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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代科学漂流の章・中世6

※今回は体調の都合で、少し短めのエントリです。文化・思想の翻訳の先駆という意味で、ゴート語の翻訳に注目。こういう、「どうやって内容を表現しようか&内容を伝承しようか」系統の苦闘の歴史は、調べていて色々と感心させられる事が多く、実に面白いものでした^^

【ゴート語の聖書・前篇】

頃は4世紀、ローマ帝国とゴート族(当時は西ゴート王国)が、ドナウ川を挟んで対立していました。そして4世紀後半には、民族大移動の波に揉まれる事になります。

ゴート族は、ゲルマン諸族でも有力な一派でした。しかし21世紀現在は、ゴート族は既に死に絶えており、ゴート語も死語となっています。まとまった形での唯一のゴート文献がゴート語によって書かれた聖書であり、スウェーデン・ウプサラ大学図書館が所蔵しているゴート語聖書は、この意味で極めて重要な資料であると言う事です。

ラテン語でコーデックス・アルゲンテウス…銀文字聖書と呼ばれているそうです。

「銀文字聖書」は、王を証しする朱染めの羊皮紙に、銀泥のゴート文字で記された聖書だそうです。6世紀初頭、イタリアのラヴェンナで作られたのだそうで、純銀製の表紙で装丁された、絢爛豪華な書物だという事です。この聖書の製作を命じたのは、東ゴート王国のテオドリクス大王。

(テオドリクス大王は、当時、西ローマ帝国を制圧し、イタリア王を名乗っていたそうです。この辺でファンタジーと絡みますが、アーサー王とテオドリクス大王は、同時代の人物です。この時代のブリタニアも、混乱のさなかにありました。その過程で、ケルト民族の他界物語・奇跡の器の物語と、キリスト教のメシア伝説・グノーシス神秘思想が、絶妙な化学反応を起こしたようです。当時のキリスト教はミトラ教と分離しておらず、マニ教やグノーシスとの決別さえも進んでいない段階でした。『告白』や『神の国』を著した元マニ教の教父アウグスティヌスが活躍した時代です。その辺りのムニャムニャ微妙な混合が、後の中世の聖杯伝説に直結してゆくわけです)

この「銀文字聖書(旧約・新約)」の元となったゴート文字の聖書は、4世紀後半頃、ウルフィラという1人のゴート司教によって訳出されたものでした。当時、「文字」というものは、ゴート族以外のゲルマン諸族は持っていなかったのです。

中世、ゲルマン諸王国の時代…6世紀以降のゲルマン諸族は、数百年の時をかけてローマ・カトリックのキリスト教を受容し、ヨーロッパ世界を形成していくのでありますが、信仰に関する基本的な言葉の多くが、ゴート語訳聖書から決定的な影響を受けていたという事が明らかになりつつあるそうです。

さて実際のゴート文字とは如何なるものかというと、ルーン文字の形象を基礎に、ローマ文字やギリシャ文字を端々に導入したものらしい、という事です。

ルーン文字は、元々はイタリア北部・エトルリア文字が起源であるという説が有力であるようです。エトルリア人は、アルプスを越えてやってきたキンブリー族などのゲルマン諸族に24の呪文・道標記号を伝授した。これらをゲルマン諸族が使ったのがルーン文字である、という事です。北欧にも伝わり、近世まで道標として利用されていたそうです。

※豆知識:古代ルーン文字の「ルーン rune」は、「秘密」を意味する言葉から派生した語だという事です。近代ドイツ語の「ささやき raunen」という言葉に残っているそうです…^^

当時の書物は全て大文字で書かれ、単語ごとの分かち書き等はありませんでした。初期のギリシャ語聖書も、その後のラテン語訳聖書も、大文字のみで書かれたという事です。ヘブル文字は、子音表記のみです。

(極めて古いギリシャ語では、文章は折り返しスタイルだったそうです。左から右に書いていって、余白が詰まれば、今度はそこを起点にして右から左に書く。折り返しの際に、文字も鏡像反転した例があるそうです。アジア系文字でも同様なケースがあり、下から上に向かって読むアクロバットな石碑も知られています=どんな状況で読み書き了解したのか、とても不思議でしょうがない…^^;)

