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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代科学漂流の章・中世1

《ギリシャ諸都市時代~ローマ時代における科学の行方》

古代ギリシャ科学の歴史をざっと見ると、おおむね3つの発展段階に分けられます。

  • イオニア期・・・前6世紀~前5世紀[ギリシャ植民都市の科学]
  • アテナイ期・・・前4世紀に頂点[アテナイ科学](ついでに小アジアのペルガモン王国も絶頂期)
  • アレクサンドリア期・・・前3世紀~後2世紀[ヘレニズム科学]

・・・紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトが滅んだ時、その都アレクサンドリアはローマ支配下に入りました。ローマ時代においてもアレクサンドリアは先端科学の地として栄え、コンスタンティヌス帝(在位年306-337)の時代まで、その学芸文化の繁栄は続いていたそうです。

紀元後395年、帝政ローマが東西に分裂。言語もまた東西で分裂。東ローマ帝国の公用語はギリシャ語で、西ローマ帝国の公用語はラテン語です。そして、種々のヘレニズム科学を含む高度な基礎学問は、コンスタンティノープルを中心とするビザンティン文明圏(=ギリシャ語圏=)に集中します。

ビザンティン側とローマ側とで学問の格差が出来た理由については、ローマ末期の政治的混乱など色々考えられますが、ローマ人の民族的特質に拠るところも大きかったのでは無いか、と考えられているそうです。

ローマ人は元来、極めて実用的な人々で、土木技術や軍事技術などの応用学問の面にすばらしい才能を発揮しましたが、実用に関わる事の無い抽象的な基礎科学に関しては、敬遠して関わらない事を誇りとしていた…と、言われています。

例えば、典型的なローマ人であったキケロ(紀元前106年1月3日~紀元前43年12月7日)は、次のような言葉を残しています(補足:キケロは、共和政ローマ時代の人です):

…『トゥスクルムの別荘での対話』(キケロ・著)…
〝私の考えでは、わたしたちローマ人の方がギリシャ人よりも優れています。ローマ人の発明の方がギリシャ人の発明よりすぐれているし、研究するためにギリシャから取り入れたものも、全てわれわれが改善しているからです。
例えば、道徳や生活習慣の確立、家族の維持や財産の管理などは、絶対にわれわれの方がうまく、しかも立派にやっています。また国家も、われわれの祖先の方が、はるかに優れた制度と法律によって統治してきました。軍事に関しては言うまでもありません。
われわれローマ人は、戦場において勇気と規律正しさを大いに発揮して、数々の勝利を収めています。〟

今日、「ローマ世界」として知られているプレ‐中世の西欧世界には、純粋科学は入りませんでした。現在確認されている限りでは、ユークリッドの著作のラテン語訳は極めてわずかなものであり、アルキメデス、プトレマイオスに至っては、流入の痕跡すら見いだされていないそうです。


《注》プレ‐中世の西欧世界には、古代科学の写本は1つも無いのか?について:

後で、間接的に写本の形で発見される事はあるかも知れません。現在時点では見つからないとの事で、古代の学術文献(写本)は、アイルランドに集中しているのだそうです。

当時の欧州は、ゲルマン諸族とヴァイキング族とスラブ族とフン族その他が入り乱れていた時代で、どう贔屓目に見ても、千年以上も前の書籍を見つけること自体、とても困難だと思われます。

残っているとしたら、羊皮紙に金泥や銀泥で念入りに書かれているレベルの写本の筈で、見つかったら「国宝級」なのではあるまいか…^^;


引き続き、関連資料を読み込んでいる所で、この辺で次回に続く…^^ゞ

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