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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代ユーラシア史考察・雑感

☆インド=ヨーロッパ語族

英単語の起源は「I」と「WHO」、英研究機関がスパコンで解析
http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200903022032

英レディング大学(University of Reading)の調べにより、英語などヨーロッパ系言語に共通する特徴としてインド・ヨーロッパ語族でもっと古い単語は「I(わたし)」「WE(わたしたち)」「WHO(だれ)」「1」「2」「3」であることが同大学の発表により明らかとなった。

レディング大学では英語の文法構造、意味構造の解析を続けてきたが、これまでの研究手法では計算量が膨大になることから言語進化上、5000年以上前まで遡ることは困難だった。

今回、研究グループは、新規に導入されたIBMのスーパーコンピューター「ThamesBlue」を活用することでこれまで2対の単語の比較解析を行うためには6週間の時間を要していた解析時間を2、3時間に短縮することに成功。その上でスーパーコンピューターの計算リソースを最大限に活用することで、インド・ヨーロッパ語族の起源となる3万年前までに遡ることに成功した。

研究グループによると今回の解析作業の結果、言語を構成する形態素の内、(時代変遷することが少なく)進化がもっとも遅いのは数字で、(当時の)名詞、動詞、形容詞が続くことが判ったとしている。

その上で、言語を構成する各形態素は1万年の歴史の中では10回は入れ替えが起こっており、現在、使われている英語で使用されている単語の半分は2500年前の英語には存在しなかったものとなると述べている。(後略)

(コメント)

2500年前には存在して、現代には存在しない…という言葉とは、果たしてどういうものだったのか、興味を惹かれます。

古代ユーラシア・インド=ヨーロッパ祖語の時代。

ゾロアスターが活動し、元祖リグ=ヴェーダが唱えられた時代よりもずっと以前。

現代の言語学が割り出した音素のつづりからの想像に過ぎませんが、多分、その頃の「銅」は、「ロードス」という発音を持っていた…その頃は、少なくともインド=ヨーロッパ語族については、部族ごとの言葉の差も、限りなく曖昧だったと思われます。

…「動詞」と「形容詞」が、最も変化しやすい種類の単語だというのは、日本語の変遷を眺めていても、ほぼ同意であります。きっと古代人も、「いまどきの若い者は言葉がなっとらん」とつぶやいていた筈です。現に、メソポタミア文書の粘土板やエジプトのピラミッド石に、そういう「ボヤキ」が書かれているもの(=古代バージョンのブログ?)があるという話です

*****

中国文化が何処から来たのか、儒教を生み出す思想が何処から来たのか、氏姓制度が何処から来たのか…、氏姓制度は、遊牧民族が編み出した制度らしい…と言われていますが…

遊牧をしていて家畜の遺伝を長く見ていると、優性遺伝とか、病弱が生じやすい遺伝とかが次第に分かってくるそうです。そこから人間同士の近親婚のタブーも編み出された。それが氏姓制度である…と言う話。

エジプトなどは完全に農業文明だったので、近親婚の遺伝的危険性に関する認識があまり育たず、ずっと長い間、王族同士の近親婚が行なわれていたという事です。日本でも、同様の習慣がありました。一般に、古代の農業民族(広く言うと、非・牧畜系でしょうか…)が起こした王朝には、王族同士の近親婚が見られるそうです。

近親婚は、王権概念の形成に関わってきたのでは無いか、という事が宗教社会学の方面で言われています。血の濃いものから順に王位継承権があるという意味で。

中国における王権概念(皇帝概念)がどのような過程を辿って確立していったかは、まだ研究途上のようです。感想に過ぎませんが、最近の書籍をいろいろ読んでみると、夏の時代に王権が確立したのか、それとも殷の時代に王権が確立したのか、で揺れ動いている感じです。

