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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:リルケ

「The Sorrow of Love(リルケ,1892)」(浅川順子・訳)

軒の雀たちのいさかい
丸い満月と満面の星々をたたえる空
絶え間なく歌う木の葉は
この世の古く疲れた叫びを隠し去った。
そしてそれからその悲しげな紅い唇の君が現れた
君といっしょに この世のあらゆる涙がやってきた
この世の労多き船のあらゆる悲哀
この世の幾千年のあらゆる苦しみがやってきた。
そしていま 軒で争う雀たち
消えていく月 空の白い星々
止まることのない木の葉の大きな歌声が
この世の古く疲れた叫びに身を震わせる。

「海の歌 カプリ、ピッコラ・マリーナ」(神品芳夫・訳)

海から吹き寄せる太古の風、
夜に吹く風よ、
おまえはだれに向かって来るのでもない。
夜、目覚めている者は、
いかにしておまえを耐え抜けばよいかを
思い知らねばならない。
 海から吹き寄せる太古の風、
その風はひたすら太古の岩のために
吹いているようだ、
空間ばかりをはるかから
取り込むようにして……
 おお 月の光を浴びて上方で
実をつけるいちじくの木は
どんなにおまえを感じ取っていることだろう。

*****リルケ 富士川英郎訳「海の歌」

大海の太古からの息吹
夜の海風
 お前は誰に向って吹いてくるのでもない
このような夜ふけに目覚めている者は
どんなにしてもお前に
堪えていなければならないのだ
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詩歌鑑賞:「鷺の歌」ヴェルハアレン

鷺の歌/エミイル・ヴェルハアレン/上田敏・訳

ほのぐらき黄金(こがね)隠沼(こもりぬ)、
骨蓬(かうほね)の白くさけるに、
静かなる鷺の羽風は
徐(おもむろ)に影を落しぬ。

水の面(おも)に影は漂(ただよ)ひ、
広ごりて、ころもに似たり。
天(あめ)なるや、鳥の通路(かよひぢ)、
羽ばたきの音もたえだえ。

漁子(すなどり)のいと賢(さか)しらに
清らなる網をうてども、
空(そら)翔(か)ける奇(く)しき翼の
おとなひをゆめだにしらず。

また知らず日に夜(よ)をつぎて
溝(みぞ)のうち泥土(どろつち)の底
鬱憂の網に待つもの
久方(ひさかた)の光に飛ぶを。

覚書:詩的に見る《運命》

《覚書》

現実の全体とは現在目の前にあるものに尽きるものではない。現実はその巨大な部分をまだ陰に隠れた、発せられていない未生の言葉としてはらんでいるからである。<ドストエフスキー>

■若き詩人への手紙(マルテの手記)/リルケ著より

・・・ですから悲しいときには、孤独でいること、注意深くあることが非常に大切です。つまり私たちの未来が私たちに入ってくる瞬間は、一見何も起こっていないかのようであり、じっと麻痺したような瞬間であるにもかかわらず、そういう瞬間こそ外部からくるように思われる未来が、実際に生起するあの騒々しい偶然的な瞬間よりは、実に遥かに生に近いものだからです。

私たちが悲しみをもつものとして、静かに、辛抱強く、開け放しであればあるほど、その新しいものは、一層深く、一層迷うこと少なく私たちの内部に入ってきます。一層よく私たちは、それを自分のものにすることができ、一層多くそれが私たちの運命になります。そして後日、いつかそれが起こるとき(という意味は、それが私たちの内部から、他の人たちへと出てゆくとき)、私たちは自分自身がそれともっとも深い内部で親しい間柄であることを感じるでしょう。そしてそのことこそ必要なのです。

…私たちの遭遇するものが、何ひとつ未知なものではなく、久しい以前から私たちのものであったものばかりである、と言うようになる必要があります。私たちが運命と呼ぶものが、人間の内部から出てくるものであって、外から人間の中へ入ってくるものではないということも次第々々に認識するようになるでしょう。ただ大抵の人はその運命を、それが彼らの内部に住んでいる間に、それを跡形もなく吸収し尽くさず、自己自身へと変化させなかったからこそ、自分自身からでてくるものを、それと認めることができなかったのです。彼らにとって、それはまことに未知なものに思えるので、ただ驚き慌てるばかりで、それが、いまはじめて自分の中へと入ってきたばかりに違いない、と思ったのです。

…私たちは、私たちの存在をその及ぶ限りの広さにおいて受け取らねばなりません。すべてのことが、前代未聞のことさえ、その中ではあり得ることなのです。それこそ本当のところ、私たちに要求される唯一の勇気です。私たちに出合うかも知れぬ、最も奇妙なもの、奇異なもの、解き明かすことのできないものに対して勇気をもつこと。

人間がこれまで、こういう意味において臆病であったことが、生に対して数限りない禍をもたらしたのです。

《幻影》と呼ばれる体験や、いわゆる《霊界》なるものの一切や、死など、すべて私たちに非常に身近なこれらのものは、日ごとあまりにも生活から遠ざけられ、はばまれてしまったために、これを捉えようにも私たちの感覚が萎縮してしまっています。神のことはさておきとしてです。しかし解き明かしのできないものを恐怖することが、個々の人間の存在を貧弱なものにしたばかりでなく、それによってまた、人間の人間に対する関係も狭いものにされ、いわば無限の可能性の河床から、何物も生じることのない不毛の岸辺へ掬い上げられてしまっています。

というのは、人間関係が言うにも堪えないほど単調に、旧態依然として、一つの場合から場合への繰り返されるのは、怠惰のせいばかりではありません。それは新しい、見きわめのつかない体験に対して、何でもはじめからかなわないと思い込んでいるその恐れのせいでもあるのです。

しかし何物に対しても覚悟のある者、何物をも、たとえどんなに不可解なものをも拒まない者だけが、他の人間に対する関係を生き生きとしたものとして生きることができ、自らも独自の存在を残りなく汲み味わうことができるでしょう。


■山中智恵子の短歌作品

百年の孤独を歩み何が来る ああ迅速の夕焼の雲
那智に来て滝の時間に逅ひにけり心死にゆくばかり明るき
秋の夢泡立ちにけりうつせみの桔梗宇宙にわれはかへらむ
ここすぎて水甕多き村に出づ星の水盤かたむきてあり
暗黒星妖霊星とこそ光年の彼方に滅び元雅歩む
■『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』より
童子のときは
語るも童子のごとく、
思うも童子のごとく、
論ずるも童子のごとくなりしが、、、
人と成りては
童子のことを棄てたり
今我ら鏡もて見る如く観る所おぼろなり
されどかのときには顔を対(あわ)せて相ま見えん
今わが知るところ全からず、されど
かのときは我が知られたるごとく全く知るべし

■コリントの信徒への手紙、第一、13章1節~13節

1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。
2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
4 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
5 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
6 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
7 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。