古代科学漂流の章・中世2
《ヘレニズム学術の東方流出》
ヘレニズム時代からローマ時代にかけて、最も高度な文化が栄えていたのは、都市アレクサンドリアでした(元はプトレマイオス朝エジプトの都市です。ちなみにローマに滅ぼされたプトレマイオス朝エジプト王国の最後の女王が、あの有名なクレオパトラです)。
アレクサンドリアの学芸の都としての没落は、5世紀前半にアレクサンドリア図書館が炎上し、多くの学者が亡命したときからであると言われています。
さらに、エフェソス公会議(431年)を通じたキリスト教内部の権力闘争の中で、アタナシウス派の流れを汲むローマ・カトリックが、実権を握ってゆきます。その過程で、ネストリオス派、アレクサンドリア学派を含む「異端」が追放されてゆきました。
※ちなみに、この頃の公会議は、ビザンツ皇帝が警察力(軍事力)を使ってキリスト教内部の内紛を治めようとした過程で開催されたものだったそうです。この意味では、「政治」が「宗教」に大っぴらに介入していたとも言えます。それくらい、帝国内部の治安にとって、キリスト教の権力闘争は、頭痛の種だったみたいです…^^;
諸々の「異端」はそれぞれトップレベルの学者も抱えており、キリスト教の権力闘争が生み出した異端追放運動は、更に多くのヘレニズム学術の流出を招きました。そして、ヘレニズム学術の多くは、ビザンティン帝国を経てペルシャ世界に流れ、更にアラビア世界およびシナ世界に流れ込む事となった…と、申せましょうか^^;
当時のペルシャ世界、つまりパルティアからササン朝ペルシャに至る時代の記録は乏しいのですが、中世ペルシャの黄金時代であり、想像以上に豊かな文化が繁栄していたそうです。あと、現代の書籍を見ると、書籍ごとにペルシャの王名のカタカナ発音が違っていたりして、ここのところは如何にもユーラシア多民族国家である…と、思わされるところでした。
「ペーローズ」=「ピールーズ」とか、「マニ」=「マーニー」=「マーン」(マニ教の教祖名)とか…様々な発音があるらしいのです。「アレクサンドロス」も、東方ではトップの「アル」が抜けて、「イスカンデル」または「イスカンダル」となまるパターンがあるとか。英語だと「アレキサンダー」になるようですね。
あと、すごく戸惑ったのがササン朝全盛期を築いたホスロー1世の名前なんですが、ホスロー・アノーシルワーン(アラビア語では「アヌーシールワーン」)という書記をされていたらしいです(実際にどういう発音だったかは不明。中期ペルシャ語はまだまだ研究途上だそうです。近世ペルシャ語で発音がなまったのが「ヌーシルラワーン」)。
ちなみにこの「アノーシルワーン」は、「不滅の魂を持つ」という意味だそうです。ドラマチックに翻訳するなら「不死霊王」でしょうか。なので、「ホスロー不死霊王」…になるのかな…うーん。ファンタジー・ゲーム・チックですね…^^;
中期ペルシャ語で「フスラウ・アノーシャグ=ルワーン」と読めそうな文字記載もあるそうで、かなり感じは違いますが、これもホスロー1世のこと。「フスラウ(=ホスロー)」にも意味はあるのですね。日本語で言えば「うるわしき顔」。
なので…まあ、全体の意味は、「うるわしき男・不死霊王」…^^;;;
ホスロー1世…何気にすごいお名前だったりして…
この名君と名の高いホスロー1世、もとい「うるわしき不死霊王」が残した名言が、「皇帝は軍隊しだい、軍隊は金しだい、金は地租しだい、地租は農業しだい、農業は正義しだい、正義は役人しだい、役人は皇帝しだい」…だそうです。現代の経済社会学で分析しても、トップクラスの格言の類に入りそうな気がするのですが、如何なものでしょうか…^^;;;;;
…正倉院宝物の文化様式に多大な影響を与えた王国なので、思わず色々と。
話がずれてしまいました。元に戻して:
ギリシャ文明及びヘレニズム科学の、中東地域への普及の過程、及びアラビア文明圏における発展の過程は、大きく見て、3つの時代に分けることが出来るようです。
- 5世紀~7世紀・・・シリア・ヘレニズム:
ビザンティンから流出した各種学術書がシリア語に翻訳される - 7世紀~8世紀半・・・ペルシャ・ヘレニズム:
アラブの征服王国からイスラーム世界帝国への転回点を構成する - 8世紀半~9世紀・・・アラビア・ルネサンス:
バグダードを中心に各種学術書がアラビア語に翻訳される
この過程を、調べてみようと思います。
《付記》
今回のエントリは量の都合で2つに分けてありまして、妙に短い雰囲気のエントリになりました。後半は、今回の補遺という形で、古代グノーシス思想運動について簡単にまとめる予定です。