小文字が登場するようになるのは9世紀、カール大帝の時代。更に章・節などが付記されるようになったのは、16世紀以降、ルターやカルヴァンの宗教改革の時代になってからだそうです。

このゴート語聖書を著したウルフィラという人物については分かっていない事が多いという事ですが、ゴート族の父とギリシャ人の母を持っていたという事で、ゴート語とギリシャ語に通じたバイリンガルであった事は確かなようです…


(おまけの研究)原初のキリスト教会・・・エクレシアの語源

>>出典:『銀文字聖書の謎』(小塩節・著)

・・・初期のキリスト教は、離散ユダヤ人や各地の貧しい下層民や奴隷達の間に広まっていったが、それが次第に社会の上層へボトム・アップ的に伝えられていった。ユダヤ教の礼拝堂を借用もしたが、ユダヤ独立戦争(1,2世紀)に参加しない平和主義のキリスト者たちはユダヤ教本流から排斥されるようになり、一般民家やローマなどでは、激しい迫害を避けるべく地下墓所(カタコンベ)に集って祈っていた。

こうして「集った者」というギリシア語のエクレシア ekklēsia が、「キリスト教の教会」の意味で用いられるようになる。教会とは、高い塔がそびえる建物や教団組織のことではなく、イエスの名によって人びとが集う集会という意味なのである。ウルフィラも「教会」の訳語には、ほぼギリシア語の音のままエクレシオと記している。これが現代のフランス語ではエグリーズ(教会)となっている。やがて「集り」は組織や礼拝堂建築の意味にもなった。・・・

<<・・・という事だそうです。語源を知ってみると、なかなか深いです…^^

言語に性格があるとすると、ヘブライ語はマッタリ・タイプで、ギリシャ語はキッチリ・タイプなんだそうです。実際の言語を知らないので、本当にそうなのか確信が持てないのですが、いずれにせよ「長期定住を経たセム系言語」、「議論・契約に強いインド=ヨーロッパ系言語」の、それぞれの特徴が強く出ているのかも知れない、と思わせる言及でした。サンスクリットも文法発音ルールがえらく複雑だそうで、妙に厳密なイメージのある言語でありますね…^^;

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古代科学漂流の章・中世5

【原始キリスト教の分裂・・・ネストリオス派の破門】

東ローマ文化は、基本的には、ギリシャ古典の流れを汲んでいました。しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認に伴い、ローマの学問・文化は、次第にキリスト教会のコントロール下に置かれるようになってゆきます。

380年、バチカンに初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式=プレ-ロマネスク様式)が建立され、392年、キリスト教はローマ帝国の国教になります。

ローマ帝国は、396年に東西分割されました。東の領土に含まれるのは、ギリシャ、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト。西の領土にはローマ、ガリア、ブリタニア、ヒスパニア。しかし西側は、ゲルマン勢力が急速な拡大と定着を続けており、もはや西ローマ帝国としての体を成していませんでした。

このような情勢の下、古典文明の主力がビザンティン(コンスタンティノープル)に移った事は重要です。初期の東ローマ帝国においては、アンティオキア、ベイルート、ガザ、エデッサといった各都市が、それぞれ学芸文化の中心地を担っていました(後に十字軍の侵略・略奪を受けて、各種文献ともども、灰燼に帰す事になる)。

アウグスティヌス(354-430)による『神の国』(413-417著)などの教父神学が興隆した時代であり、アリストテレスの論理学とプラトンのイデア論は、キリスト教の教義の解釈・拡張・擁護のために援用されるようになりましたが、この作業に伴ってグノーシス派との教義論争が深まり、教会分裂が激しくなりました。

※実を言えば、この教会分裂が、ローマ帝国の弱体化及び東西分割を招いたという説もあります。聖徳太子が「和をもって尊しと成す」で始まる『憲法十七条』を制定したのが604年なのですが、このタイミングを見ると、聖徳太子は、キリスト教会分裂とローマ帝国分裂について、何らかの事情を推察していた可能性が考えられます^^;

