読書ノート『鷲と蛇』対立の一致1
『鷲と蛇』―シンボルとしての動物/マンフレート・ルルカー著/林捷訳
《叢書・ウニベルシタス531》法政大学出版局1996
「第十二章 対立の一致」より必要部分を抜粋-1
…可視的世界は二極間に嵌め込まれており、その獣形の形象が、雄鶏とヒキガエル、鷲と蛇である。性的両極性が強調された格好の例を、南アメリカの熱帯雨林地域に住むサパロ族(アマゾン川支流に住む言語的類縁関係が不詳の小部族)の信仰に見ることができる。それによれば、死んだ女性は爬虫類に変わるが、勇敢な男性は、死後もカラフルな鳥として生き続けるという。中国の陰陽のシンボリズムにおいて、黒地に白点、白地に黒点が示すとおり、一極が胚状態で他極に含まれている。またより高度な動物や人間にあっては、いずれの性的存在も、「男性ホルモンと女性ホルモンを同時に作り出しており」、ある意味においては、両性具有といえる。ちょうどこのように、すべての存在は、天の諸力と地の諸力の間に組み込まれており、その両極に多かれ少なかれ関与している。神話・メルヒェン・夢などの形象的表現において、この真理は繰り返し現われる。
(中略)鷲と蛇は、大地と天空、別の観点からすれば、生(bios)と理(logos)の原形象である。両者は互いに対立しあい、永遠に引き裂かれたままの運命にあるかのように見える。確かに、両極が絶対視されることによって、存在の単一性は、余りにしばしば人為的に二分されてきた。昼と夜、生と死、善と悪は、固有の存在原理として互いに対立しあってきた。
二元論的世界観を持つ古代宗教に、パルシー教がある。そこでは、善と悪の原理の擬人化であるアフラ・マズダ(Ahura Mazda)とアンラ・マンユ(Angra mainyuそのギリシア語化がアフリマン)が、かたくなに対立しあっている。マニ教(3世紀にペルシアの予言者マニが創始した宗教)を含めて、後のイランの宗教も、ゾロアスター教の影響を受けている。それらすべてに共通する点は、光と闇、およびそれらを代理する生き物の間の闘争である。民間信仰に比べて、あまり文学的でないそれらのシンボリズムにおいて、大空に舞う鷲、北方地域に生息する鹿、山岳地帯に住むアイベックスが、光の告知者になった。蛇とライオンは、それらの敵対者である。善と悪、ないしは善的存在と悪的存在の創造者間の宇宙創造論的な闘争は、東ヨーロッパとシベリアの神話にその跡をとどめている。
神と悪魔を指導者とする、二分された世界の思弁的思想が、創造者は被造物以上の存在であることを忘却した幾多のキリスト教徒の脳髄の中にも徘徊することになった。神はその全体性の中にあって、分裂的であるはずはなく、神の意思は、「天においても地にあっても」行われる。天上も地上も単独では存在し得ない。他方のない一方など、どうして考えられようか。創造計画の展開に伴って初めて、天と地、光と闇、陸と海、男と女、生と死という両極の存在が生じたのである。聖書の記述順に従ったこれらの両極概念は、われわれの知覚の最も外側の境界線を形成している。これらの両極概念は「われわれの」世界を、時間的・空間的に包摂している。しかしわれわれの世界は、別の世界と真っ向から対立しあうものでは決してなく、別の世界に嵌め込まれているのである。
すべての存在が一体であるという認識は、絶対的存在の無比性に最終的な根拠を持つが、それがしかし実質的な相違を否定することになってはならない。精神と肉体はそれぞれの存在権を持っている。昼と夜は、男と女のように補い合う。全世界は神の意思の顕現である。神の被造物として、人間は創造の緊張の場の中に組み込まれている。人間は天と地、昼と夜の間で生き、塵にまみれて地を這う蛇に似ているし、大空を舞う鷲にも似ている。人間は、ミカエルとルチフェルが神話的な番人である存在の両極間を、あちらこちらと引っ張りまわされる。両者はしかし、空間も時間も無い中心としての神に根ざしている。
古代オリエントと古代ギリシア・ローマの思想は、グノーシス派において合流した。グノーシス派の目標は、人間の自己認識と神への根源への回帰による救済であった。グノーシス派の形象テーマのひとつに、後期ローマ時代の護符や宝石に描かれ、中世やルネサンスにも繰り返し登場するアブラクサスの像がある。それは胴が人間で、雄鶏の頭を持ち、足は蛇の像である。それにしばしば添えられる鞭は、力と勝利のシンボルである。アブラクサスそれ自体は、単に魔術的な呪文だけでなく、すべての矛盾を包摂し、止揚していく神の秘密の名前でもあった。その名前(Abraxas)の七文字は、七つの惑星を表し、さらにギリシアの計算法によれば、365の数値を表し、それゆえに1年の日数を象徴していた。アブラクサスは、蛇の姿をした闇や深淵の諸力と、鳥の姿をした光や天の諸力(朝の告知者としての雄鶏)を併せ持つ全宇宙を意味している。この神に身を委ねる者は、最高の幸福に恵まれるのである。
