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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

歴史研究:中世と近世と信長

縁あって、戦国大名・織田信長のプチ研究書を読書

織田一族を含め、中世という時代を彩った有力者は、農民(常民)集団からなる古代的なシステムによって立つ勢力ではありませんでした。荘園は惣村となり、惣村は中世国家群のシステムに組み込まれ、幾つかはマニュファクチュア、つまり工場制手工業および商業活動に手を染め始めていたのです…という話

中世に活躍したのは非常民すなわち被差別の民でした。漁業、狩猟、各種の商人・職人。山城を築いたり砦を築いたりという時代の要請があり、土木業者の勢力が伸びてゆきます。たとえば石積み工事を専門とした穴太(あのう)集は、織田信長の伝説の城、安土城の石垣の工事に関わった事で有名です

全国的に、刀や甲冑、鉄砲といった武器の需要が高まり、各所で多くの鉱山が開発されました。石見銀山や黒川金山など、今でも残る黄金郷伝説の地は、こうした戦国時代の動きが生み出してきたものでした。この鉱山開発の動きは、遠く海を越えたスペインやポルトガル、そして彼らの植民地であった新大陸・南米の金属市場にも影響をもたらします(ポトシ銀山と石見銀山は、16世紀の銀市場の双璧でした)

帝国主義の台頭と、グローバル市場の拡大とは、実に戦国時代(15-16世紀)からの由来を持っています。その社会的な潮流が頂点を迎えたのが、数百年後の世界、すなわち20世紀における帝国主義&軍拡競争の時代でした。このような連続的な歴史的視点は、現代の動きを見るときに重要です

閑話休題

織田信長は「人は死ねば無になり、魂も何も残らない」という極めてドライな思考の持ち主でした。彼にして、時代のターニングポイントの創成、すなわち比叡山延暦寺の焼き討ちが可能であったと申せましょう。このような苛烈な精神によって、日本の戦国時代は終焉を迎えたのでした――現代は、どのような精神によって時代のターニングポイントが成されるのか…それはまだ分かりません

中世および戦国時代は、極めて商業的な時代であると共に、暴力的な時代でした。海洋には一攫千金狙いの海賊が徘徊し、海賊行為は国家的事業・国家的商業行為のひとつとして、合法的に認められてさえいたのです。法律は時代によって姿を変えていた、という事実の一つです

(それでも、この暴力的な時代を経た後の世においては、人権さえ認められていなかった古代よりは、法律は進化していたのです。「禍福はあざなえる縄の如し」という真理を見る思いであります。「時代はまだまだ動揺し続ける」、そこに未来への期待を持っても良いかも知れないと思うのであります)

人々は自衛のため、大量の武器を必要としました――大量の資金も

織田信長は、そうした時代のさなかに生まれてきた、極めて合理的な人物です。信長を生み出した織田一族は、河川交易の利益で莫大な富を築いた有力者としての顔を持っていました。織田一族は河川流通から海洋流通へと事業を拡大し、中部地方の港湾の支配権を手に入れつつありました

次に織田信長がその天下取りの過程で、その初期に征服した国が、良質な材木を出す山国でした――船を建造する材木の調達が容易になったのです。これが、彼らの商業活動を推進させたことは間違いありません。大阪の自由都市に進出することで、ポルトガルとのつながりも出来てきます。ポルトガルは、海洋を航海する大型船の技術を持っていました。織田信長が何故に安宅船などという大型の船を建造できたのか、その理由がここにあります

信長による比叡山延暦寺の焼き討ちは、商業活動という観点から見ないと、納得できない部分が多いという行為であります。軍事活動は常に、商業活動と表裏一体でした。織田信長が持っていたのが、南蛮貿易の利権。比叡山延暦寺が持っていたのが、中韓貿易の利権です

比叡山延暦寺の焼き討ちは、「中韓貿易グループと南蛮貿易グループの対立」という文脈で理解できるものです。寺社勢力は、中韓貿易を通じて、火薬の原料となる硝石などの戦略的物資を大量に入手しており、これが信長にとっては脅威であったのです(別の側面から見れば、日本はこの時、真っ二つに分裂する危機にあったと言うことも出来ましょう)

結局、信長はふたつの貿易利権を独占しました――南蛮貿易の利権と、中韓貿易の利権です。そして、織田信長を継いだ豊臣秀吉の代になって、天下統一という状況が可能になったのです。天下統一がなされ、巨大な経済力と軍事力がひとつの権力機構に一極集中し…まさにその時、わが国における、「近世」という時代が始まるのです

