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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

ユーラシア史考察のために

この記事は、「ユーラシア」というお化けを把握するために、どういう前提を取ったらいいか…と悩みつつ、幾つかの本を読んで、「だいたいこんな感じかな?」と感じた文章を、そのまま抜粋しています^^;

「シナ」という歴史風土を考察するときも、やっぱり「ユーラシア」という歴史風土のお化けが背後に控えているのは確かで、その事実は無視できない…と、感じています。

うむ、実際に考察を始めるとき、常に意識の隅っこにおいておけるか、ちょっと自信がぐらぐらです…ですが、とりあえず「取っ掛かり」という事で…^^

【言葉か血統か・・・「民族」という用語の複雑怪奇】

◆『モンゴルの歴史』(刀水書房2002)宮脇淳子・著◆

モンゴル高原ではじめて遊牧騎馬民の政治連合体、つまり遊牧帝国をつくった匈奴は、モンゴル系だったか、トルコ系だったか、という議論が、かつてわが国の東洋史学界で話題になった。

いまでも一般書では、匈奴にはじまって、鮮卑、柔然、鉄勒、契丹など、モンゴル高原で興亡を繰り返した遊牧騎馬民について、モンゴル系かトルコ系か、とりあえず決めて叙述する。

しかし、この命題には、重大な欠陥がいくつも存在する。

まず第1に、その系統が、人種のことを指しているのか、言語のことを指しているのか、はっきりしないことである。

第2に、モンゴルもトルコも、匈奴よりも後世に誕生した遊牧騎馬民の名称である。かれらより古い時代の遊牧民が、どちらに属していたか、どうして決められるだろう。

どちらかに決めようとしている人たちにとって、分類の基準は、人種の場合だと、形質学的特徴が、現在のモンゴル民族とトルコ民族のどちらにより近いか、ということになる。

ところが、人種の区分でいえば、現在トルコ系に分類される人びとは、・・(中略)・・大なり小なり、モンゴロイドとコーカソイドの混血である。古い時代に中央ユーラシアにいたコー力ソイドが西方と南方に移住し、そのあとでモンゴロイドの遊牧騎馬民が広がったと単純に考えると、西にいくほどコー力ソイドの血統が強く残っていることになる。

一方、モンゴロイドという名称のもとになったモンゴル民族も、現代に至るまで、中央ユーラシアのさまざまな人種と混血してきたのだ。古代の遊牧民を、モンゴル系かトルコ系かに分類するなどということは不可能だ。

言語の系統の場合でも、分類の基準は、現代モンゴル語と現代トルコ語のどちらにより近いか、ということにすぎないのだが、中央ユーラシアに住む人びとの言語をモンゴル系とトルコ系に分類したのは19世紀のヨーロッパの比較言語学者たちで、その研究の動機は、インド・ヨーロッパ語族に属する言語と区別するためだった。

わずかな単語が漢字に音訳されて残っているだけの匈奴のことばから、モンゴル系かトルコ系かを判断することはできない。

13世紀にモンゴル語が誕生した当時、今のようなトルコ語が存在したわけではない。長い歴史的経緯を経て、2つの系統に分かれたのだ。また、言語は生まれた後で習得するものだから、もともと人種とは関係がない。

そういうわけであるから、モンゴル高原で最初の遊牧帝国をつくった匈奴は、文化的には間違いなく、後のモンゴル帝国の祖と言えるが、血統がそのまま後世に伝わったとは考えにくい。

・・(中略)・・匈奴は、南方へ、あるいは西方へと何度も移住をしているし、そもそも遊牧帝国の支配集団と被支配集団が同じ人種だったとは限らないのである。

◆『中央アジアの歴史・社会・文化』(放送大学教育振興会2004)間野英二・著◆

「中央アジアはさまざまな民族のるつぼである」と、よく言われる。・・(中略)・・民族という言葉にはいろいろなニュアンスがある。

民族という言葉ですぐ思い出されるのは、19世紀のヨーロッパにおける民族主義(ナショナリズム)や民族自決などという場合の民族である。この場合、この民族という言葉には国家や民族への帰属意識アイデンティティーの問題が関係してくる。

しかし、前近代の中央アジアにはこのような19世紀のヨーロッパ的な民族は存在しなかった。もっとも、20世紀になると、中央アジアでもこのような意味での「民族」が「創出」されたと考えられている。

