知性の勝利,霊性の敗北・後
《覚書・前篇》から続く
ギリシャ正教精神の立場から西欧精神を観察したテキスト部分・今後の考察のための記録
(ウィキペディアより)…「ハリストス」とはキリストのこと。
キリストを示す"Χριστóς"は、古典ギリシャ語の再建音では「クリストース」となるが、中世初期以降のギリシャ語では「フリストース」と変化し、現代ギリシャ語でも「フリストース」となっている。「ハリストス」はこの「Χριστóς(フリストース)」、教会スラヴ語「Христос(フリストース)」を音写し片仮名表記したものである。「イエス・キリスト」は「イイスス・ハリストス」と表記される。
・・・文字コードで特殊文字を記述。ギリシャ文字やロシア文字を探すのは大変…
テキスト=『ロシア精神の源』―よみがえる「聖なるロシア」―(中公新書1989)/高橋保行・著(ニューヨーク聖ウラジーミル神学大学院卒、日本ハリストス正教会司祭)
《ふたつの智恵の対立》
ギリシア古典のアラビア語からの導入と論理学の高まりは、12世紀から13世紀の間にキリスト教哲学を生み、ヨーロッパ各地で静かな知的革命を引き起こした。
教会の中には最初、知的革命をいぶかしく思い反対する者もいたが、知性の力に魅了されたヨーロッパ社会は大いにこれを歓迎した。教会の中から始まった知的革命は、いったん教会の外に出た後、ルネッサンスの勢いと相まって今度は逆に教会に舞い戻り、宗教改革を誘発した。
文化的に見ると、宗教改革は単にローマン・カトリック教会にプロテストするだけの動きではなく、キリスト教の中における知的革命の徹底化なのである。プロテスタンティズムは、教会の中の知的革命を促進し、精神性よりも知性に比重を置いただけでなく、知性が精神性を凌駕することを許してしまったのである。
ところが、知的革命がヨーロッパ社会で徹底すると、皮肉にも西のキリスト教が成立した時期に強調された知性による救いを、社会が教会に代わって知的革命を完全に達成することにより果たしてしまった。
教会が推進していたものを社会が取り上げ、完全に仕上げてしまったところから、教会は用がなくなり、世界の中にあるさまざまな宗教の中の一宗教に成り下がってしまったというのが、ヨーロッパのキリスト教の現状である。
振り返ってみると、実にヨーロッパ中世以降の歴史は精神性を否定する知性の独占の歴史であり、ヨーロッパは連続的知的革命の伝統を生み出したと言える。
現代の西欧社会だけでなく、教会においても精神性は疎外され、それに代わる、倫理という一見精神的に見える論理性がはばをきかしている。倫理はあくまでも精神的なことを知性の力を借りて論理的に考えるというもので、精神性そのものではないことを忘れてはならない。ここでも、知性が精神性を虐げている。
精神性の疎外は精神性に対する無知を生じ、個人の中でのみ体験する神秘的なものとか、知性に対抗する集団感性を精神性と取り違えたりする結末を生んでいる。その逆に、簡単な理屈を説いて納得させたり、まったく逆に複雑な精神界の構造を説いたりという、いずれも頭で納得する宗教は、知性に傾倒している社会にのみ生じるものである。精神性を忘れている人間が生み出す精神性の代用品であるといってもよい。
宗教とは関わりたくないという知的現代人は、知性が精神性を無視する時に知らず知らずのうちに生じる、精神性欠如という弊害をなんとかしようというための応急処置が宗教であると思っているようだ。そうした意味から知性派が宗教を敬遠し続けるのはもっともな話である。だれが自分の病む体から出る排出物を再び受け入れようか。
聖なるビザンチンでは、ギリシア古典が正規の教育の基盤にあったから、生活の中に知性のための場が設けられていた。知的活動は活発であったが、けっして精神性の肩代わりができるなどというようには考えなかった。ときに優れた知識人の中には、ギリシア古典とキリスト教の神学を結びつけてタブーを破ろうという試みもあったが、必ず聖職者や修道士たちがこれに応戦した。知的現代人が聞くと、すぐになるほどと思う。聖職者が宗教感情を強く持ち、主観でのみ物を言うイメージが強いからだ。
これらの聖職者や修道士たちは、盲目的に精神性を主張したのではない。かつては自分たちも、聖職者や修道士になる前は同じ高度なギリシア古典の教育を受けた知識人であったから、ギリシア古典を巧みに神学に結びつけようという相手の手の内は分かっていたし、知性の弱さや強さはよく心得ていたから、明快な答えを提示したのである。
紹介される機会が少ないから知っている人も限られているが、ビザンチン帝国では4世紀から8世紀にかけて、皇帝が「全地公会議」という、現代的にいうならば学術専門会議のようなものを開催していた。
