古代部族の想像・後篇
・・・[古代部族の想像・前篇]から続く・・・
古代部族の想像・後篇は、回答篇です。
氷河期の記憶も濃厚な石器・土器時代の、架空の大陸ロマンシア Romancia などと名づけてみましたが、実は、現実のユーラシア大陸のことです。そして先述の、「そのかみの大地」というのは、東アジア地域の大地、特に「中国」と呼ばれているエリアをモデルにしていました。
したがって先述のヒントは、全て先史時代の初代シナ諸族に関する項目です。「強大な部族」のお名前は、既にお分かりのことと思います。後の青銅器時代において、「商」と名乗った部族であり、後に「殷」と呼ばれる事になる混成部族であります^^
高貴な人物は、おそらく、眉の間に特に美しい入墨装飾を施した・・・という事から、「眉目秀麗」という言い回しが出来たのでは無いか・・・と推測しています。実際に、「眉目」というのは古代の言葉で、文字通り眉の間の位置を指すそうです。
「中国」というイメージは非常に強力で、このような妙なアプローチでもしないと、ちょっとやりにくかったです。
いわゆる殷周革命、牧野の戦いでも、何となく始皇帝のような衣冠束帯を身に着けた殷王と周王とか、秦の兵馬俑の兵士のイメージで古代の軍隊を想像してしまいますが、実際の年表の数字を調べてみると、秦の時代より1000年近くも昔の話という事で、改めて愕然としてしまいます^^;
魔法の太鼓を打ったり、地面の上で飛び跳ねたり、入れ墨を入れた首狩部族であったり。堯・舜・禹につながる夏・殷・周の時代は、そういう原始人たちの時代だったのかも知れない・・・と、シミジミ。「中国」というイメージどおりの世界になるのは、漢代よりずっと後の話かも。
各種の歴史書を読み直してみて、「秦」が縮小版アレクサンドロス大帝国、「漢」が縮小版ローマ帝国、したがって、中国におけるゲルマン時代(分立国家の時代)とは、三国・魏晋南北朝の時代なのではないか・・・と、見当をつけました。
中央ユーラシアでは騎馬民族の諸王国が覇を競っており、プレ中世の諸王国時代とも重なっている、と考えて良いかも(厳密には、王国では無かったかも知れませんが。中央ユーラシアという観点で見ると、中原というエリアは、東方の辺境でしか無いという感じです^^;;;)。
その後で中国のイメージ・・・対外の中華イメージを(おそらく)決定的にした、騎馬民族による中世の大統一帝国、すなわち隋・唐の大帝国が来ているのですね。隋の煬帝が、巨大な大運河プロジェクトを行なった・・・という話もあります。
欧州における、カール大帝の統一王国・後の神聖ローマ帝国にも匹敵するかと思います。
◆あまり有名な話では無さそうですが、カール大帝もライン河とドナウ河を結ぶ大運河を建設し、ヨーロッパ中央部への物流の引き込みを目論んだ、という話があります。カロリナ運河(807年)という名前で知られていますが、いかんせん、日本では関連資料が余りに少なく、それ以上の事は分かりませんでした。ただ、イスラムによる地中海貿易の支配が既に確立しており、コルドバやコンスタンティノープルが国際中継貿易の要地になったので、カロリナ運河周辺では、あまり大きな変化は無かったようです。◆
話が地球の反対側に飛んでました。元に戻して・・・^^;
隋・唐の後で、五代十国が来て、ずるずると混沌とした分立国家の時代が長引き、次にユーラシア大統一帝国・モンゴル(元)に飲み込まれ、ヨーロッパ史とのシンクロ現象も無くなります。
(という風に、見えます。五代十国~宋の時代は、日本では平安時代後期~源平争乱の時代ですが、よく分かりません。変な言い方ですが、その頃の中国は、政治的に混沌としていた分だけ、人間そのものは「まとも」だったのでしょうか?それとも、既に何かが壊れていて、ドンドンおかしくなるばかりだったのでしょうか?^^;)
「既に何かが・・・」という点で、ピンと来たものを、以下に追加です^^;;
以下、『シナにつける薬』より引用(お世話になります。)
◆【シナの変容】洛陽、トポス・ブッデイスモ・・・より引用始め
洛陽は、「中国」すなわち首都として「中国」(こちらは中原の意)の中心であった。だからいわば「中国の中国」である。漢代に成立したシナ・イデオロギーの宇宙論的定位によれば、この都市は天下・世界の中心として永遠に首都たるべきであった。それゆえか、インドから請来された仏教においても、この「中国の中国」は重大な意味を有することになった。