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ガロ=ローマ時代の覚書(2)

ガロ=ローマ時代の覚書(1)から続きます^^

さてこのガロ=ローマの繁栄をものした属州ガリアですが、地続きという条件のもと、次第にゲルマン民族の姿がちらほらと見られるようになります。

ゲルマニアの方面からゲルマン民族が流入してきた訳なのですが、当時のゲルマニアが具体的に、ローマ帝国から見て何処にあったのか?は、ウィキペディア「ゲルマニア」の項をご参照くださいまし。ゲルマニアは、ローマ帝国の版図には遂に含まれる事の無かったエリアで、最初からゲルマン的要素の濃密なところでした。


フランスとドイツの境界を定めた重要な戦いが、「トイトブルクの森の戦い(西暦9年)」だそうです。トイトブルク(現・オスナブリュック近郊)の森は、フランス・ドイツの国境付近(?)にあります。以後のガリア語がロマンス語にシフトしていったのに対し、ゲルマン語は父祖からの言語を強く引き継ぎました…だそうです。

19世紀はとりわけ国粋主義が燃え上がった時代でしたが、フランスがケルト民族に源流を見出したのに対し、ドイツはゲルマン民族に源流を見出したわけで、西暦9年という昔の出来事であるにも関わらず、ローマ帝国がもたらした因縁の深さが、十分に伺えるものであります。

(19世紀は、ローマ帝国の方が良く知られていて、フランク王国の実態については、研究があまり進んでいなかったと思われます。何せシュリーマンの時代ですしね…^^;)

言語的資料フランス語とドイツ語の分布境界の歴史的経緯についての概観](ブログ)


ゲルマン人の流入は、パックス・ロマーナの絶頂の2世紀から急速に拡大しました。狩猟生活から農耕生活への転換のため、人口爆発があり、いっそう大量の土地を必要としたのが理由だと言われています。

ローマ帝国がゲルマン侵入・第一陣(235年~)への対応で不手際を重ねるようになり、属州支配どころでは無くなったのが、3世紀。俗に「3世紀の危機」とも言われています。

この異民族流入という出来事…、すごく身につまされるような気配がします^^;
現代のアメリカで言えばヒスパニック系の流入であり、現代の日本で言えばシナ系の流入でありましょうか(敢えてバランスを取るためシナという事で・汗)。うむむ、日本の中央政府、超・頑張ってほしいです。

この3世紀、ローマ帝国は滅亡もかくや、という程の迷走と混乱を極めました。軍人皇帝と僭帝の時代です。あらゆる政治的暗殺&社会動揺のドラマの種を、ここから取材できるのでは無いでしょうか?異民族侵入に対抗するための重税、蛮族の略奪による耕作地の放棄と荒廃、そして入れ替わり立ち替わる数多の皇帝と、属州政治の機能不全…

ここも身につまされるところです。日本も、地方財政が危機だと言われてます(汗)。夕張は破綻してしまいましたし…大阪も何だか騒いでいますし。中央政府も「審議拒否」か何かで、首相がコロコロと替わって、国政の機能不全を起こしかけているらしいし…

3世紀の危機を通じてローマの財政を支えていた奴隷制度が乱れ、税収も上下身分も確定しない社会が出現します。そのため、この時代のローマ皇帝は、たびたび奴隷を耕作地に拘束するための勅令を出しています。この部分は、重要だと考えられます。なぜなら、後の封建制度へ移行する可能性を秘める、多数の因子のうちのひとつであったと考えられるからです。

ローマ帝国・3世紀の危機について詳しいページを見つけました:
http://members.jcom.home.ne.jp/0425590601/ca12.htm
解説がテンポ良く、詳細かつ面白かったです。キャラも可愛いです(笑)^^
長い内容になっていますので、ゆっくりどうぞ。他ページも見物かと。

さて、ガリア属州では、未来の姿を予兆させる、重要な出来事がありました。

3世紀の混乱の中、ササン朝ペルシャが時のローマ皇帝を捕虜としてしまい、その息子が帝位についたものの、「ローマ皇帝、敵の手に落ちる!」というニュースは、属州全体(ブリタニアの西端からゲルマニアの東端まで)をあっという間に駆け巡りました。

この衝撃が何をもたらしたかと言うと、いっそうの異民族の活動とローマ帝国の分裂です。

属州はローマ中央政府をあてに出来なくなったため、自らの領土と安定を守るため結託し、あるいは地元の軍事的リーダー(僭帝)の下に何となく集まり(?)、最終的には「ガリア帝国(トランサルピナ系属州の派閥が中心)」、「ローマ帝国(元老院の派閥)」、「パルミラ帝国(パルミラ地縁の派閥)」という3つの帝国ができました^^;

