中国史の迷宮・後
正閏論/政治イデオロギーとしての史観
《テキスト=『「三国志」の迷宮』(文春新書1999)山口久和・著》
◆中国の歴史書の叙述スタイル:
- 編年体・・・時間の流れに従って事件を叙述してゆく/経書の『春秋』が濫觴
- 紀伝体・・・司馬遷が『史記』を記す事で創出される
- 本紀・・・天子の行動を中心に国家の大事を記す
- 列伝・・・臣下や学者、庶民の伝記、諸外国の出来事を記す
- 志・・・地理、法制、経済など、文化史と経済史をまとめる
- 表・・・年表、功臣表など
- 紀事本末体・・・一つの事件を中心に記事を纏め上げ、時間の経過に従って事件の推移が分かるように記す/宋の袁枢が編年体の『資治通鑑』を元にして『通鑑紀事本末』を書いたことに由来
◆正閏論:
中華世界に君臨する「正統」の皇帝は、ただ1人のみである。この議論は漢代に本格化し、「正閏論」としてまとめられる。
元はといえば、始皇帝の秦が中華文明の正統の後継者だったかどうか、という議論から始まったものであったが、この「正閏論」の結果、真の中華皇統の皇帝は「正位」として「本紀」に記されるべし、そして、皇帝を僭称する者は「閏位」として「列伝」に記されるべし、という措置が取られるようになる。
陳寿の『三国志』は、こうした因習の中で、魏を正統として書かれたものである(もちろん異なる立場の下で、蜀を正統として史書を編む者も居た)。
・・・《以下、考察》・・・
秦の始皇帝の時代、諸夏思想といいますか、封建的な王権思想が弾圧され、焚書坑儒の露と消えました(と、考えられます)。孔子は、焚書坑儒の前の時代の、人物です。従って、前編に引用した孔子の「董狐の筆」コメントは、秦の始皇帝より後のシナでは、まったく別の意味心理で理解された可能性もあるわけです。
漢文の解釈というものの難しさを考えると、この辺は、シナ版リテラシーなる独特の「ねじくれた才能」が必要な世界だと推察しているのですが、いかんせん中国語(シナ語)のリアルの世界を知りませんので、この考察が正しいかどうかは、分かりません。
ただ、現代、源流を同じくする漢字を使っているのに、日本と中国とでは意味が異なる単語が多いです。優秀な留学生を媒介にした、ある程度の緊密な交流のある近現代にして「この事態」ですから、古代の春秋戦国と秦との間では、時代・地域をまたいでの書記言語の意味変化は、もっと深刻だったのではないかと・・・(何故に後に「科挙」が選択されたのか、大変よく分かるような)・・・^^;
・・・さて、「紀伝体」は、伝統的に、古来より「天子たる王統」を正統(=中華)として記してきたとされています。この手法は、おそらく、陰陽五行説が整備され、強制的な歴史時空ダイヤグラムの中で、地方の王権神話を滅ぼしていったプロセスに学んだものではないか、と思われる節があります。実際に『史記』を記した司馬遷は、陰陽五行説の知識に通じていたようです。
だからこそ、それ故に、三国(魏・呉・蜀)時代のように複数の王朝が乱立した場合、「紀伝体」で前の王朝を記す、という行為は、歴史認識の上で、極めてナーバスな問題をはらむ事になった・・・と想像されます。確か、後に政権を取った王朝が、先代の王朝の歴史を編纂する事で、自らの中華の正当性を証しする、というのがあったような・・・
参考テキストによれば、
〝宋の時代の司馬光の『資治通鑑』は、魏を正統として記されたものであったが、曹魏政権の用いた年号を記述に使っている言い訳として、単に年号が無ければ事件の日時を記す事ができないだけで、決して「正閏論」に関わりのあるものではないという主張を行なった〟
となっています。おおむね、王朝乱立が続いた頃に、「正閏論」もまた、集中して論じられたのではないでしょうか。それが漢代以後の、いわば秦漢時代の遺産の中に生きた〈後シナ文明〉の、「史」の実情ではなかったか・・・と、推察されます。
「正閏論」は、歴史観の問題以上に、「中華正統」を巻き込んでの政治的イデオロギーの紛糾をも含む、複雑な問題となりつつあった・・・というのっぴきならぬ背景が、この司馬光の屈折した主張に読み取れると思われます。