ここで注目する教会分裂は、431年に生じた教会分裂です。

シリアのアンティオキアを本拠地としていたネストリオス派は、431年のエフェソス公会議で異端宣告され、破門されました。ちなみにネストリオスは、コンスタンティノープル総主教だった人物で、シリア人キリスト教徒からの支持が高く、必然としてシリア人は、この公会議の決定を拒絶したのであります。彼らは、教義として「両性論(キリストは、神性と人性を同時に持つという論)」を提唱していました。

見かけ上神学的問題に発するこのキリスト教の分裂の背景には、文化の衝突が潜んでいた、という分析もなされています。つまり、シリア語、コプト語、アルメニア語などの勃興に支えられた地域文化が、支配的・侵略的文化たるグローバル化ギリシャ文化に対して、異議申し立てを始めたのだという事です。

【原始キリスト教の四分五裂・・・中世ヨーロッパ異端の種子】

帝政ローマに栄えた原始キリスト教会の五本山は以下のとおり・・・ローマ教会/コンスタンティノープル教会/アンティオキア教会/エルサレム教会/アレクサンドリア教会。

元々、ネストリオス派はアンティオキア教会閥に属した一派です。このアンティオキア派閥は、マリアを神の母とする教義に異を唱えていたという事です。この派閥に対抗していたのがアレクサンドリア教会閥で、代表者はキリルという人でした。彼がネストリオス派の追放を企てたという事です。

アレクサンドリア教会閥が推し進めていたマリア信仰は、別の説によれば、エジプト秘儀の一種であったイシス崇拝が、下敷きになっているという事です。つまりイシス崇拝=マリア崇拝=エジプト型の女神信仰です。キリル率いるアレクサンドリア教会閥が、イシス=マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであったと申せましょう。

さらにアレクサンドリア教会閥は、ネストリオス派の「両性論(キリストに神性と人性を認める)」に比べて、キリストの人性を大きく削り落とした教義を持っていました。これを極端化すると、「単性論(非カルケドン派=キリストに神性のみを認める)」になります。

「単性論」は、451年のカルケドン公会議で異端宣告され、排斥されました。そのため、単性論派を非カルケドン派とも言います。単性論派もまた、東方に活路を見出し、高度学術書のシリア語訳を多く生み出し、シリア・ヘレニズムの立役者として活躍しました。現在も、コプト正教会やシリア正教会は単性論を継承しています。

なお、2世紀から4世紀は、キリスト教外典が盛んに記された時代でした。今日数えられている合計74のキリスト教外典のうち、42のグノーシス主義外典があると言われています。「ナグ・ハマディ文書」がコプト語で記されていたという事実は、エジプトが原始キリスト教の中心地であった事を示唆しています。カルケドン公会議で異端判定を受けたコプト教会は、グノーシス主義との関わりが深い教会でした。

また、エジプトは錬金術・黒魔術・ヘルメス思想などのオカルト科学の発祥地でもあります。当時、コプト語は、ヘブライ語やラテン語とならんで、黒魔術をたしなむ者の公用語のひとつだったそうです。

エジプトで発達したグノーシス主義・神秘主義は、ヨーロッパにおける二元論異端(この世を神と悪魔の対立の場と考える)に引き継がれ、パウロ派、ボゴミール派、カタリ派などの中世ヨーロッパの異端として、後世に大いなる影響を及ぼす事になります…

《続く》


仮説に過ぎませんが、このキリスト教会の正統・異端論争を通じて、ローマ・カトリックがカルト化・変質したのではないかという可能性があります。著しい「正統権威」の集中は、必然としてその教団を特権集団となし、カルト化せずにはおきません。更に、ローマ・カトリックは以後、ゲルマン人と交渉を持ち、脱税特権を保ちつつ、西欧の政治に積極的に干渉するようになります(カール大帝の戴冠を通じて、コンスタンティノープル圏から独立)。