ガリア帝国は、もともとの政治的根拠が脆弱だったため独立を維持できず、後に復活したローマ帝国の権威に再び服属することで、たった15年(260~275年)で解体しましたが、ガロ=ローマ時代が生み出したガリア帝国こそは、微妙にフランク王国の前身とも言える帝国では無いでしょうか。その首都は、現ドイツ南東部の辺境、ラインラント=プファルツ州のトリーアにありました。

ガリア帝国の版図は、ウィキペディア「ガリア帝国」の項をご参照ください^^

その後のローマ中央政府に現れたのが、統治の天才、ディオクレティアヌス帝。官僚制度を整備し、皇帝権力の強化(専制君主制・ドミナートゥス)を図り、もとは40程度であった属州を100以上に細分し、「分割して支配する」という手法でローマ帝国を統治。

この属州再編で、属州の自立性は奪われました。(地方政府の首長の権限を制限したようなもの。これが後々の混乱を呼ぶことになります。これもまた、封建制度成立の種子となった…と考えられます^^;)

西暦375年は、ヨーロッパ激震の年です。ゲルマン第二波に続いてフン族が侵入、この時、西ゴート族がフン族に追われて西進をスタート。フン族が世界最強の騎馬民族(ゲルマン族より強かった!)だった事もあり、ゲルマン諸族は西に南に追われてローマ帝国とその属州に次々に流入。アッティラ大王の件は有名です。

ウィキペディア「アッティラ大王」の項目にあるフン族の勢力範囲のすごさにびっくりして下さい^^

そんな訳で、ヨーロッパ全体が、本格的な民族大移動で大混乱になりました。当然、ローマ帝国を支えていた各種のローマ制度は、完膚なきまでに崩壊。ガロ=ローマ文明は、またたく間にゲルマン色に覆われてゆきます。

この頃、各地でやたらと城壁の建設(ゲルマン風かな?いずれにせよ、中世っぽい城壁かも。)が進んだそうです。事実上の暗黒時代にふさわしく、ゲルマン諸王国の前身となる統治組織――後に封建制度に変わってゆく統治組織――があちこちに作られてゆく、戦国乱世下にあったと言えるでしょうか。

後にフランク王国を打ち立てることになるフランク族が、遂にベルギカ(現・フランス北部辺境)に達したのも、この375年であります。ここから、中世の雄、フランク王国は始まったのです。

総じて、ガリア北部&東部からゲルマン民族の定着と支配が進むという流れがあり、海を隔てたブリタニア(現イギリス)ヘも、ゲルマン諸族(特にアングロ=サクソン)が組織的に出没するようになっていました。
※アングロ=サクソンが先で、ノルマン人は後の時代のようです^^;

こうした中、軍管区といった軍事的保障のある将軍が常駐した区画では――特に以前からゲルマン族の将軍が優勢だった地域においては――ゲルマン社会の伝統的な構造も考慮すると、必然として、属州将軍から封建領主への移行ルートが開けていた筈です。

中世ヨーロッパ全体に均一な封建制度が広まった基礎的要因として、このローマ帝政末期の改革の一として、属州全体で分割支配のための行政区の細分化が行なわれていた事実は、注目に値するのでは無いでしょうか。

西暦395年、ローマ帝国の東西分割。西暦476年、西ローマ帝国滅亡。

そして、この混乱の中で、ヨーロッパ中世前期が幕を開けたのであります^^
上手くまとまったかどうかは分かりませんが(汗)、こうしてざざっと見てみると、ガロ=ローマ文明の繁栄と3世紀の混迷は、まことに重要なチェックポイントであったと考えられるのであります。

〔おまけの想像〕ローマ滅亡の原因=官僚制度の肥大化?

