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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

カドゥケウス研究・3

《参考書籍=『異都発掘-新東京物語』荒俣宏・著、集英社、1997年》

豊穣の角は、西欧でコルヌコピアcornucopiaと呼びならわされる。この意匠の由来を知るには、ギリシア神話に当たってみるのが一番だろう。

オウィディウスによれば、ローマ人たちのユピテル、すなわちギリシア神話に語られるオリュンポス12神の頭ゼウスは、父クロノス(時の神格化)の子として誕生した。しかし、父は、わが子の1人に王座を奪われるとの予言を受けたため、生まれてくる子を次々に食べていた。そのため母親は故郷クレタへ逃げ、ある窟(いわや)でゼウスを産み落とした。更にクロノスへは、産着で包んだ石を手渡すと、王は疑いもせずにそれを呑み込んだ。

一方、母の機転で死なずに済んだゼウスは、ニンフたちの手でクレタのイダ山に運ばれ、蜜と、アマルテアと呼ばれる牝山羊の乳を飲んで育った。この誕生譚から、山羊の角は生命をはぐくむ滋養のシンボルとなり、更に転じて自然の恵み、神の慈愛を表す標章となった。

しかしオウィディウスは有名な『変身物語』(9:85-92)において、コルヌコピアの起源をめぐる別の物語を語っている。それはヘラクレスに関係する。川神オイネウスの娘ディアネイラをめぐって、ヘラクレスがアケロウスと争った。アケロウスは変身して、或る時は蛇、また或る時は牡牛の姿を取りながら彼を攻め立てた。しかし英雄はこの怪物をねじ伏せ、牡牛の角を折り取った。ヘラクレスが折り取ったこの角が、やがて豊穣の象徴にされたと言うのである。

けれど、2つの物語には明らかに共通する部分がある。どういう部分かと言えば、動物のシンボリズムである。豊穣の角にまつわって、山羊、牛、蛇という3種類の動物が登場する。その場合、山羊と牛の関係が最も判りやすい。どちらも角を持ち、乳を出す。もう少し微細に見るなら、角の法は牡、或いは男性の授精力を、乳は牝の出産=養育力を、それぞれ表現している。

だが神話の段階ではこれら両性の特質は併合され、なお一層強大な象徴力に合成し直されている。したがって、山羊ないし牛の角は、一方で力のイメージを具体化させながら、乳=母性をも表すという二重の意味機能を発揮する。

困難なのは角と蛇との密接な関係であろう。はじめに蛇のシンボリズムであるが、西欧では農耕文化の中で大きな役割を果たした。それは竜と並んで大地の生産力を表し、しばしば農耕に関わり深い川とも結び付けられる。蛇殺し、または竜殺しの神話は、大地を耕し水を治めるという農耕の原初的発生を意味すると、象徴解釈学は教える。

西欧における農耕の神といえば、女神ケレスである。ギリシア神話のデメテルと同一視されるローマの女神ケレスは、小麦の束を持ち物(アトリビュート)とし、大地に生産力を与える地母神である。彼女の娘ペルセポネが野で花を摘んでいて冥府の神プルートーに連れ去られた時、ケレスは娘を探して大地をさまよい歩いたと言う。そしてその間、地母神を失った地上は不毛の原野と化してしまった。…このケレスCeresの名は現在、「穀物」という意味に使われる英語cerealに面影をとどめている。

ここでケレスの図像表現を歴史的に辿ってみる。その祖型とされるギリシア神話のデメテルは、普通小麦の束を抱えた姿で描かれた。しかし同時に、しばしば両手に蛇を握り締めた形態を取る事もあった。それも当然の話で、すでに述べたとおり、蛇は重要な生産力のシンボルだったからである。いずれにしても、この2つの図像表現を統合させたケレスは、蛇と小麦の束を双方ともに「持ち物」とするようになった。

ところで、ケレスはまた、問題のコルヌコピアをも「持ち物」とする。すなわち大地母神の段階では、小麦と蛇と角とを全てイコールで結んだ標章をその紋所とした神性が、確かに存在したのである。

その証拠を、実際に古い図版に探してみよう。ギリシア神話の女神デメテルを描いたトマス・ストッサードの水彩画(19世紀初頭)では、大地の豊穣を化肉させたこの女神(中央)は、手に小麦の束を抱えている。彼女の左に居る女性が携えている斧は、神秘劇の象徴。この女性はエレウシスの民を表しているのだろうか。

というのは、デメテルが娘を求めて地上をさまよっていた時、エレウシスという土地の民が彼女をもてなしたからで、デメテルは返礼として地母神の秘儀を人々に伝授した。それ以後、エレウシスでは秘儀を劇化した「ミステリ」が行なわれるようになった。

いずれにしても、ロマンティックな絵画を描き続けたストッサードは、彼女に神秘的な地母神のいでたちを与えている。

しかし次に、クレタ島から出土した地母神の像に注目しよう。古代ギリシア人が抱いた地母神に対するイメージは、ロマン派時代のデメテル観と全く違っている。むしろ恐るべき姿、醜い姿を与えられていた。しかも、両手に握り締めた2匹の蛇が、彼女の犯しがたい厳しさを更に強めている。豊穣の角の起源となった牡牛の象徴性を思い出すまでも無く、地母神には、力を示す男性性と、豊穣を示す女性性がとが本質的に同居していたのである。

クレタの地母神は、いうまでもなく、デメテル=ケレスであるが、ここで再度、オウィディウスが伝えたゼウスの神話をを問題としよう。ゼウスは神々と人間の支配者、すなわち世界の王であるが、その母親はクレタ出身であった。とすれば、ゼウスという神性はクレタの地母神によって誕生した男性力に他ならない。こうして豊穣の角は、クレタ=ゼウス=角=小麦=蛇=デメテルと続く、実に複雑なイメージの連鎖を作り上げる。コルヌコピアという象徴意匠は、それらの全要素を1つにまとめ上げたものであったと考えてよいだろう。

アルティアティ『紋章学』にも豊穣の角が見える。ここでは豊穣の角は独立した存在となり、ヘルメス=メルクリウスの「持ち物」の1つに加えられている。実はヘルメスもまた大地に深く関わる神で、人々に技芸を伝授したと言われる。交叉したコルヌコピアの中央に立つのが、ヘルメスの杖「カドゥケウス」で、治癒力を持つ。

これらの細部を眺めていくと、交叉したコルヌコピアは芸術から土木技術までを含めた叡知の伝授者ヘルメスの「持ち物」、つまりカドゥケウスの別意匠という理解も強かったかとも思えてくる。…

ついでにもう一つ、ルネサンス=バロック期に愛好されたコルヌコピアのイメージを例示しておきたい。オランダのD・H・カウゼ著『植物本草集』(1676)の寓意扉絵である。大地の豊穣を象徴するコルヌコピアには、小麦や果実といった秋、或いは収穫の指示物ではなく、春を表現する花を溢れさせている。

コルヌコピアに盛られた花は、おそらくこの時期を飾る代表的な意匠となるが、特に祝い事や大祭の欠かせぬ標章にされた。その理由は明確である。花は春を、春は喜びを、それぞれ表現するからである。だから、喜びを盛ったコルヌコピアが祝祭の場で多用される意匠になったとしても、何ら不思議ではない。

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