さらに、ゲルマン人の統一帝国形成と相続問題による内紛、ヴァイキングが海岸を荒らしまわり、かつスラブやルス(古ロシア)、ハザール他の中央アジア勢力、アラブ=イスラーム勢力の間に緊張が走っていた8世紀から9世紀という時代は、聖像(イコン)破壊運動が生じ、布教方法の問題で東西ローマ教会が揺れ動いた時代でもありました。その後のコンスタンティノープル側つまり正教会は、ブルガリアやスラブ、新興国キエフ公国との外交に悩みつつ、ローマ・カトリックとは異なる布教活動を行なう事になったのであります。

カタリ派と十字軍

《カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書》

12-13世紀のプロヴァンスなど南仏地方では、地中海を通じた商業が盛んで、ユダヤ社会も繁栄していた。当時のナルボンヌ諸都市の記録に、ユダヤ人裁判官や商業者の名が見える。

また、中世カバラー思想(10のセフィラを持つセフィロトなどの神秘思想)もここで発生した。古代ユダヤ神秘思想とは系列が異なるものであったらしいが、『ゾハル(光輝の書)』、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』、『バヒール(光輝の書)』などの主要なカバラ文献が、ユダヤ神秘思想史の表舞台に出てきた事は、注目される。

ユダヤ神秘思想の中心地は、スペイン、アキテーヌ、プロヴァンス、ラングドック、レヴァント、ナルボンヌなどの地中海沿岸であったらしい。ここからは、当時の地中海の南で急激に広がったイスラーム勢力との、広汎な交流の様子が透けて見えるものである。

(歴史説話の分野になるが、「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」を想起されたい。特にフランク軍がイスラームに反撃した際は、ラングドック地方は砂漠と化した、というくらいに大きな被害を受けたそうである。初期フランク人は野蛮人であったらしい。だからこそ、後に広大なフランク統一帝国を作りえたのではあるが…)

同じ頃、異端カタリ派も南仏、特にラングドック地方で繁栄しており、ユダヤ社会とは友好関係にあったらしい。小アジアやコンスタンティノープルを拠点とする東方教会とも、直接の交流があった。カタリ派の流れには、ユダヤ神秘思想やスーフィズム、オリエント神秘思想の要素が、確実に含まれてあったわけである。正確にマニ教グノーシス系統であったかどうかは、未だに議論のテーマであるらしいが、いずれにせよオリエント神秘思想を受け継ぐ「グノーシス的異端」だったのだと言えよう。

ここで、アルビジョワ十字軍1209-1229のきっかけについて記しておく。

教皇インノケンティウス3世が派遣した使節ピエールが、カタリ派の盛んなトゥルーズ伯レイモン6世の土地でカタリ派を根絶しようとしたが、結局、トゥルーズ伯の手の者に、背後から槍で突き殺された…という事件による。説話によれば、この顛末を聞いた教皇は、2日間、声が出ないほど怒り狂った後、フランス王に破門者トゥルーズ伯の討伐を訴えた。これがアルビジョワ十字軍の始まりである。

(ちなみに、トゥルーズ伯レイモン6世は、異端カタリ派支援貴族として、破門を受けた人物である。この破門宣告という代物は、最近の北朝鮮やイランなどの、テロ支援国家の指定に似てなくも無い。…いちじるしいデジャビュを感じるのは多分、気のせいでは無い筈だ…)

アルビジョワ十字軍はユダヤ排除も含んでおり、南仏ユダヤ・コミュニティーの弾圧も行なわれたと言われている。実際、十字軍とは、とどのつまり、欧州社会における一大ヒステリーであり、大規模なユダヤ排斥運動の一様式であったらしい、ということが指摘されている。

フランス・カペー朝は、この教皇からの討伐依頼を利用し、莫大な資金と軍隊とを運用して、南仏穀倉地帯を支配していた諸侯を制圧し、フランス統一を図ったのである。ブルゴーニュ、イル=ド=フランス、ノルマンディー地方の騎士たちは、過去の十字軍とは異なり、海を渡る必要も、他国の騎士と競争する必要も無く、南仏の豊かな商業の富が容易に手に入る事を夢想して、アルビジョワ十字軍に参加したのであった。