末期ローマに起きた統治組織上の大きな変化が、専制君主制・ドミナートゥスの成立に伴う、元老院から官僚制への変化です。この官僚制度、どうも恐ろしく財政を食うもののようで、それ以後、ローマの財政は見る見るうちに資金繰りに苦しむようになりました。

それで、属州に派遣された税官吏がいっそう中産階級から税を取り立てるようになり、しまいには税官吏と異民族が結託して、ガロ=ローマの中堅農民の子供をさらって、奴隷市場に売り飛ばして、不足金額を埋めるなんていう出来事も、多々起こっていたようです。(何だか、北朝鮮が絡んでいる拉致問題を思わせるようで、嫌ですね・汗)

これが官僚タイプ利権食いとか、マフィアの始まりだったのでは無いか、という指摘もありますが…複雑な気持ちです。

そして、ますます肥大する官僚組織を維持するための税金の高騰に伴い、ローマ帝国の財政を最後まで支えていた、中産階級の崩壊が起こります。その後に生まれたのは、異常なまでの格差社会であり、犯罪多発の荒廃社会でした。

中産階級の喪失と共に起こったのは、中堅教育界の崩壊です。ある地域では大理石などの建材を綺麗に刻む熟練の職人がいなくなった為、奴隷をかき集めて、過去の壮麗な建造物を分解して、パーツだけ組み合わせて、官僚や資産家のための邸宅を造成する、という出来事もあったそうです。ローマ文明&文化の広範な維持が不可能になっていたのです。ローマの「知」の伝承の断絶…、これこそ、まさしくゲルマンの優越を可能とした、暗黒時代(ローマから見て)と言えるものでありましょう。

格差の激化と利権争い含む犯罪の増加は、同時進行で従来の社会を大きく損なってゆき、異民族の安価な労働力に頼らないと、財政維持も治安維持も不可能な状態にまで追い込まれていたであろう、ということは確かに言えます。(実際に、奴隷や傭兵に関しては、人件費の安いゲルマン人の割合が多かったそうです)

深刻な危機の中にも関わらず、いや逆に深刻な危機に放り込まれてしまったからこそ、なおも財産と権限の安定を要求するローマの官僚組織自体が、異民族勢力を積極的にローマ領内に引き込み、ローマ帝国内の内乱を頻発させ(今で言えば、外国人犯罪&振り込め詐欺の増加)、売国よろしく領土は失われてゆき、結果としてローマ帝国を滅ぼしてしまったのだと、そういう風に言うこともできるかも知れません。

以上の事は、あくまでも「異民族の流入」、「帝国内の略奪と混乱」、「ローマ財政の崩壊(税金の高騰)」、「官僚制度の維持」といった要素から編み出してみた物語的占いであって、歴史の真実はどうだったのかは分かりません。ローマ帝国衰亡の原因としては、水道管の鉛毒とか、気候変動とか色々あるみたいですし…

金融危機といった混乱の中に放り込まれると、かえって財産と権力に必死にしがみつき始める(ますます大きな利権を欲する)…という心理や、人間の行動パターンというものが、昔も今もあまり変わらないものである、とすれば、こういう想像も割と有効なのかも知れません。

しかし…、とりわけ日本に関しては、最大級の不吉な結末を暗示するものでもあるので、本当は有効な想像であって欲しくないです。ここの部分は、是非とも他の人に考察して頂いて、「それはみな杞憂である」と余裕で論破して頂きたいところです^^;

ガロ=ローマ時代の覚書(1)

今回はホームページの「星巴の時空」シリーズに関して、資料を読んで軽くノートしました。
※「華夏の時空」は、手に入る限りの古代史資料を読みまして、後はどのように語(=騙)ろうかなと考えている段階。

簡単な歴史ブックを読み込んでみて、ヨーロッパ中世の飛躍を支えた要素が何だったのか、うっすらと分かってきたような気持ち。

ヨーロッパ中世の飛躍の謎は、ヨーロッパ中世前期に確立した要素にあると予想。

ヨーロッパ中世の大きな飛躍が見られる例として分かりやすいのは、建築です。中世中期の頃、それまでには見られなかった大きな教会建築、例えばシャルトル、モン・サン・ミッシェル、ノートルダムとかが建立されるようになります。

中世中期のドイツでは、既にクレーンを使った巨大建築技術が進んでいました。ドイツ・ポーランド地域の諸都市でクレーン建築などの諸工学が異常に進んだ背景には、カール大帝、もといシャルルマーニュが大いに関わっていた筈である…と、思考中。
(専門的かつ詳細な資料で調べてみると、とっても興味深い事業があるのです。後世への影響度は大きかった筈なのですが、注目度は低いみたいで、謎です…)

さらにロマネスク・ゴシックを経て、中世後期には、こうした建築技術が更に進歩し、ベルサイユ宮殿やクレムリン宮殿などの大掛かりな造成も、現実的なものとなった…と言えるようです。
集大成がノイシュヴァンシュタイン城でしょうか?*^^*

