古代科学漂流の章・中世4
《イスラーム世界確立以前の古代中央アジア》
イスラーム文明圏…アラビア学術の目覚ましい成長を説明するには、アレクサンドロス大王の東征まで遡らなければなりません。
オリエントでは、紀元前323年のアレクサンドロス大王の死を挟んで、かつてのアケメネス朝ペルシャのあった場所に、セレウコス朝シリアが建国されました。学芸の頂点の都・アレクサンドリアを擁したプトレマイオス朝エジプトとは隣国同士であり、ヘレニズム・バブルの中、活発な交易が行なわれていました。
これらの変化と前後して、ヒンドゥークシュの南では、チャンドラ・グプタ率いるインドのマウリヤ朝が勢力を増していました。前305年、カブールとカンダハルが、セレウコス朝シリアからマウリヤ朝に割譲されています(そのときの碑文が残っています。文字はギリシャ語とアラム語だそうです)。
アフガニスタンでは、マウリヤ朝の最大版図を築いたアショーカ王の代に、盛んな仏教布教が行なわれていた事がよく知られています(参考:マウリヤ朝はマガダ王国における前317頃-前180頃の王朝。インド大陸において、最初の統一帝国を築いた王朝でもあります)。
マウリヤ朝に一掃されていたギリシャ系勢力は、前255年、バクトリア王国、すなわち「グレコ・バクトリア」を打ち立てます。その領土は、インダス川の西、ほぼアフガニスタン(ヒンドゥークシュの北)にありました。
続いて前248年、カスピ海の東南にイラン系アルサケス朝パルティア王国が建国されました。パルティア王国の主力は西へ向かい、やがて、小アジアの領土確保(おそらく貿易利権)を巡って、ローマ帝国と争う事になります。
ついでながら、「インド含む中央アジア地域の歴史」という観点で見ると、この時代を含む500年間は、壮絶なまでの分裂闘争の時代でありました。民族分布図も勢力図もひっきりなしに入れ替わっており、この時代を明確に記す事は不可能です。
バクトリア王国は、その後、遊牧騎馬民族を含む異民族の流入が激しくなり、壊滅しました。前130年には、この場所に大月氏(中央アジアのサカ=チュルク系?)の王国が新しく出来ることになります。オリエント地域におけるヘレニズム諸王国はここで断絶し、歴史から消えますが、これらの地域におけるヘレニズム文化の交流が途絶えたわけではありません。
新たにアフガニスタンの支配者となった中央アジア系の遊牧王朝・クシャン朝(大月氏・1世紀頃-375)は、諸宗教に対し、寛容政策を採っていました。クシャン帝国の領土の拡大と共に、ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、ヘレニズムの神々など、雑多な信仰が取り込まれていった事が知られています(ちなみにマニは、3世紀前半頃にインド付近を訪れ、帰国後マニ教を創始したそうです)。
諸宗教入り乱れた古代アフガニスタンの中で、特に優勢であったのが、クシャン朝全盛期を築いたカニシュカ王(在位:130-155頃)の庇護を大いに受けていた仏教であります。クシャン朝は、仏教王国でありました。
小アジアの雄として残っていたセレウコス朝シリアは、前63年にローマ属領となりますが、東方からのパルティア王国の拡大が続いており、ローマ支配下になっても、属領シリアの領土は圧迫され続けていました。前53年に小アジアで起きたカルラエの戦いで、パルティア軍がローマ軍を破った事が知られています。
パルティア王国は後226年に滅び、その領土は、ササン朝ペルシャ(226-651)が継承しました。前7世紀から続くゾロアスター教を国教とした王国です。ササン朝ペルシャは、マニ教を弾圧しており、276年~277年にはマニ教の教祖を処刑しています。同じ頃、フン族がトランスオクシアナを越えて西方に勢力を伸ばしました。ローマ帝国領内ではゲルマン系の流入がちらほらと見られ、いよいよ「3世紀の危機」に入ろうとしているところでした。
そして同じ3世紀半ば頃、アフガニスタンの支配者クシャン帝国(大月氏)も、次第に国力低下が起こっており、ササン朝ペルシャの覇王シャープール1世の攻撃を受け、ササン朝ペルシャを宗主国とする小国に転落していました。更にシャープール2世の攻撃によりクシャン王家は瓦解し、ペルシャ属州バクトリア(バルフ)のササン王家が代わって、アフガニスタンを支配する事になります。
5世紀のアフガニスタンは、北方からエフタル(イラン系かトルコ系)の侵入を受けて更に動乱します。この時、大クシャンの後継・小クシャンもササン朝ペルシャも敗北し、エフタルを宗主とする国際関係が展開しました。実際にエフタルは、ササン朝ペルシャの王位継承に強い影響力を及ぼしていた事が知られています。
6世紀後半に、ササン朝ペルシャにホスロー1世が登場し、突厥と結んでエフタルを制圧します。ちなみに、7世紀前半(630年頃)、唐の求法僧・玄奘三蔵が、サマルカンドからアムダリア河を渡り、アフガニスタンを東西に横切り、インドを南北に横切るという大きな旅をした事は有名です。アフガニスタン諸都市で仏教が栄えていた様は、『大唐西域記』によく記されています。
以上のようなイラン・ペルシャ系その他の群雄割拠があったわけですが、このエジプト・シリア・ペルシャ・アフガニスタン一帯における文化の爛熟は、非常に高度なものでありました。その中で、ヘレニズム科学を受け入れてゆく素地が、遠く離れたローマ東方の辺境にも出来上がっていったのであります。
ここで、言語環境の推移について確認します。
ローマ世界においてはラテン語が公用語でした。都市アレクサンドリアでは、コイネーと呼ばれる汎用ギリシャ語がありましたが、西アジアとの関係が深く、コプト語・シリア語・ヘブライ語も広がっていました。ちなみに、コプト語は、ミトラ秘儀や錬金術など、魔術の共通言語としても有名です…(例えば、ナグ・ハマディ文書はコプト語で書かれました)…^^;
シリア語の前身はアラム語であり、アラム語はフェニキアの時代から商人用のリンガ・フランカでした。特にアラム文字は東方に伝えられ、インド、チベット、モンゴル、満州などの諸文字の元になったことが知られています。
・・・補足・・・
カルラエの戦い(前53年)は、西欧世界が初めて遊牧国家と対峙した戦いであり、パルティアン・ショットの記録で有名です。「パルティアの光り輝く旗」という形で〝絹〟が初めて目撃され、シルクロードがローマまで延びるきっかけともなりました。
この戦いを起こしたのは、ローマ三頭政治の一角を占めていたクラッススであります。迎え撃つパルティア側は、オロデス2世という王が代表でしたが、実際にパルティア軍を指導したのは司令官のスレナスだったという話です。えーと、微妙に、王様が無能で、部下が優秀、というケースだったようです…^^;;;;
今回、かなり頑張りました。次回からは少し小刻みになりますでしょうか…^^;;