最も凶暴な十字軍で知られたのは、イル=ド=フランス出身のレステル伯シモン・ド・モンフォール勢力である。十字軍の殆どが帰郷したにも関わらず、シモンは新トゥルーズ伯になる事を望んで略奪と圧制の限りを続け、配下の騎士たちは血の海の中で、カタリ派の財産を奪ったのであった。インノケンティウス3世自身、自らの名において発した十字軍の残虐行為の有様に、不安になったそうである(ちなみにその後、フランス情勢は動乱を続け、圧制者シモンは、トゥルーズ伯の反撃の際に投石で殺された)。

同じ頃に、カトリック=スコラ学の尖兵としてドミニコ修道会が結成され、アルビジョワ十字軍に随行し、カタリ派を異端審問にかけ、殺害した事が知られている。皮肉なことに、「転向した元カタリ派」による異端審問が、最も苛酷なものだったそうである。

(ドミニコは死後わずか13年で聖人に列せられた。この辺りにローマ=カトリックの「清らかではない政治事情」を見てもよいと思われる。当時の聖職者の堕落ぶりは、大きな話題になっていた。その折に現世を悪と見るカタリ派が人気を博したという事実は、ローマ=カトリック側に深刻な危機感と醜い嫉妬心とをかきたてた筈である。ついでながら、ドミニコ会は中世スコラ学の巨人アルベルトゥス・マグヌスと、その弟子トマス・アクィナスを輩出した事で知られている。)

このアルビジョワ十字軍から始まったフランス南北戦争により、豊かな土地であった南仏は荒廃して大勢の死者を出した。南仏で最も有力であったトゥルーズ伯の子孫(圧制者シモンからトゥルーズを奪還した人物の息子)が、抗戦の末にフランス王に降伏し、上着を脱いだシャツ1枚の姿となり、「カタリ派の一掃、及びフランス王室との政略結婚に応じる旨」をノートルダム広場の前で誓った事をもって、南仏は正式にカトリック系フランス領土となることが運命付けられた。

こうした政治情勢の激変と並行して、魔女裁判があったことも、南仏カタリ派の崩壊に拍車をかけた。更に14世紀ペストの大流行があり、わずかな残党も壊滅したのである。カタリ派が完全に断絶し、異端審問所が無くなったのは、1350年頃のことである。

この後、カタリ派と同じくオリエント・グノーシスの影響を受けたユダヤ神秘思想(カバラ中心)が、スペイン=レコンキスタ運動に追われたユダヤ人のイタリア移住後、イタリア・ルネサンスの波に乗って一気にヨーロッパ全体に拡散し、中世崩壊以後の西洋オカルト思想に大きな影響を与えたのは、これまた皮肉な現象である。


FriendFeedコメントより転載

グノーシスに興味をもったのはユングの言及があったからですが、その後、シナの秘密結社と民間宗教を調べていてマニ教とグノーシスが関係あるらしいと知って一気に目が覚める想いをしたことが懐かしいです。アルビジョワ十字軍についてはフランスでは故意に無視しているのでしょう。それまではプロヴァンスは独自の文化をもちイタリアからカタルニアへとつづく文化圏を築いていたのですが北フランスの帝国主義にしてやられたということですね。フランス国内にはそのような例はいくつもあり、シナの拡大と中華思想を考えるうえでも参考になります。 - 丸山光三
《返信》フランス歴史暗黒物語orz…をたっぷりと味わって、固まっておりました。プロヴァンスとかラングドックとか聞くと、オック語,吟遊詩人(トゥルバドゥール),ロマネスク美術など、何となくロマンチックなイメージがありますし(女友達の間ではプロヴァンス=ラベンダー畑なのです)。でも改めて考えてみると、寒冷な北と豊かな南という構図は両方とも似ている訳で、比較してみる事でニュートラルな見方ができるかも知れないですね…^^

