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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

カタリ派と十字軍

《カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書》

12-13世紀のプロヴァンスなど南仏地方では、地中海を通じた商業が盛んで、ユダヤ社会も繁栄していた。当時のナルボンヌ諸都市の記録に、ユダヤ人裁判官や商業者の名が見える。

また、中世カバラー思想(10のセフィラを持つセフィロトなどの神秘思想)もここで発生した。古代ユダヤ神秘思想とは系列が異なるものであったらしいが、『ゾハル(光輝の書)』、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』、『バヒール(光輝の書)』などの主要なカバラ文献が、ユダヤ神秘思想史の表舞台に出てきた事は、注目される。

ユダヤ神秘思想の中心地は、スペイン、アキテーヌ、プロヴァンス、ラングドック、レヴァント、ナルボンヌなどの地中海沿岸であったらしい。ここからは、当時の地中海の南で急激に広がったイスラーム勢力との、広汎な交流の様子が透けて見えるものである。

(歴史説話の分野になるが、「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」を想起されたい。特にフランク軍がイスラームに反撃した際は、ラングドック地方は砂漠と化した、というくらいに大きな被害を受けたそうである。初期フランク人は野蛮人であったらしい。だからこそ、後に広大なフランク統一帝国を作りえたのではあるが…)

同じ頃、異端カタリ派も南仏、特にラングドック地方で繁栄しており、ユダヤ社会とは友好関係にあったらしい。小アジアやコンスタンティノープルを拠点とする東方教会とも、直接の交流があった。カタリ派の流れには、ユダヤ神秘思想やスーフィズム、オリエント神秘思想の要素が、確実に含まれてあったわけである。正確にマニ教グノーシス系統であったかどうかは、未だに議論のテーマであるらしいが、いずれにせよオリエント神秘思想を受け継ぐ「グノーシス的異端」だったのだと言えよう。

ここで、アルビジョワ十字軍1209-1229のきっかけについて記しておく。

教皇インノケンティウス3世が派遣した使節ピエールが、カタリ派の盛んなトゥルーズ伯レイモン6世の土地でカタリ派を根絶しようとしたが、結局、トゥルーズ伯の手の者に、背後から槍で突き殺された…という事件による。説話によれば、この顛末を聞いた教皇は、2日間、声が出ないほど怒り狂った後、フランス王に破門者トゥルーズ伯の討伐を訴えた。これがアルビジョワ十字軍の始まりである。

(ちなみに、トゥルーズ伯レイモン6世は、異端カタリ派支援貴族として、破門を受けた人物である。この破門宣告という代物は、最近の北朝鮮やイランなどの、テロ支援国家の指定に似てなくも無い。…いちじるしいデジャビュを感じるのは多分、気のせいでは無い筈だ…)

アルビジョワ十字軍はユダヤ排除も含んでおり、南仏ユダヤ・コミュニティーの弾圧も行なわれたと言われている。実際、十字軍とは、とどのつまり、欧州社会における一大ヒステリーであり、大規模なユダヤ排斥運動の一様式であったらしい、ということが指摘されている。

フランス・カペー朝は、この教皇からの討伐依頼を利用し、莫大な資金と軍隊とを運用して、南仏穀倉地帯を支配していた諸侯を制圧し、フランス統一を図ったのである。ブルゴーニュ、イル=ド=フランス、ノルマンディー地方の騎士たちは、過去の十字軍とは異なり、海を渡る必要も、他国の騎士と競争する必要も無く、南仏の豊かな商業の富が容易に手に入る事を夢想して、アルビジョワ十字軍に参加したのであった。

最も凶暴な十字軍で知られたのは、イル=ド=フランス出身のレステル伯シモン・ド・モンフォール勢力である。十字軍の殆どが帰郷したにも関わらず、シモンは新トゥルーズ伯になる事を望んで略奪と圧制の限りを続け、配下の騎士たちは血の海の中で、カタリ派の財産を奪ったのであった。インノケンティウス3世自身、自らの名において発した十字軍の残虐行為の有様に、不安になったそうである(ちなみにその後、フランス情勢は動乱を続け、圧制者シモンは、トゥルーズ伯の反撃の際に投石で殺された)。

同じ頃に、カトリック=スコラ学の尖兵としてドミニコ修道会が結成され、アルビジョワ十字軍に随行し、カタリ派を異端審問にかけ、殺害した事が知られている。皮肉なことに、「転向した元カタリ派」による異端審問が、最も苛酷なものだったそうである。

(ドミニコは死後わずか13年で聖人に列せられた。この辺りにローマ=カトリックの「清らかではない政治事情」を見てもよいと思われる。当時の聖職者の堕落ぶりは、大きな話題になっていた。その折に現世を悪と見るカタリ派が人気を博したという事実は、ローマ=カトリック側に深刻な危機感と醜い嫉妬心とをかきたてた筈である。ついでながら、ドミニコ会は中世スコラ学の巨人アルベルトゥス・マグヌスと、その弟子トマス・アクィナスを輩出した事で知られている。)

このアルビジョワ十字軍から始まったフランス南北戦争により、豊かな土地であった南仏は荒廃して大勢の死者を出した。南仏で最も有力であったトゥルーズ伯の子孫(圧制者シモンからトゥルーズを奪還した人物の息子)が、抗戦の末にフランス王に降伏し、上着を脱いだシャツ1枚の姿となり、「カタリ派の一掃、及びフランス王室との政略結婚に応じる旨」をノートルダム広場の前で誓った事をもって、南仏は正式にカトリック系フランス領土となることが運命付けられた。

こうした政治情勢の激変と並行して、魔女裁判があったことも、南仏カタリ派の崩壊に拍車をかけた。更に14世紀ペストの大流行があり、わずかな残党も壊滅したのである。カタリ派が完全に断絶し、異端審問所が無くなったのは、1350年頃のことである。

