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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究的独り言:中華思想等

「中華」とか「漢民族」という概念があれほどに宗教的なものになったのは、清の頃なのかどうか…(個人的には、漢の時代かなと思っていました…)ちょっと気になる記述だったので、パッと捕まえておくことにしました。

http://www.tkfd.or.jp/blog/kawato/2009/04/post_107.html
中国人は世界や外国をどうとらえているか?北京での観察

(引用始)
清は満州の女真族が建てた王朝だが、女真族は明征服に当たって元朝の成れの果てであるモンゴル族、そしてモンゴル族が仏教や婚姻を通じて深く提携していたチベット族と同盟関係を結んだ。清が成立してからも、清の皇帝は同時にモンゴルの汗の称号を併せ持っていた。つまり清の初期はゆるい連邦制がとられていたようなのだ。

そして当時のチベットは強国で、新彊地方を広く平らげていたから、新彊がそのまますっぽり清の版図に入り、ここで初めて中国の現在の広い領域が一つにまとめられたのだ。初め、女真族という異民族に支配されるのを嫌っていた漢族の知識人達も、清中期になると「中国」という言葉を使って清と漢族を同一視し、「中華」という新しい言葉を発明して広大な領域全体にナショナリズムを及ぼしたのだと言う。

中国の学校では、明を女真族が滅ぼしたあたりはちゃんと教えるが、「その後は国民の90%は漢民族になっています」というあたりに飛躍しているらしい。「漢民族」という人たちは日本民族やドイツ民族と同じく、決して一種類の人種ではないのだが、どの国もそこらあたりは意図的に混同し、近代民族国家神話を作り上げている。
(引用終)

★以下の記述は表現が…いや、これこそが「中国」&「権力」ではあるようです…^^;

(同じく冒頭のサイトから引用始)
どこの国でもエリートと言われる連中は、国家という高性能のスポーツカーのハンドルを握ったみたいにわくわくしていて、右に行くのが国益だとか、いや左だとか口角泡を飛ばして論争をするのだが、その実自分の見栄と地位保全のためという場合も多いだろう。エリートのエゴイズムと使命感を区別するのは難しい。
中国でも今、空母を作るとか言っているが、大衆にしてみれば空母を作る金があるのならすべて自分が食べてしまいたいところだろう。
(引用終)

★あとは、個人的に調べた中国大陸の伝統住宅の建築様式。
(浅く調べたものなので、あまりイメージ出来て無いです)

四合院という建築様式:三国志の時代にはすでに普及していたようです。

特徴:四面をきっちりと囲まれており、正面に小さな門が空けてあるそうです。
家の中に入ると中庭(パティオ?)があり、陶器の卓を置いて、そこでお茶お酒したりする。
家の外の庭(縁側)、といったような日本的イメージの庭は無いらしい。

家の中に実はエクステリアがあってインテリアがあるというのが、
中国(中原エリア支配階級)の伝統的な建築の美学(らしい…)。

こういう美学にして中華的膨張傾向が出てきたと言うのが、何とも不思議であります。
…大陸のミステリー…人間は、結局、よく分からない…^^;

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青銅華炎の章・上古6

中原の青銅諸王国(2)…青銅到来の後

西アジアからの青銅器の到来と、小麦の到来。この出来事は、華北地域における農耕文化、及び食文化の激変を起こしたという意味で、決定的に重要です。

アワ・キビ農耕からコムギ農耕へ。冷涼乾燥気候に適した、新たな栽培穀物の導入…それと同時に、卜骨(卜占用の獣骨)も出現するようになりました。これは、西アジアに由来する牧畜型農耕社会が、西域を中心として、華北に向かって急速に広がり始めていた事を暗示するものなのです…

最高の呪術的権威としての、青銅器の普及。

そこに「商人」の介在を想定する試みも、あながち的外れでは無いと思われます。〈上古諸州〉も末期に入った頃…中原の近辺の諸族は、西アジアからもたらされた青銅を珍重し、また自らの手でも新たな青銅器を鋳造し、様々な青銅祭祀を発達させていったのです。

紀元前1600年頃の中原において、西域から到来した青銅文化を核として、「中原」という境界に向かって各文化圏の凝縮が起こり、その混合の中で、新たな文化が築かれる事になります。

〈前シナ文明〉に変貌を遂げてゆく事になる青銅文化:二里頭文化、及び二里岡文化です。

※二里頭文化が夏王朝と関係するかどうかについては疑問があるそうですが、二里岡文化と殷王朝とが連続している事は、最近の発掘で確かめられており、現代の中国考古学の常識となっているという事です。