(補足)ハプスブルク家の婚姻関係

非常に貴賤結婚を嫌う=血族結婚で血脈を網目のように織り込むことで何らかのオカルトパワーを得ていた可能性あり?
その地位に見合うような努力が必要だが、結局その地位に見合う器や実力が身に付かなかった人物は、地位に伴う義務を捨てて、ステータスのみ利用する発想になる


https://1000ya.isis.ne.jp/1705.html

【宗教会議が正統性を模索する…歴史とヴィジョンは別物では無い、ヨアキムの系統樹の思想、歴史の主語を目指す西欧】

十三世紀になると、一二一五年の第四回ラテラノ公会議を、教皇インノケンティウス三世が教会崩壊の危機を警告する辞をもって開会させた。次々に出てくる異端者をどうするか、その対策が練られていった。

異端とされたのは、ヴァルド派、フランシスコ会士、カタリ派(アルビ派)、ドミニコ会士たちである。けれどもそうした異端派たちは、憤慨したり驚いたりしたというよりも、自分たちが新たな世界史に所属させられるのなら、その意図はどういうものであるべきかを問うようになった。たとえば十世紀はじめにブルガリア王国に発した「神の友」団のボゴミール運動は、そのことをコンスタンチノープルにもちこんだ。

カタリ派は「清いこと」とは何かを追究した。このカタリ派の思念がのちの清教徒(ピューリタン)の起源になっていく。

フランシスコ会は「小さな兄弟たちの集団」(兄弟団)という旗のもと、このあとのヨーロッパのプルードンからシモーヌ・ヴェイユに及ぶ思想を準備した。アッシジのフランチェスコの無所有・清貧の姿勢から生まれた修道会で、ボナヴェントゥラ、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアム、ロバート・グロステスト、ロジャー・ベーコンなど、多くの傑出した才能を生んだ。

【理性による世界史づくり…西ヨーロッパの理性的世界観】

教皇ボニファティウス八世が暴君よろしく一三〇〇年を「聖なる年」であると宣言すると、時代は大きく転換

この聖なる十四世紀に逆対応するかのように、ロジャー・ベーコン、パドヴァのマルシリウス、ダンテ、ライムンドゥス・ルルス、ドゥンス・スコトゥス、オッカムのウィリアム、マイスター・エックハルトが比類ない人知をもって輩出。

ドゥンス・スコトゥスは人間の存在にひそむ「オルド」(秩序)を追究。スコトゥスがルターの先駆者であったばかりでなく、ホッブズ、ロック、ルソー、ハイデガーの先駆者でもあった。

プラトンこのかた神の君臨を戴いてきた初期ヨーロッパ史は、なかなか理性的世界観を現実政治に向けるということができないままにいた。それがおこったのが十四世紀に始まるイタリア・ルネサンスの中でのことだ。

ダンテを嚆矢とするこの「政治的人文主義」の動向は、フィレンツェを中心にしてリエンツォ、サヴォナローラ、マキアヴェリに受け継がれ、そこから人文主義者ペトラルカ、『痴愚神礼讃』のエラスムス、宗教改革のルターやカルヴァン、イエズス会のイグナティウス・デ・ロヨラへと飛んでいく。

ダンテの意味付けは多数の側面を持っている。ブラバンティアのシゲルスの後継者。トマス・アクィナスの弟子。カタリ派的アルビ派の貴族の受容者。ユダヤ的預言者。エトルスクの司祭。

宰相マキアヴェリがフィレンツェの君主に「相手に誑かされないための方策」を提供したくなったのも、これまでの宗教会議の成果とダンテの資質を継承したいという政治的人文主義からだった。

こうしたルネサンスの運動が政治のみならず、芸術にも図法にも魔術にも及んでいたことは言うまでもない。

ルネサンスは、イタリアにおいては古典や原典に回帰復興する方向を持った。ドイツでは、宗教改革(Protestant Reformation)に及んだ。これはヨーロッパ精神史の大事件であり、大きな謎。あれほどの宗教会議を重ねてきながら、なぜキリスト教世界に決定的な亀裂が入り、そこになぜ奔馬のようなプロテスタンティズムが暴れ出てきたのか。