日本では、天智系と天武系が激しく争った壬申の乱を経て、王権神話が確定したようです。新たな国家神話の確立と共に「天皇霊」という神話的概念が確立した後は、近親婚の習慣も薄れていったようです。(そこに藤原氏の政治的陰謀が関わったりとか、いろいろ血みどろなエピソードがあるわけですが・汗)

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青銅華炎の章・上古4

【古代の青銅について】

青銅は銅と錫(スズ)との合金ですが、そのままでは脆く、やわらかい合金であります。

故に、農機具や武器などとして通用する堅牢さを備えた青銅が、次第に求められていった筈です。おそらくは旧石器時代以来の長い年数をかけた、冶金術の蓄積があり…それは時代を下って、錬金術の基礎となった知識でもあります。

※錬金術は、元々は、金属の色とその変容を扱うテクノロジーであった、つまり、古代の冶金術であった、という話があります。鉱石と普通の石とを区別する知識、そして鉱石から金属のみを分離する知識、さらに金属の種類を判別する知識…そういったものの蓄積が、錬金術の基礎だった…という事です。金・銀・銅・鉄を分けるだけでも、知識と技術の十分な蓄積が必要であります。

そして、灼熱の溶鉱炉を扱うのは、現代でも簡単では無いのだそうです。技術伝承…熟練の職人を生み出すには、数十年の時間がかかります。古代は尚更で、腕の良い金属職人は、本当に魔法使いのような存在だったと思われます。古代インドのカースト制度でも、冶金術を扱う職人、つまり鍛治師は、高い地位にあった事が知られています。

青銅は、錫(スズ)の含有量で色が変わる合金です。

錫(スズ)の割合の少ない青銅は、いわゆる純銅と同様の赤銅です。そして、錫(スズ)の含有量が増すと共に黄味を帯び、次第に金色に輝くようになります。最も堅牢で、武器や祭器として珍重されたのが金色青銅です。

(なお、碩学によれば、殷代の前の東アジアの銅は、スズ含有率が大きくばらついているそうで、これが、東アジアでも独自に銅の技術が発生していたのではないか…という議論の元になっているという事です。今のところ、発掘地点が限られているため、そこまではまだ明らかになっていないようで、殷代になって急に高度な青銅技術が見られる…という状態です。今後の発掘研究が待たれます。)

錫(スズ)比率がある割合を越えると、錫(スズ)の色である白銀色が勝るようになります。これがいわゆる白銅と呼ばれるものです。銅鏡に使われるのも、この白銅です。

古代青銅における硬化技術は、ことに西アジアにおいて、こうした青銅合金の研究と共に進歩しました。紀元前4000年頃には既に、ヒ素を含む新しいタイプの青銅が見られます。(西アジア沿岸~ギリシャ西部海岸で、ヒ素を含む青銅の出土例あり。)

含ヒ素青銅の出現は、比較的重い元素であるヒ素を含む深層鉱脈まで採掘が進んだためという説もありますが、いずれにせよ、他所の青銅とは比べ物にならないほどの堅牢さを備えている事は、古代人の目にもあきらかでありましたでしょう。

含ヒ素青銅のブレークスルー現象は、紀元前3000年頃の東地中海、エーゲ海諸島といった西アジア沿岸地方で、特に著しいものであったようです。そして紀元前2700年頃には、最高強度を実現し、かつ脆くない銅90パーセント、錫(スズ)10パーセントという理想の混合比率を遂に獲得した――という推測が出ています。

銅90パーセント、錫(スズ)10パーセント、及び脱酸のための不純物(ヒ素・亜鉛等)…という構成となっている最高強度の青銅合金は、その優れた堅牢性が注目され、後世は大砲用の合金としても活用されていました。この比率を備えた青銅は、大砲用の金属として使われていた事から、現在でも砲金(gun metal)と呼ぶところがあります。

東アジアの古代文明を支える事になる青銅が、民族大移動の波に乗って遥か西アジアからもたらされたものであったとすれば、このタイミングや交易速度からしても、西アジア由来の優秀な青銅に刺激されて、〈前シナ文明〉が開花したのだと申せましょう。

