマン=トルコの争いに、トルコ利権を狙う西洋列強が入り乱れた凄惨な戦争。この戦争資金の大部分が、植民地を中心に展開した〈阿片経済〉による莫大な利益でまかなわれていた。その後の世界大戦の資金も同じ。

アロー戦争(1857-1860)はクリミア戦争の後の調停中に起きており、西洋列強は清国問題とクリミア問題、さらには太平天国(1851-1864)問題に同時に当たらなければならなかったため、日本への介入に隙間が出来たと考えられる。この間に日本では明治維新への動きが高まった。

当時のアメリカは、西洋列強によるラテンアメリカ独立ブームを警戒して、相互不干渉を旨とするモンロー主義(1823-1890)を採っていたが、内部矛盾の拡大により南北戦争(1861-1865)が起きたため、太平天国の乱が起きた清や明治維新に走り出した日本に干渉するだけの余裕が無かった(ちなみに戊辰戦争で使われた各種小火器は、南北戦争のお下がり)。アラスカは元ロシア領土(1784-)だったが、クリミア戦争後、アラスカがイギリスに渡ることを恐れていたロシアから、領土買取(1867年調印、720万ドル)を行なった。その後のアラスカは第1次ゴールドラッシュに沸いて人口が増え、石油採掘も始まった[アラスカの歴史

※1815年、ロシア商人(露米会社の社員)がハワイのカウアイ島にエリザベート要塞を建設していたが、時のハワイ国王カメハメハ1世が直ちにロシア人を追い出したため、ハワイはロシア領土にならなかったという一幕があった。しかし、その後アメリカ人入居者に乗っ取られ、1898年にハワイ王国は滅んだ(=孫文が1894年ハワイで「興中会」を立ち上げた時、まだハワイ王国は存在していたのだった…)。

ロシア=新疆地方の工作に熱心だった。1856年に雲南省で回民(ムスリム)の蜂起が起こると、ムスリム系の反乱は陝西省・甘粛省へも広がり、新疆へ伝播。コーカンド・ハン国のウイグル人武将ヤークーブ・ベクがこの機に乗じてイギリスの支援を受けて天山南路を支配。この騒動で中央アジアが混乱すると、かねてから3ハン国を手中に収めていた帝政ロシアは、急にイリ地方を軍事占領した。1881年ペテルブルグ条約でイリ返還・新疆をロシアに解放。

日本=1867年に大政奉還があった。このときから明治維新がスタートし、戊辰戦争(1868-1869)や西南戦争(1887)を通じて旧体制の整理が進み、最終的に近代の立憲体制が確立したのが1889年(1885年=伊藤博文、初代総理大臣)。

清国=西太后の独裁を迎える(1861クーデタ-1889引退したが光緒帝の背後で権力を振るう)。その後、西太后派の李鴻章(北洋艦隊の頭で洋務運動の推進派)と光緒帝派の重臣らが宮廷内権力闘争を演じたが、日清戦争(1894-1895)で中断。ちなみに1894年、孫文がハワイで秘密結社「興中会」を結成している。孫文は1883年に香港で洗礼を受けたクリスチャン客家(1915年、日本で浙江財閥-宋家三姉妹の次女・宋慶齡と結婚)

日清戦争(1894-1895)…朝鮮半島の内乱をきっかけに、清と日本とで軍事衝突。結果、台湾割譲。日本統治下の台湾では阿片専売制が敷かれ、日本にとって効率の良い国庫歳入源となった。

一方、1896年に「露清密約」が李鴻章とロシアの間で結ばれていた。日本の帝国主義的アクションに対して、協力して妨害するという内容で、全ての港へのロシア軍の出入り自由化と、満州経由ウラジオストク行き「東清鉄道」の敷設権利が付いていた。さらに2年後、ロシアは遼東半島の大連を25年間租借し、旅順を軍事基地とした。この基地が義和団の乱(1900-1901)の際に役立つ事になるが、日本にとっては地政学的脅威だった。

にわか勉強なので、少し混乱してるかも。つづく…^^;


FriendFeedコメントより転載

宋家三姐妹は上海生まれですが、本貫は海南島ですから、浙江財閥とはいえないと思います。まあかってに入れている人もいるようですが概念の乱用でしょう。ところで孫文には日本女に産ませた娘がいたのはご存知ですか?その方は宮川冨美子といって平成二年に82歳で亡くなりました。田中建之『横浜中華街』(中公新書)に記載があります。 - 丸山光三
「浙江財閥」は単に「浙江の名の元に集まって活躍した財閥」くらいにしか考えてなかったです。複雑な事情があるみたいですね…^^;宋三姉妹の父親も、チャーリー宋・宋耀如・宋嘉樹・チャン-ウェンと4つの名前があって怪しげな人みたいですし(他にも名前があるみたいですが…)。広東省出身・孫文と海南島出身・宋とで、同じ南海岸の者同士、気が合ったのでしょうか。孫文に日本人の奥さんと娘さんが居るとは知らなかったです。。。
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