中国史の迷宮・前
董狐の筆
《テキスト=『「三国志」の迷宮』(文春新書1999)山口久和・著》
《引用/一部、分かりやすさのため編集あり》
中国の伝統的な書籍分類の四部(これは同時に学問分類でもある)は、経、史、子、集の四つのカテゴリーを用いて〈知〉の世界を分類し、この順序に従って諸学の価値の序列化を行なっている。
- 経=儒教経典とその注釈書
- 史=歴史・地理
- 子=諸子百家と哲学書
- 集=詩文集
中国が伝統的に儒教社会であることを思えば、「経」が〈知〉の正殿に鎮座していることは理解できるとして、「史」が〈知〉の重要な領野として位置づけられていることに注目してほしい。
西欧の学問伝統と比較してみると、西欧の中世においては、歴史は自由七科(リベラルアーツ)の中に特別な地位を占めず、七科の中の「文法」に付属していた。
※自由七科=文法、論理、修辞、算術、幾何、音楽、天文
ようやく15世紀中葉にいたって、歴史は大学の教科の中に入りはじめたが、なお修辞学に近く、文学の一部門とみなされていたのである。
史料の文献批判的吟味とそれにもとづく歴史事象の客観的な記述を目指す近代的歴史学についていえば、西欧においては、18世紀後半のドイツのゲッチンゲン学派あたりから芽生え、中国にあっては、やはり18世紀の乾隆期の考証学者から生まれ出たのは時代的には同じであった。
しかしながら、「史」の重要性の認識は、殷周時代のむかしから一貫して変わらぬ中国文化の特徴であった。
では、中国人の歴史認識とはいったいどのようなものであったのだろうか。
思うに、輪廻転生という生の無時間的循環を前提にして人生の意義を探求した古代インド人とは異なり、また神の最後の審判によって永遠の生命を得ることを希求した古代ユダヤ人とも異なり、中国民族はひたすらこの1回限りの人生を楽しみ、いまここにあるかけがえのないこの生の永続を願った。
しかしこれは、はかない願望でしかない。荘子の言葉を借りれば、彭祖のごとく900才の寿命を保ったところで、やはり人間の生は有限のもの。結局、死にゆくべき存在である。
しかし、この深刻な認識も、中国人をペシミズムに駆り立てることは決してなかった。
・・・(中略)・・・
中国人はよく「青史に名をとどむ」と口にする。これはなにもおのれの功業を後世に誇示しようというのではなく、記録のかたちで生の永続化を望んでいるのである。
たとえ、記録されるべき生が汚辱にまみれたものであったにしても、それでもなお彼らは歴史による生の記録を欲したのである。宮刑の恥辱を被ってもなお『史記』を書き継ぎ、みずからの生の記録を後の世に残そうとした司馬遷は、中国人の歴史意識をもっとも強烈に体現するものであろう。
なによりも、歴史はありのままの記録でなければならない。したがって歴史を記述する史家・・・司馬遷のような私人の歴史家であれ、国家の歴史を司る公的な史官であれ・・・に、求められるのは事実をありのままに記録することである。
『春秋左氏伝』の宣公2年に、つぎのような事件が記されている。
晋の霊公は無道な暴君であった。重臣の趙盾がなんど諫言しても聞き入れないどころか、逆にけむたくなった趙盾を殺そうとした。そこで趙盾はやむを得ず逃走した。やがて霊公が臣下の趙穿に殺害されると、趙盾は逃亡先から戻ってきた。このとき、太史(歴史官)の董狐は「趙盾、其の君を弑す」と記録して、周の朝廷に報告した。趙盾が「事実と違うではないか」と抗議すると、董狐は「あなたは晋の重臣であるのに、逆賊の趙穿を討とうとはしない。事件の責任を負うのはあなた以外にありません」と答えた。
孔子はこの事件を評してこう述べている。「董狐は古えの良き史官(歴史記録者)である。書法どおりに記録して、事実を曲げて隠したりしなかった。趙盾は古えの良き大夫である。書法に従って弑逆の悪名を甘んじて受けた」と。
由来、「董狐の筆」とは、権勢をおそれずに事実を直書する歴史家の筆法を意味するようになった。これと反対に、権力におもねったりあるいは私憤を晴らすために、事実を曲げて記録する曲筆は、史家のもっとも忌むべき行為とされた。
北斉の魏収が撰した北魏の歴史書『魏書』130巻は、曲筆の最たるものであろう。彼はみずからが使える北斉の高氏に媚びを売るために、かつて高氏が臣事していた北魏の諸帝をあしざまに罵っている。また魏収は人物伝を草するにあたって、自分と敵対関係にあった人物の善事はこれをいっさい隠して書かず、一方、権臣の楊遵彦(ようじゅんげん)一門の伝記には美辞を書き連ねて追従した。
『魏書』が完成すると、魏収の曲筆を朝廷に訴え出る者は100人を越えたという。このため、魏収の『魏書』は「穢史(わいし)」と呼ばれ、古来、史家の戒めとされてきたのである。
《引用終わり》