例えば、「ウズベク共和国のウズべク民族は、1924年、ソ連によって創出され、その結果この国ではウズべクの民族文化やウズベクの民族主義など、近代のヨーロッパと共通する問題が論議された」などという場合の民族は、明らかに19世紀のヨーロッパ的な民族である。

しかし、この文章の「創出」という言葉にも込められているように、民族意識を持ったウズべク民族が、ソ連によるその「創出」以前に実際にどれほど存在したかなど、なお解明すべき問題はあまりにも多いのである。・・・

・・・本書で一般的に使われる民族という言葉は、19世紀のヨーロッパ的な民族の意味ではなく、別の意味で使われる。

・・(中略)・・例えば、中央アジア史を語る際に、「中央アジアのテュルク(トルコ)民族」とか「テュルク(トルコ)民族史」という表現をよく使う。

しかしこの場合、この「テュルク民族」に、同じ民族としての共通の民族意識、帰属意識があったという証拠は全くない。また、これらの「テュルク民族」が「中央アジア」という地理的概念を知っていて、彼らがその中央アジアへの帰属意識を持っていたという証拠もない。

・・・彼らの間にあった帰属意識は、同じオアシスの出身者としての同郷意識とか、同じ部族の出身者としての部族意識、チャガタイ語など同じ言語への帰属意識、さらに同じイスラーム教徒としてのイスラーム世界への帰属意識などに過ぎなかった。

それでも、私たちは「中央アジアのテュルク民族」という言葉を使用する。

しかしこの言葉は、テュルク民族の民族としての意識(民族意識)などとは関係なく、中央アジアの外部にいる私たちが、中央アジアで「テュルク語系の言語を使用し、その言語によって文化活動を行ってきた人々」を指して使用する便宜的な言葉に過ぎない。

つまり民族という言葉を、言語を中心とする、広い意味での文化を共有する人々を指して用いるのである。

もっとも、ここでもうーつ確認しておきたいことがある。

それは中央アジアがバイリンガルの世界であるということである。

例えば、中央アジアにはテュルク語とペルシア語、テュルク語と中国語、・・・系統の異なる2系統の言語を日常的に並行的に使用している人々が多い。

そのような人々を、使用する言語を基準にして、いったい何民族と呼ぶべきであろうか。あるいは、このような人々の「母国語」とはいったいどの言葉なのであろうか。そのように考えると、中央アジア史を語る際の「民族」の問題の難しさが改めて浮かび上がってくるのである。

ただし、本書では、このような問題があることは承知の上で、民族という言葉を、単純に、同一の共通する言語を使用する人々、そしてその言語を使用して形成された文化を共有する人々を指すことにしたい。

テュルク民族といえばテュルク語系の諸言語を使用し、それらの言語を用いて文化活動を行う人々を、そしてカザフ民族といえばカザフ語というテュルク語の一方言を話し、この方言を使って文化活動を行う人々を指す。

そして、この場合、カザフ民族という民族の形成期を、カザフ語という、他のテュルク諸語とは区別される一方言の成立期に求めるのである。

なお、民族という言葉とともに人種という言葉がある。この言葉は、身長や頭の形、皮膚の色や毛髪、それに目の色など生物学的な特徴によって人類を分類する場合に用いられる。

中央アジアは、はじめアーリア民族、すなわちアーリア語(インド・ヨーロッパ語)を使用する、おそらくは白色人種(コーカソイド)の世界であったが、そこに、9世紀~10世紀ごろからアルタイ系言語(テュルク語やモンゴル語、満州語)を使う黄色人種(モンゴロイド)が進出した。

そして長年にわたる両者の混血の結果、今日の中央アジアはさまざまな人種的特徴を持つ人々が住む世界となっている。

つまり、中央アジアは「民族のるつぼ」であるばかりでなく、また「人種のるつぼ」ともいえるのである。・・・

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青銅華炎の章・上古8

詩的考察:【21世紀中国の考古学事情…夏殷周三代断代工程】

何故、黄河流域の一帯に、いち早く「國」が成立したのでしょうか。

これは現代考古学の謎の一つであると言われています。その回答を得る為には、「國」が生まれる以前の農耕社会について、その発生から展開、あるいは変遷について眺めてゆく事が必要であり、そして黄河流域の諸族が到達した「國」のありようを、学問的に考えてゆく事が必要であると申せましょう。

一方で、中国大陸は極めて広大であり、多様な地理環境が存在する事が知られています。従来は、黄河流域を中心に一元的な文化・文明の発生を論ずるというやり方が一般的なものでありました。