この後、カタリ派と同じくオリエント・グノーシスの影響を受けたユダヤ神秘思想(カバラ中心)が、スペイン=レコンキスタ運動に追われたユダヤ人のイタリア移住後、イタリア・ルネサンスの波に乗って一気にヨーロッパ全体に拡散し、中世崩壊以後の西洋オカルト思想に大きな影響を与えたのは、これまた皮肉な現象である。


FriendFeedコメントより転載

グノーシスに興味をもったのはユングの言及があったからですが、その後、シナの秘密結社と民間宗教を調べていてマニ教とグノーシスが関係あるらしいと知って一気に目が覚める想いをしたことが懐かしいです。アルビジョワ十字軍についてはフランスでは故意に無視しているのでしょう。それまではプロヴァンスは独自の文化をもちイタリアからカタルニアへとつづく文化圏を築いていたのですが北フランスの帝国主義にしてやられたということですね。フランス国内にはそのような例はいくつもあり、シナの拡大と中華思想を考えるうえでも参考になります。 - 丸山光三
《返信》フランス歴史暗黒物語orz…をたっぷりと味わって、固まっておりました。プロヴァンスとかラングドックとか聞くと、オック語,吟遊詩人(トゥルバドゥール),ロマネスク美術など、何となくロマンチックなイメージがありますし(女友達の間ではプロヴァンス=ラベンダー畑なのです)。でも改めて考えてみると、寒冷な北と豊かな南という構図は両方とも似ている訳で、比較してみる事でニュートラルな見方ができるかも知れないですね…^^

(補足)ハプスブルク家の婚姻関係

非常に貴賤結婚を嫌う=血族結婚で血脈を網目のように織り込むことで何らかのオカルトパワーを得ていた可能性あり?
その地位に見合うような努力が必要だが、結局その地位に見合う器や実力が身に付かなかった人物は、地位に伴う義務を捨てて、ステータスのみ利用する発想になる


https://1000ya.isis.ne.jp/1705.html

【宗教会議が正統性を模索する…歴史とヴィジョンは別物では無い、ヨアキムの系統樹の思想、歴史の主語を目指す西欧】

十三世紀になると、一二一五年の第四回ラテラノ公会議を、教皇インノケンティウス三世が教会崩壊の危機を警告する辞をもって開会させた。次々に出てくる異端者をどうするか、その対策が練られていった。

異端とされたのは、ヴァルド派、フランシスコ会士、カタリ派(アルビ派)、ドミニコ会士たちである。けれどもそうした異端派たちは、憤慨したり驚いたりしたというよりも、自分たちが新たな世界史に所属させられるのなら、その意図はどういうものであるべきかを問うようになった。たとえば十世紀はじめにブルガリア王国に発した「神の友」団のボゴミール運動は、そのことをコンスタンチノープルにもちこんだ。

カタリ派は「清いこと」とは何かを追究した。このカタリ派の思念がのちの清教徒(ピューリタン)の起源になっていく。

フランシスコ会は「小さな兄弟たちの集団」(兄弟団)という旗のもと、このあとのヨーロッパのプルードンからシモーヌ・ヴェイユに及ぶ思想を準備した。アッシジのフランチェスコの無所有・清貧の姿勢から生まれた修道会で、ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアム、ロバート・グロステスト、ロジャー・ベーコンなど、多くの傑出した才能を生んだ。

【理性による世界史づくり…西ヨーロッパの理性的世界観】

教皇ボニファティウス八世が暴君よろしく一三〇〇年を「聖なる年」であると宣言すると、時代は大きく転換

この聖なる十四世紀に逆対応するかのように、ロジャー・ベーコン、パドヴァのマルシリウス、ダンテ、ライムンドゥス・ルルス、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアム、マイスター・エックハルトが比類ない人知をもって輩出。

ドゥンス・スコトゥスは人間の存在にひそむ「オルド」(秩序)を追究。スコトゥスがルターの先駆者であったばかりでなく、ホッブズ、ロック、ルソー、ハイデガーの先駆者でもあった。

プラトンこのかた神の君臨を戴いてきた初期ヨーロッパ史は、なかなか理性的世界観を現実政治に向けるということができないままにいた。それがおこったのが十四世紀に始まるイタリア・ルネサンスの中でのことだ。

ダンテを嚆矢とするこの「政治的人文主義」の動向は、フィレンツェを中心にしてリエンツォ、サヴォナローラ、マキアヴェリに受け継がれ、そこから人文主義者ペトラルカ、『痴愚神礼讃』のエラスムス、宗教改革のルターやカルヴァン、イエズス会のイグナティウス・デ・ロヨラへと飛んでいく。

ダンテの意味付けは多数の側面を持っている。ブラバンティアのシゲルスの後継者。トマス・アクィナスの弟子。カタリ派的アルビ派の貴族の受容者。ユダヤ的預言者。エトルスクの司祭。

宰相マキアヴェリがフィレンツェの君主に「相手に誑かされないための方策」を提供したくなったのも、これまでの宗教会議の成果とダンテの資質を継承したいという政治的人文主義からだった。

こうしたルネサンスの運動が政治のみならず、芸術にも図法にも魔術にも及んでいたことは言うまでもない。

ルネサンスは、イタリアにおいては古典や原典に回帰復興する方向を持った。ドイツでは、宗教改革(Protestant Reformation)に及んだ。これはヨーロッパ精神史の大事件であり、大きな謎。あれほどの宗教会議を重ねてきながら、なぜキリスト教世界に決定的な亀裂が入り、そこになぜ奔馬のようなプロテスタンティズムが暴れ出てきたのか。

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