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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

青銅華炎の章・古代2

【天を恐れよ・・・文字と呪術の帝国】・・・(承前)

〈前シナ文明〉の雄、殷帝国を象徴する前シナ王権の神話があります。

「商」の名を負っていた頃からかどうかは不明ですが、殷の民は『十日神話』なるものを有し、その概念に沿って現実の社会を運営していたようです。

この『十日神話』は、元々はツングース系統の民族に伝わる神話でありました。故に殷は、民族的には沿海州の夷系であったのだろう、と言われています。ないしは東夷との混血を通じて、この神話を有するようになったのではないか…とも言われています。

『十日神話』の概要をまとめると、以下のようになります(確認できた分だけ)。

(ストーリー1)空桑が青々とし、天地の間の綱が張られてから、羲和という女神が現れた。この神は日月を主管し、その出没を職務として、夜と昼を作った。・・・by『啓筮』

(ストーリー2)羲和は十個の太陽を生み、各々に「日」の名前を授けた。湯谷で水浴した十個の太陽は、順次、扶桑の枝に懸かり、運行してゆく。その行程は5億1万7309里、四分して朝・昼・昏・夜となす。いずれの太陽も、カラスを乗せている。(十日送出タイプ)・・・by『淮南子』『山海経』

(ストーリー3)堯の時、十個の太陽が一斉に出て、大地を焼いた。同時に現れた怪獣どもが、民を害した。そこで堯は弓の名手ゲイに命じて、九個の太陽を落とし、怪獣を退治した。万民は皆喜び、堯を立てて天子とした。(十日並出タイプ・射日神話)・・・by『淮南子』

殷のカレンダーは十日単位で一巡し、このサイクル単位を旬と呼び、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という十個の曜日がありました。これらの曜日をまとめて「十干」と呼び慣わすようになりましたが、当時は「干」の字では無く、「幹」という字を充てていたという説があります。

[一説に曰く]
・・・三国時代、魏の張揖(チョウユウ)著・字書『広雅』釈天より・・・
「甲・乙は幹である。幹とは日の神なり。寅・卯は枝である。枝とは月の霊なり」。扶桑樹に太陽が懸かるという神話の影響で、最初は「幹枝」という字が使われていたらしい。「干支」という字の初出は、後漢時代の王充撰・『論衡』詰術篇か。・・・

十個の太陽…うがってみれば、殷王朝は十の氏族によって構成される王権を戴き、最高リーダーの地位は、十個の太陽の順番運行のごとき持ち回りであった、という事を暗に示している…、と読み取れます。

実際、最近の研究によれば、殷王朝の中枢部は王を輩出するいくつかの有力氏族から構成されており、時代の経過と共に、王系氏族(ハプスブルク選帝侯のようなもの?)の数もまた理念に従って、十系統の氏族に近づいていったという事です。

しかも祭祀制度として、歴代の先王・先妣は、それぞれの世系グループに対応する日の祭祀を享けていました。五つの祭祀があり、一定の順序にのっとって、世系の順に祀られたという事です。こうした「周祭」が一巡すると、一ヵ年が完了するようになっていた、と言われています。

[殷の祭祀制度について]
・・・祖先神が太乙=乙日に所定の幾つかの祭祀を享ける。祖先神が上甲=甲日に所定の幾つかの祭祀を享ける。
・・・『卜辞』=丙寅(ヘイイン)、卜(ボク)して貞(と)ふ。王、太乙の爽妣丙を賓(むか)へて翌日(=祭名)するに、尤(とが)亡きか。
(意味)丙寅の日、占う。殷王朝の始祖・湯王(=太乙)の爽(=后妃)である妣丙(ヒヘイ)に、「翌日」という祭祀を行なうにあたって、支障なく行なわれるか。(※「翌日」は五祀の一つ。わが国でいえば「後の祭り」にあたる)

…殷王朝は、太陽信仰であったのです。その王位継承システムもまた、十氏族(甲族・乙族・丙族・丁族・戊族・己族・庚族・辛族・壬族・癸族)の交叉婚…すなわち、殷王家の族内婚(父系の交叉イトコ婚)によって継承されるシステムでありました。

(殷ではおそらく、王族同士の近親婚が行なわれていたものであります。これは彼らが牧畜系民族では無かった事を暗示しています。逆に牧畜系であった周は、氏姓制度を運営していました。これは、儒教を生み出した思考がどこから来たのか?という点に関して、重大なヒントを暗示していると思います)

そして、おそらく、王位継承に関するお家騒動もまた付き物であり…十個の太陽が順番に運行するという十日送出タイプ神話と、十個の太陽が一斉に出て、大地に災害をもたらしたという十日並出タイプ・射日神話と…並行して語られた二つの神話は、こうした殷王家の内紛を暗に示唆していた可能性があります。

そしていつしか、一つの太陽だけが残ります。
天に二日無く、民に二王無し。(『孟子』万章篇・孔子曰く)

殷周革命とは、まさにこの内紛の時代に重なってきた事件です。射日神話の存在は、十日神話を伝承していた民族の中で、何らかの政治的異変が起きていた事を暗示するものなのです。

『十日神話』の変質と共に、上古から信仰されてきた「天」とその絶対なる権威は、大地の上に崩れ落ちました。まさにこの時、華夏大陸に栄えた〈前シナ文明〉とその王権神話もまた、壮絶な終焉を告げたのです。

実際、その後の時代に編纂された『書経』の堯典(かなり早期に成立)では、『十日神話』における羲和の神格が分裂し、代わりに羲仲・羲叔・和仲(カチュウ)・和叔(カシュク)の兄弟によって四方の天文が管理されている、という内容に置き換えられています。

〈前シナ文明〉が瓦解してゆく事象、周の弱体化とはまさに、〈シナ文明〉の到来を告げるものでした。そして、地上の権威を争う激烈な群雄割拠…春秋戦国時代に突入したのであります。

[以上]…知らなかった事ばかりで、上手にまとめられたかどうか不安ですが…;^^ゞ

続きは次回。
殷周革命を通じて、上代神話世界が崩れていった様を、ほじくり返してみようと思います。

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