しかし、1980年代半ばからの中国考古学の進展は著しいものであり、特にここ20年の間には、中国の多様な地理環境に基づいて、多元的社会の展開を重視する…というやり方への転換が見られるようになった、という事です。

長江文明への注目は、このような中国考古学の進展によっています。今日の中国の地域社会や地域風土を考える際に、決して無視できないのが、先史時代から続く周辺情勢の動向である事は、明らかであります。

目まぐるしく王朝交代を繰り返し、政略暗闘の歴史を刻み続けてきた中原史にあって、周辺地域の情勢の影響もまた、厳然として存在してきました。周辺地域の情勢変化は、歴史記述にはなかなか表現されてこないものではありますが、現代考古学、そして現代社会は、こうした要素を無視して論ずる事は、もはや不可能な筈です。

さて、現代の中国考古学は、今や情報過多の世界に足を踏み入れつつあります。特にここ10年の変化は、現代中国における目覚ましい経済成長に呼応しているものである…と、言われています。

21世紀の中国考古学の傾向は、現代中国の発展と、無縁ではありません。

現代中国では、国家的プロジェクトとして、『夏殷周三代断代工程』が動いているそうです。夏・殷・周を科学的に研究し、特に夏王朝の存在を科学的に証明し、殷・周の歴史年代を証明する、という事に重点が置かれているものだそうです。この工程は「中国」なるものの国家威信をかけたものであり、かつ「中国」のアイデンティティを確立する試みでもある…のでしょうか?

現在、先史時代の社会発展については、地域の独自性を追跡するものになっています。一方では、歴史時代に入ると、夏・殷・周といった古代国家が、黄河中流域を中心として一元的な歴史的展開を果たした…という印象のある歴史観、いわば「中国史観」が強調され始めます。

そこには、当然、大きな問題がある事が指摘されます。

殷・周社会の発展とは、まさに中原を中心とする「中華」概念が成立してゆく過程でありますが、問題とは、果たしてこうした単純な中国史観で、多元的発展(先史時代)から一元的発展(歴史時代)への転回を論ずる事を、真に学問的と言えるかどうか?であります。

他の問題もあります。「中国史観」なるものは、「中国」という名の呪術的イデオロギーを、暗に含んでいるものでは無いと言えるのでしょうか?そして、それは、「歴史学」というよりは、「歴史」を絶対価値とする宗教カルト…、いわば〝中国史的一神教〟に変化してゆく危うさを孕んでいないと言えるのでしょうか?

多元的歴史から一元的歴史へ向かう、という転回。混沌の中の華夏大陸…

数多の諸族がその生を営々と刻み続けてきた華夏の大地の歴史とは、果たして、「中国」という概念で統べられる存在として、「中国史観」の論理の元に描いてゆけるものなのでしょうか。

夏殷周三代断代工程の最終的な形を、息を詰めて見守るものであります。

青銅華炎の章・上古7

【夏王朝の社会と古代シナ王権についてのささやかな研究・考察】

伝説の夏王朝の政治を司ったのは、六卿(りくけい)という組織です。以下のように伝承されており、この仕組みは殷・周も継承していたようです。

  • 冢宰(ちょうさい)は、諸政全般を預かる。いわゆる宰相
  • 司徒(しと)は、人民教化(教育)を担当する
  • 宗伯(そうはく)は、祭祀を行なう
  • 司馬(しば)は、軍隊を統率する
  • 司寇(しこう)は、司法にのっとり、警察を指揮する
  • 司空(しくう)は、国土と人民の掌握を担当する

夏の時代には、すでに工業を専門とする職人集の発生があり、青銅兵器の生産も行なわれていたと言われています。特に武器の生産に携わったのは、地方平定を任された将軍(方伯)だったそうです。そのうち、もっとも勢力を誇った方伯が、後の殷の王となる湯王だったという話があります。

当時の武器は戈、矛、矢じり、大型刃(生贄や捕虜の首を切断するため)などだったと言われています^^;

祭祀に使われるような大型タイプ、あるいは金文を鋳込むタイプの青銅器の製作技術は、殷王家ないしは周王家直属の工房の独占であり、周辺諸侯にはそうした高度な青銅器が製造できなかったと言われています。(高度技術を駆使した青銅器が周辺諸侯に下賜され、周辺諸侯はそれをこっそり真似したようである、という事も、当時の出土物の分析から推測されています)