・・・(中略)三国時代の混乱を経て北シナを統一した鮮卑拓跋氏の建てた北魏は、孝文帝によりこの洛陽に遷都した。この時期は、仏教が大いに栄え、洛陽郊外の龍門に石窟が掘られたばかりでなく、洛陽市内にも堂塔伽藍が立ち並んでいたことが後の世に著された≪洛陽伽藍記≫に詳しい。
・・・北朝を引き継ぎ全土を統一したやはり鮮卑系の隋は、二代目・煬帝のとき洛陽を東都と定め事実上は首都としての機能を与えられていた。また経済軍事上の中心地として国家財産が集積された土地でもあった。隋朝内部から帝位を簒奪したおなじく鮮卑系の李淵李世民父子も、自らの王朝・唐を立てた後は洛陽を東都とした。
それはシナ・イデオロギー上からその地が重要であったばかりではなく、その都市の仏教的トポスも機能していたのかもしれない。・・・
・・・彼女(=則天武后)をシナ語では、武則天とよぶ。唐を簒奪する革命をおこし自らが皇帝となって周または大周、また武照の名をとって武周ともいわれる王朝を建てたからである。シナ歴史上唯一の女皇帝である。690年のことであった。
武照が革命に利用したものは仏教であった。彼女は意識してそうしたのかどうかは知らぬが、儒教的世界意識、華夷秩序と男尊女卑を打破するためにシナ的世界を超越する弥勒をもってシナ文明に挑戦する仏教帝国の建設をめざしたのだ。
そのため偽経といわれる弥勒革命のカノンである≪大方等無想経≫俗にいう≪大雲経≫を散布し弥勒下生を宣伝し、みずからがその下生した弥勒として「神都」と改称された洛陽に降臨したのである。
これを最大の栄耀栄華として洛陽は、その後は衰えシナの歴史においては二度と政治文化の中心となることはなかった。それは武照が、そのシナ・コスモロジーによる世界中心としてのトポスを、仏教という上位文明により徹底して破壊しつくしてしまったためであろうか?
しかしその実、洛陽は仏教のシナにおける首都してのトポスを有していたのだ。
その見えない第二のトポスを武照が開放してしまったのである。◆(引用終わり)
◆【シナの変容】革命の変質・・・より引用始め
・・・そもそも唐とは、北朝の正統政権であった鮮卑系王朝・北周を継承した隋が二代目皇帝・煬帝の「世界遊戯」(大室幹雄氏の『干潟幻想』における命名)による財の放蕩と高句麗征伐に失敗してまさに滅びようとしていたとき、政権中枢近くにいた鮮卑人・李淵(煬帝の父・文帝と母親同士が姉妹)、李世民父子が東突厥の武力を借りて政権を簒奪したものであった。
・・・唐朝をうちたてた李淵、李世民父子が異民族出身だったとはいえ、結局は武力で政権を奪取したのであるから、シナの革命伝統にそったものであった。
しかし前回(=「洛陽、トポス・ブッデイスモ」)に述べた武照の革命は、それとはまったくちがっていた。
それは歴史に範を求めれば、漢朝を中断させ新朝をうちたてた王莽の簒奪に似ている。なぜなら王莽は儒教イデオロギーによる王朝簒奪を謀ったからだ。短期で失敗したところもあわせて構造的にはそっくりである。
しかし王莽はあくまで儒教という建前であったことは、シナ・イデオロギーのパラダイムのなかでの発想であり、武照の仏教というシナ外部からのイデオロギー注入による革命というパラダイム・シフトとはまったくことなっていた。
武照の弥勒信仰という外部思想を利用した革命は空前ではあったが、しかし絶後ではなかった。彼女の仏教革命は後世に深甚な影響を及ぼす事になったのである。
一つは、革命の新しい形を示した事。それは誤解を恐れずにいえば毛沢東の「文化大革命」の雛形なのである。・・・(中略)
二つ目は、仏教(そこでは弥勒下生の思想であったが)を国家が革命思想と認知したこと。これがそれ以降くりかえされた仏教徒叛乱の思想的背景となっていることを忘れてはならない。
これ以降、弥勒思想を中心にすえた農民叛乱が、後代の各王朝をゆるがす、または崩壊させるに至ったことは偶然ではないのである。◆(引用終わり)
・・・唐の最大の女帝にして希代の女傑、則天武后の巻き起こした神話的大混乱が、実に実に、意味深く思えてきます。
長くなってしまいましたが、イラスト方面からのアプローチは、いかがでしたでしょうか。
何らかの発想の転換や気晴らしになれば、なにげに幸いであります*^^*