中原において、青銅文明と玉文明との間で何が起こったのかは、不明です。

しかし、遠く西アジアに由来し、好戦的で気性の荒い青銅文明は、伝統の蓄積において遥かに先行していた玉文明を瞬く間に滅ぼし、我が物として呑み込んだであろうと考えられます。

玉文明に打ち勝った青銅文明は、周辺の森林開発を速め、ついには原初的な部族国家(城壁都市)を形成する混成氏族をも生み出した、と考えられます(=「城壁都市」の部分は、アムゼルさまより教えていただきました。ありがとうございます^^)

こうした城壁都市の大きなものには特に人口が集中し、文化・知識活動のターミナルスポットとして栄えました。中核となった住民は、その地における部族社会のメンバーでもあり、自然、これらの城壁都市は、部族であるが故の強い団結心に支えられたポリス的国家、「古代の諸王国」でもあったのです…

中核住民の労働力のみで支えられる都市は、極めて小規模です。そこでは、朝には郊外の畑を耕しにゆき、夕には城内に戻って集団生活を楽しむという生活でありました(=この部分は、碩学・宮崎市定氏の受け売りです^^)

そうした小ポリス的部族国家の散らばる中で、商売を通じて急速に膨張し、ひときわ巨大な城壁都市となるものが出てきた…と想像します。伝説の夏王朝が、もし実在したとすれば、この頃の事であったのでは無いでしょうか。殷の古い名を「商(大邑商)」というのも、商売で大きくなったが故という事を暗示しているように思われます。(=もっとも、「商」には入墨用道具の象形としての意味もあるそうで、古代の原初の意味は、よく分かりませんでした^^;)

急速に膨張した都市は、中核住民の労働力のみでは到底支えきれず、近辺の都市と同盟(人材派遣など)し、あるいは戦争で奴隷を獲得して、その繁栄を維持せざるを得なくなった筈です。人口が更に増大すれば、また新たに多くの奴隷を必要とし、都市間の戦争も大規模化する…そして遂には、都市群・都市群の大戦争時代に突入するのであります。

(戦争というよりはむしろ、利益誘導あるいは利益確定のための部族抗争に近いものだったかも知れません)

戦争に負けそうになった都市は、縁戚を頼んで同盟を結ぶのでありますが、そこでは宗家・分家の地位格差が微妙に効果を発揮し、軍事同盟は対等な同盟ではなく、主従関係が生じてきた…と想像します。

その主従関係は、裏切りを含む不安定なものであり、青銅器を用いた呪術(=霊的威圧)によって彩られる事になった…それが、「青銅器の霊威=古代シナ王権」の結びつきの原初だったのでは無いでしょうか。生き残った「部族」は、いわゆる「祀(祭祀)・戎(軍事)」に優れた、強大な部族のみ…

いささか背筋が寒くなるようなプロセスではありますが、青銅祭祀の高度化、複雑化という事象は、戦争、及び戦争に付随する血みどろの呪術戦の発達と、切り離して考える事は不可能であります。

白川静氏の説によれば、当時の呪術戦は、魔術的な眉飾を施した眉人(=邪視の呪力を発揮する巫女)が先頭に立ったといいます。また、呪術戦に敗れた呪術師については、男女を問わず、その魔術的な力を失わせるために、全て殺害処分した…という事です。その事を、甲骨文で「蔑」と記したそうです。想像ではありますが、その首を刎ね、城門にかけて国の守り(春秋期は城門の下に埋めて呪禁)としたり、辻の祭壇に首を並べて道の守りとした筈です…

いつしか、血で血を洗う戦争が普通となり…やがて多数の従属都市を従え、強大な権力を行使し、その権力を証しする強力な青銅祭祀を完備した都市が出現します。

こうした核心的な都市のリーダーが、いわゆる「王」であった…

多数の従属都市に対して強大な権力を行使しうる核心都市は、まさしく「領土国家」と呼ばれるにふさわしいものでありましたでしょう。…そして更に…長い長い戦争を通じて…最後に生き残った1つの領土国家が大領土を得、ここに前シナ王権の誕生を、そして中原を制覇した青銅文明、〈前シナ文明〉の台頭を見ることになったのです…と、想像します。

・・・続く・・・^^

青銅華炎の章・上古5

中原の青銅諸王国(1)…青銅到来の前

いわゆる「中華文明」の栄えた華夏の地における青銅器時代は、ほぼ都市国家の成立~発展の時代と並行していると言える事が、ひとつの特色だと申せましょうか。

その青銅が到来する前の時代となると、未だ歴史記録を編纂する習慣が根付いていない時代です。想像ですが、当時は、氏族社会の全盛期と言えるかも知れません。宗家を中心にして多数の分家が取り巻く形を取るという、各氏族の集落が点々と営まれていた時代。「城壁」の有無は、地域によって様々だったのでは無いか…と思います。