前1100年頃、従来の青銅に鉛を含ませる方法が始まりました。鉛を含ませると、冷えて固まるまでの時間が延びるため、型の隅々まで青銅を浸透させる事が出来るようになります。霊的威圧のための細かな文様や金文を鋳込む――という需要があって、そのための技術が伸びていった、と考えられます。

青銅器が霊的威圧のための呪術的器具であった事も考慮すると、青銅器の霊威によって正統な王を証しする――という伝統が生まれていても、さほど不思議ではありません。それが、おそらくは、「古代シナ王権」の種子であるのでしょう(「鼎の軽重を問う」などの言い回し)。

夏の時代。〈初代五諸族〉の闘争心は、極めて原始的かつ獰猛なものだったのでは無いでしょうか。

曖昧な区分ではありますが、神話伝説が暗示する〈初代五諸族〉の系統は各々、次のようなものであったようです(もちろん、彼ら〈初代五諸族〉は中原に集結した部族なのであり、他の地域には、他の部族が多く栄えていた筈です。巴蜀地域には巴蜀の民が、沿海州には呉越の民が定着していました)。

  • 「夏」=狄系(コムギ農耕を受け継ぐ。王国を作ったが、殷に滅ぼされた。大柄な体格)
  • 「殷」=夷系(沿海州の夷系。混血。酒を伴う祭祀が多く酒池肉林と批判される。氏姓制度なし)
  • 「周」=戎系(武勇に優れた辺境の牧畜系民族。氏姓制度あり。後に羌と同盟して殷を滅ぼす)
  • 「羌」=羌系(チベット系。辮髪の習俗あり。上古、夏王朝と争うが、敗退。岳神を擁する)
  • 「南」=南系(苗族を含む。最古のイネ農耕を受け継ぐ。祭祀に優れ、殷にも恐れられた)

服属を誓わせるために血の盟約の儀礼が発達したという事象、主従の連結を確実にするために、強力な霊的呪力を発揮する青銅祭祀が発達したという事象…そうした諸々の記録が残っている事に、注意しておきたいと思います。

〈前シナ文明〉時代の「王」の権力は、それ程に曖昧模糊としたレベルであったようです。

(編集から洩れているメモ知識)

1.巴蜀地域の民は、崑崙山脈~青海湖ルートをわたってきた遊牧系民族らしいという話があります。

西域から巴蜀に至るには2つのルートがあり、「西アジア~新彊ウイグル~オルドス地方(西戎の地)を貫いて南下するルート」と、「チベット高原を横断し通天河を経て雲南に至り、そこから巴蜀に入るというルート」とが考えられるそうです。前者が「河西回廊」と呼ばれるのに対し、後者のルートは「遊牧回廊」と言われており、場所柄、やはりチベット系民族が多く見られるそうです。地理的には、インド・アッサム地方とつながっています。

前者のルート=地図を何度も見直してみたのですが、多分、ここが「河西」だろう…というような認識レベルです・汗。アムゼルさまからのコメントで知って、探して、見当をつけてみた…というプロセスなので、どうしても知識不足は否めません。現場の光景は想像するしかありませんし、大地そのものが超・広大なので、圧倒されます…;^^ゞ

四川・雲南は森林地帯だったりするので、住みついた人々も照葉樹林系なのかと思っていたので、意外でした。最初に養蚕を確立したのもここに定着した人々で、「蜀」という漢字の由来なのだそうです^^

なお、華北の絹は細い繊維(三眠蚕)を使った絹であり、華中・華南(淮河以南)の絹は太い繊維(四眠蚕)を使った絹だそうです。そして、日本の古代遺跡(吉野ヶ里遺跡)から出土した絹は、太い繊維(南蚕)のものだという事です…

2.巴蜀王国(仮称)は多くの謎に満ちています。

「遊牧回廊」の東端に、かの三星堆文化が栄えたと言われています。青銅器出土は前1600年以降だという事ですが、どういう訳なのか、技術は殷より上で、古代シナ世界ではダントツらしいです。古代王国の時代に内部抗争があって滅び(前850年頃)、その後、巴と蜀の、2つの民が興ったと言われています。

本当かな?というようなお話ですが、古代巴蜀文字(未解読)は、何と、インダス文字に似ているのだそうです。インダス似の印章も出土しているそうです…^^;

3.南部・長江エリアから出土する青銅器は、殷・周に比べて技術が高いのが多い…という話です。しかもその殆どは呪禁用だったようで、明らかに恣意的(=魔術的)な方法で埋められていたそうです。…壮絶な呪術合戦の存在を想像するものであります…^^;