天と地の両極は、神自身によって、また世界山もしくは宇宙樹の形態をとる世界軸(axis mundi)によって結び合わされる。洞窟や峡谷に、虫・蛇・龍が棲むのに対し、誇り高い猛禽類は山の頂きに巣を作る。世界樹のトネリコの木イグドラシル(Yggdrasil)は、その根を冥界の龍ニドヘグル(Nidhöggr)の王国にまで伸ばしている。その樹冠は高く聳え、一番高い枝に一羽の鷲が止まり、その両目の間に、天候を司る大鷹のヴェデルフェルニル(Wederfölnir)がとまっている。天の鷲と地下の龍の反目は、光と闇の闘争を象徴している。宇宙の生のリズムは、人間が象徴的観点から割り振った天と地の各部への共感と反感の中に現れる。結局、祖形に根を下ろしている象徴は、それゆえに殆どの民族・文化・宗教に見出される。キリスト教に取り入れられることによって、これらの形象の多くは、福音主義化されていった。この存在の両極への最も重要な象徴的な対応関係は、以下のとおりである。
- 鷲の王国
- 天/上/太陽/光/白/昼/夏/火・風/精神/男/生/善
- 蛇の王国
- 地・冥界/下/月/闇/黒/夜/冬/水・土/物質/女/死/悪
これらの対比から、動物形象の両極的カテゴリーが容易に出来上がる。天に属する動物には、光と風の中に生きる鳥、とりわけ鷲・鷹・大鷹、朝を告げる雄鶏、輝くような純白を特徴とする鵞鳥・白鳥・鷺などの鳥がいる。大地に属する動物には、水や暗闇に棲む蛇・亀・鰐・蛆虫など、さらには夜行性の鳥(梟)や、しばしば黒い鴉がいる。
両極は神において止揚されるゆえに、鷲と蛇はそこで和解されねばならない。イザヤ書が述べるところによれば、神の王国において、「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は獅子と共に草を食む」(イザヤ11,6)。猛獣と家畜、鳥類と爬虫類との間の敵意は、空間と時間の中の地上的レベルにおいてのみ、引き続く。神の国は、創造主の意思によって生命を与えられた万象を包摂する。
バビロニアの主神マルドゥクには、彼に捧げられた獣として、鷲の鉤爪を持つ蛇がいた。この春の太陽神は、鎌(月?)がシンボルであり、この〈太陽の子〉は同時に水底の主とも見なされていた。このどっちつかずの混在は、いくつかの双面のマルドゥク描写において、いっそう強調されている。バビロニア人は、宇宙における多くの神々の顕現の背後に、ただひとつの神しかいないことを予感していた。「ニヌルタ(Ninurta)は力のマルドゥク、ネルガル(Nergal)は闘いのマルドゥク、エンリル(Enlil)は統治のマルドゥク、ネボ(Nebo)は商業のマルドゥク、シン(Sin)は夜の灯のマルドゥク、シャマシュ(Schamasch)は正義のマルドゥク、ラマン(Raman)は雨のマルドゥクである」。
ヒンズー教では、ヴィシュヌが絶対者と見なされ、その神が両極的な顕現に分化することで、宇宙のリズムが保たれている。神的存在のヴィシュヌはすべてを包含し、その王国は地上の石から天の星にまで広がっている。神は蛇のシェーシャ(Shesha)の上で休息し、蛇を通して、水と深淵の国に結びついている。同時に彼は霊鳥ガルダに乗って、空高くへと運ばれもする。蛇はここで存在の半分を、鳥は残りの半分を具現化している。インドの信仰表象によれば、両者は、神の外部にある間は、敵対者であった。実際は、両者はひとつの神的実体の2つの基本的現象であり、確かに両極的に互いに対立しあってはいるが、すべてを包み込む神の一体性において和解しあう。インド学者のハインリヒ・ツィンマーはこの経緯を、ヴィシュヌが絶対神、すなわち「すべてを包含する神的実体」であることによってしか説明されえない、「確かな根拠のあるパラドックス」と呼んでいる。ミルチァ・エリアーデは、すでにヴェーダにおいて、「対立の一致をインドの宗教的思考の本質的特徴」と認識していた。彼は、蛇のアヒ・ブドゥニャ(Ahi Budhnya)と太陽の同一視をその例に引いている。蛇が脱皮して死を克服するように、太陽は毎朝、夜を克服するのである。