(個人的想像ですが、当時は「国」というのが曖昧?なので、「城壁」と言う概念は、まだ薄かったかも知れない…)

甲骨文字のスケッチからは、おそらく玉器を軸としていたであろう〈上古諸州〉の農耕文化には、2種類の系統があっただろうという事が読み取れます。ひとつは、乾燥した大地の中、オアシスに寄り集まり、雨季に頼る農耕を営むスタイル。もうひとつは、東方の氾濫原で洪水を防ぎつつ、輪中を造成して農耕を営むスタイル…

後世、「邑」という漢字で表現される集落…

大地の中の孤島のように、思いも拠らぬ旱魃、または洪水におびえる数百~数千という小集落の群れ。〈上古諸州〉の歴史は、こうした条件の下で、緩やかに、かつ大きな地域差を含みつつ、展開していた…のでは無いでしょうか。

真に恐れ、礼を尽くすべきは、我ら人の外に超在する永遠の天。…『礼記』に記された伝承、「夫れ礼は必ず天に本づく」…というくだりから想像できる心象風景です。

初期の「邑」は、自治。氏族社会における自治の伝統。

「大人」として邑のリーダーを推挙し、それ以外の人を「小人」として区別…、もちろん氏族社会である以上、「大人」として選ばれるのは、長老的な集団または人物…実績を認められた宗族である事が多かった筈です。

或いは、迫り来る災厄を敏感に察知する人物、いわば超能力を持っていると見なされた人物を選ぶ、というケースもあったかも知れません。しかし多くは、長老の補佐的な立場だったのではないでしょうか。(殷の時代は、占い師が王の補佐の地位にあり、「貞人」と称されていたという記録があります。)

しかし、洪水や旱魃といった深刻な天災への対応は、単一の邑だけで出来るものではなく、数多の邑を取り仕切る「大人」たちがさらに寄り合いを持って「大人」を選ぶという流れもあった筈です。次第にそうした中から、「大人」たちの上に立つ「大人」も生じてくる…

「大人」の中の「大人」…、それが、「君」。

「君」という漢字の語源には、杖が密接な関わりを有しているらしいという事が、白川静氏の研究によって指摘されています。「尹(いん)」は杖をもつ形。神に仕える聖職者としての「尹」は神杖を帯び、神の依代となるべき存在だと説明されています。

この「尹」に、祝詞(のりと)や託宣を示す「口」を添えた形が「君」。「王」と「君」と、どちらが古いかは分かりません。分かりませんが、シャーマンという存在の古さからみて、「君」の方が古いのかな、と思いました。

そのかみの文字とは、神と人の物語を物語る、素朴な「器」でありました…

当時の社会は、石器・土器(彩陶・黒陶・白陶・褐色陶)文化です。アワ・キビ農耕が主流でした。玉器祭政…玉(ギョク)の文明。イネ農耕文化の絶頂期にあった長江に比べると、中原は北部の辺境でありました。

西域・華北に青銅が到来したのは、その頃です。コムギ農耕もほぼ同じ頃に持ち込まれたのではないか…という、現代考古学の推測があります。西アジアに由来する牧畜農耕の流れが前後して到達した、と言えるかも知れません。青銅とコムギ農耕とセットだったのかどうかは分かりませんが、そこに青銅文化の洗礼を受けた遊牧系民族の到来を見ることは、可能だと思われます…

前2000年頃、チベット高原の大融雪。想像を絶する大洪水。黄河へ、長江へ、四川・雲南地方へ、大量の水が押し寄せ…長江文明(良渚文化)壊滅。見渡す限りの絶望…泥の海。大勢の死者…飢餓、疫病。数々の洪水神話の草創期…苗族(南系)衰退。龍山文化は高台に逃げる。内陸に逃げる。中原の神が目覚める…中原の歴史。

…中原にひしめく流民の群れ。洪水のたびに、あふれる流民。西域から押し寄せる異族。暗黒時代…歴史上のミッシングリンク。中原の流血…龍血。灼熱の炎、ロードスの呪い。残された無傷の、安全な土地の奪い合い。戦闘的な文化に入れ替わっていく。洪水以後の中原に、都市。「國」の形成…抗争。青銅と文字はきつく絡み合い、呪術の道具として立ち上がり、変貌を遂げてゆく…

…よく分からないけれども、…ともあれ…、「君」という最高の霊的権威と、最新テクノロジーの結晶である青銅器が、原始の文字を軸として、上代神話の中で急速に結びついていった事は容易に考えられます。

・・・???ちょっと混乱しています。整理予定です。続く・・・orz