それは西の最果て、古代エーゲ海文明においても、同様でありました。(※エーゲ海の方が西アジアに近接している分、文明開化の時期はとても早く、西アジアとほとんど間をおかずに連動しています)

ちなみに武器としての青銅の切れ味は包丁にも劣る代物であり、実際の戦争においては、殴り合い・突き合いといったスタイルが主であったようです(想像すると、ちょっと気分が…)^^;;;;

★今回、物語仕立てに出来るまでに調べられたのは、ここまでです。続きはまた次回。

青銅華炎の章・上古3

上代の華夏大陸を取り巻くユーラシア情勢(特に西アジア周辺)を調べてみました。物語風に仕立てています^^

【西アジア文明の終点としての東アジア】

古代における東アジアは、文明の辺境でありました。

西アジアに、壮麗なる古代オリエント諸文明が繁栄したのは、紀元前3000年頃。

シュメール文明、インダス文明、エジプト文明・・・
西アジア・オリエント地域が世界最先端です。当時は、青銅文明でありました。

青銅の原料となる銅。この金属は自然界に露出している事が多く、純銅もまた、旧石器時代以来の単純な手掘り技術で容易に得られる金属資源でありました。(おそらく当時の人々の意識の中では、「輝きを放ち、高温の炎にかざすと成形加工が容易となる、柔らかい石」でありました!)

ユーラシア大陸で、人々の手によって銅が組織的に掘り出されるようになったのは、考古学上の推定で、おそらくは紀元前4000年頃の事。

ユーラシアの大草原のどこか…大地の深い裂け目の中を、さながら太古の偉大な龍(ドラゴン)か蛇のように輝きながらうねりゆく鉱脈、または鉱床において、銅は掘り出されてきた筈です。

とりわけ、地底王国の至宝を守護するドラゴンの物語群は、そういった太古の記憶をあざやかに反映しています。ドラゴンのうねる中央ユーラシアの大草原…そこは、ドラゴン物語の遠い故郷でもありました。

紀元前3500年頃に、メソポタミア地方において古代青銅の冶金術が立ち上がってきた、と推定されています。時代は、大きく動きました。石(リト)の時代から金属(メタル)の時代へ…

本格的な青銅器を製作するには、その銅を集めて精錬し、一定の比率で錫(スズ)と混ぜ…というプロセスを踏むのでありますが、これは合金を作り出すための溶鉱炉の開発と合わせて、非常に高度な技術的跳躍を要したであろうという事が推測されています。

また、錫(スズ)はアジアでもヨーロッパでも地上に局地的にしか存在せず、どうやって青銅器の製作までたどり着いたのかは謎のままです。しかし、一旦その技術が普及すると、青銅のメリットである大量生産が進みました。そして次第に、必要量の錫(スズ)を確保するための広域貿易が、西アジア諸文明を中心として進みます。

かつてのシルクロードは、青銅ロードであったのだ、と考えられているそうです。

青銅交易ロードは、民族大移動のルートでもありました。また、気候変動その他に追われて、ユーラシア大陸の諸部族は、東西に拡散します。

推測に因れば、民族大移動の波は主要なもので3回。第1波は紀元前4500年頃、第2波は紀元前3500年頃、第3波は紀元前2500年頃に起こったのではないかと言われています。

この民族大移動の波に刺激されて、西アジアから遥か東アジアの果てまで遷移してきた諸部族こそが、最初の東アジアの青銅文明を形成した、「夏」などの諸族だったのではないでしょうか。

そして青銅器と、青銅にまつわるドラゴンの王権伝説もまた、青銅交易ロードの上に並んだ幾多のオアシス集落を渡って伝えられてきたのであります・・・^^

※殷墟の年代が前1600年頃です。なにやらドラマの存在を想像してしまいます^^

次回は、古代の青銅技術の周辺について調べた内容のまとめです。