スクラップ:消費社会の消費・考
とってもキマジメに、現代社会を考えるためのスクラップです^^
今のところ、これらのスクラップをどう扱うかは決めていないのですが…
記事を読んで何となく深く感じるところがあり、現代社会の構造を見るうえで、ゆるがせにできない要素が含まれているように感じました。
》スクラップ元記事=[松岡正剛の千夜千冊「第630夜」『消費社会の神話と構造』]
…ボードリヤールが、「もはや現代社会では社会を組織する様式としての本来の交換はない」と断言して、もしそういうものがあるとするなら、きっと人質交換などのテロリズムであろうと述べていた…
…同様の意味で、ボードリヤールはマスメディアにも交換価値を提供する能力が死滅していると考えていた。マスメディアは現実の提供すらできなくなっていて、現実の幻惑だけを提供することだけが使命になっていくと予想した。…
…ボードリヤールが言いたいことは、生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっているということだ。
これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないということである。新たな富なんてつくれないということだ。なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。
つまり、あらゆる国のあらゆる社会システムが、ついに「類似の療法」だけを生み出すしかなくなってきていて、むしろ「構造的な窮乏感」を演出することだけが、システムの活性化を促すための唯一の手段になっているということなのである。…
…より充実した消費社会をつくろうとすればするほど、その消費社会を学習し、それに伴う手続きを普及させるためのコストが、その消費構造を破ってしまうだろう…
…まずはその「知を装う欲望消費」をこそ食い止める必要がある…
もうひとつは、「メッセージの消費というメッセージ」が頻繁に出回ったときにどうするかという問題だ。…
この後者の問題は、ボードリヤールの予測よりもなお急速に、いまやインターネットの海の出現によって現実化してしまい、どんな記号の差異や意味の差異もが、つねにウェブ状の相対的自動更新にゆだねられてしまったかに見える。…
《スクラップの補足》
「知を装う欲望消費」…学会の権威に安住して、セクト的な学問世界に埋没するばかりの、細分化されてしまったアカデミー環境を、「知を装う欲望消費」と表現して言っていると思われます。健康番組やクイズ番組で提供される知識がまさにそうですし、マスコミ御用学者の学問みたいなものでしょうか…^^;;;;
「メッセージの消費というメッセージ」…例えば〝Twitter〟と言ったような一言メモの隆盛に、この同義反復の意味現象(?)が、鮮やかに集約されているのではないか…と思われました。この辺はもう少し、じっくりと考えてみたいところです。
特に響いたのは、「マスメディアは現実の提供すらできなくなっていて、現実の幻惑だけを提供することだけが使命になっていく」というくだりでした。リンク先に『パンとサーカス』が紹介されていた(!)のが、何とも秀逸でした。
妙に、鳩山政権は、『パンとサーカス』的な欲望と、それを煽ったマスコミが生み出した政権なのかも知れぬ、と納得してしまいました。実際はもっと様々な思惑が錯綜していると思われますが、基本的には、ローマ末期的な「幻惑」の末に生まれた政権である、のかも知れません。
鳩山氏自身は確かに、村山氏のように、本当は性格の良い、まったくの普通のお方なのかも知れませんが…幕末・世紀末どころか文明終末的な現象だとすると…これはウカウカしていられなかったりして…^^;;;;
今のところ、できるだけ日本文明・日本文化の知識伝統を断絶させない、歴史上、分断される運命が避けられないにしても、それは可能な限り、世界中に再生のための種子を広めてから、という事に尽きる、のかも知れません。種子さえ残っていれば、外見は黄色人種じゃなくても、内面は日本人として目覚めている、という外国人の出現を期待できますし。
…昨夜、妙な夢を見たので、少しばかり危機感も…^^;
《参考》『深森の帝國』ホームページより
- 星巴の時空1.諸國創世ノ章
- ギリシャ古典文明が崩壊していった歴史をまとめたものです^^ゞ
曖昧な直感に過ぎませんが、鳩山氏の「友愛」スローガンには、アレクサンドロス大王の「普遍」スローガンと同じ、不気味な気配を感じざるを得ないです^^;
・・・《以上》・・・