アイルランド民謡「詩人トマス」
サンザシやイバラが小暗く茂る
かなたに細い道が見えるでしょう?
たずね行く人は稀だけれど
あれこそは正義の小道。
そしてかなたのユリの花咲く野原をよぎる
広い、広い道が見えるでしょう?
天国への道と呼ぶ人もいるけれど
あれこそは邪悪の道。
そしてまた、シダの茂るあの丘を巡って
美しい道が見えるでしょう?
あれこそは、今宵あなたとわたしがともに行く
美しい妖精国への道なのです。
―アイルランド民謡「詩人(うたびと)トマス」より
※トマス=13世紀ごろのスコットランドの預言者、詩人。妖精の国の女王に愛されて、妖精国に滞在、預言の能力を得たという。
妖精国の魔法は魔法のための魔法ではない。魔法の効き目が大事なのだ。たとえば人間のもっとも深い願望を満足させること。時空の底知れない深みを知りたいとか、あとで述べるように人間以外の生きものと話したいという願い。機械や魔法を使っても使わなくてもいいが、そのような願いをうまく満たしているかどうかが、妖精物語としての良さと味わいの決め手になるのである。
わたしが、旅人の物語の次に除外したい、あるいは規定外としたいのは、夢物語だ。不思議な出来事ははっきりとあるのに、それは人が眠っていて見た夢だったと説明するような夢の仕掛けを利用した話はすべて規定外だ。たとえその夢の話が妖精物語の諸条件を満たしている場合でも、わたしはどうしようもない欠陥品だと断じたい。不細工な額縁がせっかくのよい絵をだいなしにしているようなものだからだ。
たしかに夢は妖精国と無関係ではない。夢のなかでは人の不思議な力が解放される。ほんの一瞬、人は妖精国の魔力を持つことがある。すると物語が生まれ、形や色が生命を帯びて目に見える。実際に眠っていて見る夢がまるで魔法のようにそのままうまく妖精物語になることがある。しかしちゃんと目を覚ましている物語の作者が、この話は睡眠中に夢見ただけのものです、などといったら、それは妖精国の核心にある願い、(夢をつぶぎだした人の心とはまた別に)夢に見た不思議な世界が本物であってほしいと願う人の深い思いを、わざわざごまかすことになるではないか。
妖精が人間に幻覚や幻想(ファンタジー)を与えてだますという(嘘かまことかわからない)報告がたくさんあるが、これは人間の夢とは越に、妖精側の問題である。たしかに妖精にだまされたという物語はあっても、物語のなかに限りこの妖精自身は本物であって幻覚ではない。そしてこのような想像の背後に、実は人間の思いや意図とは別の、真の意思と力が存在するのである。
ともあれ、本物の妖精物語は、くだらない目的で作られた夢物語とはっきり違っていて、大事なのは、それがほんとうのこととして示されることである。(後略)
物語作者は、読者の心が入って行ける〈第二世界〉を創った。作者が物語ることは、その世界の法則に照らす限り「ほんとう」なのだ。読者はその世界の内側にいる限り、その世界がほんとうだと信じる。「不信」が頭をもたげたとたん、呪文は解ける、というより、芸術という魔法は失敗したのである。読者は再び第一世界に戻って、外側から、失敗に終わったちっぽけな第二世界を眺めることになる。
『妖精物語の国へ』J.R.R.トールキン、杉山洋子・訳(ちくま文庫2003年)