これらの進展の始原となった中世前期と言えば、ゲルマン諸王国の時代。

ですが、そもそも何も無い(当時のヨーロッパは大森林と岩山の世界が多い)ところに、インド=ヨーロッパ語族の後発組、ゲルマン諸族が入ってきた筈が無いし、即座にゲルマン諸王国が華やかに繁栄できた筈が無いのです。ゲルマン諸族が入り込んだのは、その当時、既に十分に都市開発がなされ、後の繁栄の基礎がしっかりと確立していた土地であった筈です。

タイトルにもある「ガロ=ローマ時代」、ここにヨーロッパ中世前期におけるゲルマン諸王国の繁栄と封建制度の成立を生み出したものの存在を、読み取りたいと思います。

考古学的には、「ガロ=ローマ時代」と言われているこの時代は、カエサルのガリア征服後から、西暦500年位までの期間に当たります。ケルト=ローマ融合文明の全盛期でもあり、この時代に、ケルト(ガリア属州)とローマの文化的融合が進みました。

種子がまかれたのは2世紀、ローマ・アントニヌス朝がもたらしたパックス・ガリアの頃で、その絶頂期は2世紀から3世紀。それまでは「アルプスの彼方(トランサルピナ)」と曖昧に呼ばれていた辺境でした。

当時のローマ地図では、南側(地中海沿岸)から順に「ナルボネンシス」、「アクイタニア」、「ルグドゥネンシス」、「ベルギカ」となっています。「ベルギカ」の東部地方が「ゲルマニア」…現代のドイツで、西の海の彼方の島が「ブリタニア」、現代のイギリスです。当時のスペイン&ポルトガルは「ヒスパニア」と呼ばれていたようです(間違っていたら訂正ください^^;)。

当然ながら、ローマ化の早かった「ナルボネンシス」州が、一番地位の高いローマ属州だったそうです。(厳密に言えば、ナルボネンシス州はガリアでは無いようです。通常、ガリアというのは、それより北側の3属州をまとめて言うようです)

ブリタニア、ガリア、ゲルマニア…それにヒスパニア。いずれもケルト文明が栄えた土地ですが、カエサルの頃のローマ帝国においては、異民族の辺境と見なされていました。

そんな訳で、ガロ=ローマ時代のガリアでは、ローマ化プロジェクトが推し進められるところとなりました。ローマ道路が敷かれ、ローマ風都市が作られ、ローマ支配の下で「パックス・ロマーナ」を享受しており、大いに繁栄する事になりました。そこでは、ローマ帝国の誇る土木技術が、惜しみなく注ぎ込まれたのであります。(大森林は結構、大量に伐採されています。後にゲルマン民族が拡散しやすくなったのは、この開発による森林地帯の減少にも、いささかの理由があるのではと思います・汗)

名のある大都市(ナルボンヌ、リヨン、ニーム、トゥルーズ、オータン、ランス)では、人口2万人から3万人。中規模の都市は約20あったと考えられており、推定人口5000人~2万人。小都市は不明ながら数が多かったようで、平均推定人口6000人未満。公用語はラテン語。内陸部の河川輸送ルートも、この頃から開かれていました。

ガリア人の殆どは農民だったそうですが、その詳細は研究が進んでおらず、よく分かっていないそうです。ただ、乾燥した地中海沿岸部で、エジプト及びスペインからの農作物や、地中海貿易に頼っていたローマ人に比べると、農耕に向く豊穣な土地に長く住んでいたガリア(ケルト)人は、必然として、各種の農業技術に優れたであろうという事は、かなりの確度で言える筈です。この時代に、犂(すき)、刈り取り機、土壌改良剤といった技術がローマに流入しています。

ローマ軍の食糧となった小麦は、ほぼガリア産の小麦だったと言われています。ガリア(ケルト)人はブドウ園の経営の習熟も早く、ガリア産ワイン(今で言えばフランス産ワイン)は、早々にローマ人の賞賛するところとなったようです。

しまいにはローマで消費するワインの8割がガリア産ワインという状態になり、後のドミティアヌス帝はローマの葡萄栽培を保護するため、ガリアの葡萄の木を半分抜かせる命令を出した程であったと言われています。もっとも、西暦270年に、プロプス帝がガリアの葡萄栽培権をガリア人達に与え、再びガリアでのワイン造りは活気を取り戻すのでありますが。

※ちなみに、カール大帝、もといシャルルマーニュは、「ワイン中興の祖」の異名も与えられているそうです。ゲルマン諸王国・乱世の時期は、さすがに葡萄栽培も低調だったのでは無いかと思われます^^;

・・・ガロ=ローマ時代の覚書(2)に続く・・・