〈シナ文明〉を特徴付ける中華思想を完成したのが、おそらく漢代。漢代に興隆した「正閏論」の呪縛の重さが、見て取れるものであります。それはまた、「中華」という呪縛の重さでもあったかも知れない、と思われる節があります。政治的イデオロギーと史書の伝統とが交錯し、複雑にねじれ、異形の「歴史時空」を生み出していた・・・
それは「史」を重要視した〈シナ文明〉~〈後シナ文明〉ならではの、独特な事象に違いない・・・
更にもっと先鋭的な政治的イデオロギーとして現れたのが、南宋の朱子が主張した「蜀漢正統論」であります。漢王室の皇統を継ぐものは劉氏であるべしという理念を尊重し、現実に天下13州の殆どを領有した曹操政権を、「あってはならぬ現実」として糾弾するという内容でありました。
ちなみに、朱子は、司馬光の『資治通鑑』に対して、理念(理)に照らして現実(気)を糾弾するという思想「理先気後」の下に、『資治通鑑綱目』を記した人だそうで・・・要は、「魏は中華の簒奪者だ」という立場でありますね・・・^^;
朱子学が官学として栄えた近世以降にあっては、「観念」が「現実(リアリズム)」よりも重んじられたそうです。陳寿や司馬光の「曹魏正統論」は、割と歴史的現実を反映したものではありましたが、「異形の歴史時空」の中で、異端の現実(?)として押しやられる運命にあった・・・と申せましょうか。
とはいえ、朱子の立場にも同情すべき余地はある訳です。北宋が満州族の「金」の侵攻によって滅び、長江の南に亡命して出来たのが南宋であり、朱子はこの南宋の人物でありました。
ついでながら南宋はその後、「金」と、さらには蒙古族の「元」の侵攻を受けて領土を縮小してゆき、滅亡する運命にありました。朱子が、かつての古代の蜀漢の運命に深い共感と同情を抱き、「蜀漢正統論」を主張したのは、歴史観に名を借りた政治的イデオロギーに過ぎなかったとしても、充分うなづけるものではある、と思われます。
そして更に陳寿の立場を振り返れば、陳寿は魏の後を継いだ西晋の役人だったのであり、陳寿が「曹魏正統論」の立場で史書を記したのも、必然と申せましょうか。司馬光もまた同様の政治的立場にあったようです(司馬光の場合は、後周の禅譲を受けた北宋の人物であり、かつての魏の禅譲を受けたと主張する西晋と、事態が似ているといえる)。
清朝の歴史家・章学誠が、「諸賢地を易(か)うればみな然り」と述べているそうです。人物の立場を入れ替えれば、その人物の主張もまた入れ替わるであろう、というような意味だそうです。
〝章学誠は、人間が記録した全てのテキストは(経書であれ史書であれ詩文であれ)、イデオロギー的偏向を内在しており、したがって読者はテキストの文字面を超えて著者の心術にまで入り込む豊かな共感能力と想像力を身に付けなければならないと主張し、この能力を「文徳」と呼んでいる〟
・・・現代のシナは、と言いますと、これまた噂の江沢民教育が効いていて、コチコチの「中華」理念優先主義であるようです。「文徳」があるかどうかは・・・ちょっと分かりません。あったとしても、「ダーティー文徳」の方が強いように思えます・・・^^;
【添付ノート】
種々の文献資料から判断するに、陳寿は比較的公平な歴史記述家であったようです。
陳寿は、北伐における諸葛孔明の軍事的能力には疑問が付く、という記述を行なっていますが、それは個人的怨恨からではなく、単に、当時の一般的な軍事的評価がそういう内容であった(後世になっても長いこと、孔明の北伐作戦は愚策であると評価されていた)、という理由に基づくものであったそうです。
そして、「曹魏正統論」の立場にある史官であったとは言え、諸葛孔明の人格に深く傾倒し、孔明の遺文を集めて『蜀相諸葛亮集』を編んだのも、陳寿でありました。
なお、お金のかかる遠征を繰り返した上に魏に大勝する事も無かったために、「軍事的暴挙」と評されていた孔明の「北伐」が、実は「攻撃的防衛(以攻為防)」戦略の一環であった、という事を見抜いたのは、17世紀の王夫之になってからである・・・という事です。
《終》