断章・航海篇2ノ6・終
【アラビア語圏の物語『コーラン』・・・セム系物語論の革命】
『コーラン』の成立は、セム系の物語論を一変させた、革命的な事件であると言えよう。
アラビア語圏の世界を知るには、アラビア人とは如何なる世界に生きる者であるのかを知らねばならない。
まず、オアシスをつないでゆく砂漠の民に特徴的な思考として、血筋の重視が挙げられる。部族社会の長い伝統があり、人間の高貴さは、如何なる血筋を受け継いだか・・・によって量られていた。
アラビア人が生活していたところは灼熱の砂漠であった。そこでは、地平線の彼方を動く生き物の姿を捕らえ、またオアシスの存在を予兆する微かな水の音を捕らえるべく、鋭敏な視聴覚の発達が求められていた。そうした鋭敏さはまた、直観的・刹那的・個物的な世界観を構成するものであり、抒情詩や歌舞音曲ではよくしたものの、論理的構成力を求められる叙事詩や劇の方は、充分に発展することは無かったようである。
マホメットは『コーラン』の中で、血筋によって人間の貴賎を決めていた古代アラビアの伝統を否定して見せた。部族社会の根本原理を破壊し、信仰によって人間の高貴さを量ろうというのがイスラームの態度である。部族社会を超越する普遍的原理が尊重されるようになったのである。
※とは言え、それまでの慣習を簡単に捨てられないのも人間である。アラビア人にしてもそれは同様であったのであり、部族社会の慣習を捨てはしたものの、「ハディース」という、マホメットの言動を記録した文書を、慣習(スンナ)として伝えたと言う事情がある。
『コーラン』第49章・第13節:まこと、アッラーの御目から見て、お前らの中で一番貴いのは一番敬虔な人間。
この態度から、新しい信仰概念が生まれた。そして、異端者の概念も決定された。アラビア語で「カーフィル」と言う。元々は「恩知らず」という意味で使われていた言葉である。神の恩義に対して感謝しない、恩知らずである・・・という意味で、異端者を「カーフィル」と呼ぶようになったのである。
現代は、「聖戦(ジハード)」という言葉を良く見かけるようになった。これはイスラーム法の論理で言えば、「ムスリムが、イスラームの名において、カーフィルを撃滅する事」である。カーフィル撲滅は、ムスリムの宗教的義務として考えられているのである。
現在はかなり丸くなった(と信じたい)のであるが、イスラーム世界の成立初期においては、「カーフィル」という言葉は激烈な意味を持っていた。歴史的には、互いを互いに「カーフィル」と定義したスンナ派とシーア派の闘争、「カルバラーの悲劇」として有名な虐殺事件に、その激烈さを見ることが出来る。
同じ神を戴くもの同士で悲劇が起きたのは痛ましいことであるが、ともあれ、太古の〈言語呪術〉や邪視の魔術が支配するシャーマニスティック的な世界から、神話物語が支配する〈言語芸術〉の世界に移行していた事を、このエピソードは示していると言えよう。
セム系シャーマニズム文化が中東地域に広がっていたのに対して、メソポタミア周辺では、非セムの種族であったシュメール人に始まる、アッカド・バビロニア文化が支配的であった。これらの文化系統は、後にオリエントを圧倒したインド=ヨーロッパ語族の遊牧騎馬民族の諸王国、すなわちインド・ペルシア方面に濃厚に浸透している。
かつて、非セム系のシュメール文化が展開した物語は、神の創造的な力で世界が開いてゆく、そのエネルギーが世界を一変させる、そういったダイナミックな宇宙論であり、神学であった。そして、そういった物語は、オアシス定住の神官によって司られていたのであり、ユダヤ・アラブ含むセム系のシャーマニズム物語とは別種のものであったという事は、意識しておく必要がある。
「光あれかし」と神は言いたまえり。しかる後に光ありき。
シュメール神話に発祥する物語の系統は、従来のセム系の物語であった機械論的宇宙論・・・ただ、過去から未来へ流れてゆく茫洋とした時の流れがあり、人はその流れの中で、生きて死ぬだけの存在だという考え方とは、全く別の、〝コトバの物語〟を生み出していたのである。
洪水神話、ギルガメッシュ神話、そしてペルシアのゾロアスター神話。神の創造的なエネルギーが〝言霊〟となって結晶し、振動する〝コトバ〟となって発現する物語である。言霊は運命を変える力を持つのだ、という〈確信〉が、シュメールに由来する〝コトバの物語〟の、大きな特徴であったと言える。
そのダイナミックな宇宙的「コトバ」の物語群が、人類的始祖アブラハムを通じてヘブライ人の神話に取り入れられ、後にイスラエルに入り、『旧約聖書』となって確立する。そして、後のイスラエル人もまた、セム系であった。即ち、非セム系の物語がセム系に受け継がれた初めが、『旧約聖書』であり、後の「カバラ」であったのだ。
シュメール人は、運命を変える神の創造的なエネルギー、《言霊》の力を認識していた種族であったと推測できよう。シュメールの物語群には、偉大なる〝コトバ〟のエネルギーが脈打っていた。
ロゴスの《アルス・マグナ》。神のコトバの物語。
イスラームが自己を物語る時・・・「神が語り、イスラームが始まる」。
それを最も強烈に表現したのが『コーラン』である。この意味で、『コーラン』はアブラハム的な宗教の系列・・・『旧約聖書』・『新約聖書』の系列に属する物語であるが、『聖書』以上に、「コトバ」のイマージュ的・聴覚的な側面を前面に押し出した物語であるとも言える。この意味で、ユダヤとはまったく別の物語の「読み」をスタートさせたと言えるのである。
盲目的運命主義〈ダフル信仰〉への鮮烈なる雷撃であった『コーラン』。セム系物語論の革命。
ゆえに、イスラーム以前の古代アラビアの時代を、ムスリムは、「無道時代(ジャーヒリーヤ)」と言う。
このような、徹底した「神のコトバ」の物語としての『コーラン』は、必然として、ユダヤ教やキリスト教、その他の「絶対一神教」カテゴリーに入る宗教の根底に、「永遠の宗教(アブラハムに始発する宗教)」なるものを想定させずにはおかなかったのである。
余談であるが、イスラームが『コーラン』を通じて構成する「永遠の一神教」の物語は、以下のようになる。
- 「アブラハムの宗教」は、その歴史的展開のプロセスにおいて、様々な一神教的スタイルの宗教を生み出してきた。
- 最初にユダヤ教が形成され、次にキリスト教が形成される。
- 最終的に完成された一神教=正しい道を歩む永遠的一神教が、イスラームである。
故にイスラームには、ユダヤ教やキリスト教を、その「永遠の宗教」の路線に修正する義務があるのである(多神教や無神論は言うに及ばず)・・・という事になる、と言われている。
《了》・・・《断章・オリエント物語論:メソポタミアからイスラームへ(仮題)》