内容は、一見すると、神学論争により正統と異端を明確にする、教会に関することのみのように思われる。ところが、一歩踏み込んで文化的な面からとらえて内容を検討すると、正統と異端を論じつつも、ギリシア古典を主軸とした「外なる智恵」と、キリスト教の精神性を基盤にした「内なる智恵」の微妙な噛み合いがどうあるべきかを明らかにしていることが分かるのである。
双方の論議から産出した教義的表現は、単に教会の信条としての意味を持っているだけでなく、文化的な面からとらえてみると、ギリシア哲学とキリスト教の精神性の互いがどのような性質を持ち、キリスト教文化の中でどのように関わっているかを明快にしていることが分かる。知性と精神性のそれぞれの所在を明らかにし、バランスを保つ働きをしたのである。
ヨーロッパのキリスト教が生まれると共にギリシア古典と出会った時には、ビザンチン帝国の中にすでにあったこのようなキリスト教とギリシア古典の千年にわたる付き合いを無視し、そのまま融合してしまったのである。魅惑的な相手というばかりで、一体どのような相手かも確かめないで結婚を急いだのと同じである。
ビザンチンの人たちは、自分たちが先代から受け継いだ遺産がどのような性質のものかをよく心得ていた。そのために、ギリシア古典の甘味が精神を骨抜きにしないように、付き合い方にはいつも細心の注意を払っていたし、ビザンチン帝国にはその誘惑に負けないだけの精神性を持つ人がいくらでもいた。
ギリシア古典が紹介された時代の西欧社会には、ギリシア古典の知性に太刀打ちできるほどの精神性を持つ人はいなかったし、知性の力にはまったく初心であったから、圧倒的に論理学と知性の甘味に飲み込まれてしまった。
※同書別頁からの抜き出し補遺※
…ローマ総主教区でも最初はラテン語習得を強制せず、他の総主教区と同じように、伝道先の現地の人たちの言語を尊重していた。
ところが、同じローマ総主教区内のフランク王国が、自分のところから派遣した伝道団にラテン語の使用を義務づけ、フランクの権威の象徴とした。この例に倣いローマの総主教は、自分の権威を示すために、9世紀以降、ローマの総主教区の中でラテン語の使用を義務づけた。
やがて、ローマ総主教区内の大聖堂や修道院にあった学問所で論理学が盛んになると、ラテン語は、祈りの言葉から学問をする者の必修の言葉になり、無学の者には逆に意味の分からない有難い言葉になってしまった。こうして、西欧の人々にとりキリスト教の救いは、キリストの生き方を修得するよりも、ラテン語を習得し、知性を磨いてキリストの教えを納得することに変わったのである。
これに拍車をかけるかのように、スペインのコルドバやトレドで、ギリシア哲学のアラビア語からラテン語への翻訳活動が盛んになり、その影響をもろに受けた西のキリスト教は、人の歩むべき道から、人生哲学に変容し始めたのである。ローマ総主教区内の聖堂や修道院が、知的革命の発生の中心となり、現代教育の起源となったのは、だれもが知るところである…
ロシアは、こうしたヨーロッパの体験とはまったく逆の体験に遭遇したのである。ビザンチン文化圏に誕生してから約400年は聖なるビザンチンを親として育ったわけだが、ロシアはその親から「知性は精神性のために尽くす」ということのみを伝承したものの、知性がひとり立ちしたいという誘惑が襲ってきたら、どのように解決したらよいかということは教わらなかった。
ここに、ヨーロッパと出会った時から近代まで、ロシアが抱え続けている苦悩のもとがある。
・・・(引用・終わり)・・・
《コメント》著者はローマ・キリスト教ではなく、ビザンツ・キリスト教に思考の基底を置いてらっしゃるので、以上のような記述になるようです。別の視点から眺めるとこういう風に見えるのかなあ、というのが感じられて、興味深いものでした。
(著者曰く、キリスト教は、「東洋の西端に発生した東洋の宗教」だ…という事になってます)
8世紀から9世紀、トップクラスの文明国を自負していたビザンティン帝国にとって、宗教的に離反独立したローマ・カトリックと、そのローマ・カトリックと共に走り出した西欧社会は、どういう風に見えたのだろうか…というような事を、あれこれと想像してしまいます^^;
FriendFeedコメントより転載
知性と精神性という項目の立て方はその著者のものでしょうが、精神性の代わりに霊性としたほうがより理解しやすかったと思います。でも言わんとすることはわかります。 - 丸山光三
《返信》文章の内容にうなづきつつ夢中でタイプしていたので、そこまで思い至りませんでした。適宜"霊性"とか"霊界(魂)の構造"とかに振り替えつつもう一度読んでみると、改めて以前よりちょっとだけ理解が進んだかも。まだ読みが浅い状態で、この引用文章は、繰り返し読み直してみたいと思っているところです…