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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

中世史折り返し雑考・前篇

調査の過程で散らばっていた、気になるアレコレをノート。しっかりした文章ではありませんが、ホームページに編集するときはちゃんと整形しておく予定です。

★5世紀~7世紀のビザンティン帝国の憂鬱★

いわゆる地政学的な意味で、当時のビザンティンにとって、きっちりと確保すべき海は黒海(及びボスポラス・ダーダネルス海峡)で、確保すべき拠点はクリミア半島であったようです。クリミアの紛争状態は、昔から断続的に続いていたらしい。

クリミア半島は、大陸諸部族の移動ルートをかすめていたという事もあり、(ビザンティン帝国にとっての)外国の動きをいち早くキャッチできる条件にあったらしいのです。軍事拠点確保のためにも、情報拠点確保のためにも、本当に重要な土地であったという事ですね…

それに加えて、オリエント勢力がササン朝ペルシャからイスラームへ変貌し、イスラーム商人に地中海とシルクロードを握られてしまったため、黒海-カスピ海およびカフカス・ルートの確保がとても重要になった…(地政学は知らないので、理解を間違っているかも…)。

当時のビザンティンの前に立て込んできた国際情勢が、以下の要素らしいです。一部しか調べていないですが、うーん、何とも多難であったのだろう、と想像されます。

  • 中央アジア系の西進圧力(ブルガールなど。後にブルガールはスラブと混血)
  • 突厥に追われたアヴァール人の東欧への定着(アヴァール諸王国)
  • 西欧・中央アジアから追い出されたフン族・アジア系の東欧への定着(ハンガリー、ブルガリア)
  • スラブ民族のバルカン半島への大移動・定着(バルカン半島問題の始原)
  • ハザール王国の繁栄(ササン朝とイスラームとブルガールを共通の敵として、ビザンツと同盟)
  • ルス~キエフ公国の膨張(ハザール衰退後、ビザンツと同盟)
  • ポーランド公国の立ち上がり(豪族の連合体だったみたい。ちょっと曖昧ですが…)

※「ルス」の語源として、「赤ら顔の人々」という意味でビザンツの人たちが「ロス」と呼んだ事から来た、という説があるそうです。

★メロヴィング朝は西洋オカルトの始祖だったのです!★

おまけとしては何ですが、西欧では、西ゲルマン=フランク王国メロヴィング朝が481年に始まります。おそらく日本での大和朝廷に当たるような感じで受け取られている王朝ではないか…と、想像しています。これがどうして、オカルト的でとても面白い代物なのです。

>>神話が伝える始祖伝承:資料サイト『メロヴィング朝年代記』さまより
〝現在の北フランス地域に初めて地歩を固めたフランクの王はファラモンなる人物であったとされるが、その実在には疑問がもたれ、その子でサリ系フランク人の王となったクロディオン、さらにその子メロヴィクあたりが記録で確認出来るフランク最古の王であるとされている。メロヴィクの子孫が継承した王朝がつまり「メロヴィング朝」である。メロヴィクの母はある夏の日に海神ネプチューンに襲われたことがあり、つまりメロヴィクはネプチューンの子である可能性があるという伝説が伝えられている。〟

そして、別のオカルト的な伝承では、メロヴィング朝の始祖は何と、イエス・キリストの末裔だという事になっています。

聖杯伝説版・メロヴィング朝の系図

中世に大流行した物語『聖杯探求伝説』にからんで創作された、荘厳タイプの始祖伝承ではあるらしい…のですが、同時に、中世の騎士文化の普及と定着に、強力に関わった物語でありました。しかも、その後の魔術結社や十字軍の活躍が大きすぎたため、話が話を呼び、尾ひれが付いて、とても大きなお話(歴史ミステリー)になってしまったもののようです?…

あまりにも経緯が「ゴシックホラー的ロマンチック」で面白すぎるので、ついでに、中世から近代へかけて『聖杯伝説』&『薔薇十字団』のロマンを受け継いで活躍した主な魔術結社の相関図を、図版にしてみました。何だか『ダビンチ・コード』と言えなくも無いですね…(汗)

近現代の西洋魔術結社の相関図

さすがに魔術結社だけあって、半分は古代・中世の歴史ミステリーに名を借りた「ロマンとでっちあげと洒落」らしいのですが…。真剣にオカルトを研究・実践する人々が多く、社会的地位のある人々が集結した事もあって、政治的・経済的コネクションをも含む強力な勢力となりました。現代のアセンション説及びニューエイジの基礎となっているようです。

(基本的に欧州の人々は、オカルティック・パッション型なのかも知れない…)

少し解説すると、「イギリス薔薇十字団」に続いてイギリスに生まれた「黄金の夜明け(1888創立-1903分裂)」という魔術結社が、近現代の魔術結社の源流だと言われています。ちなみに、「イギリス薔薇十字団」に所属していた3人の魔術師(ウィリアム・ウィン・ウェストスコット、メイザーズ、ロバート・ウッドマン)が、「黄金の夜明け」を創立しました。ここに「フリーメーソン」から多くのメンバーが流れてきました。

特にメイザーズは、エノク魔術やアブラメリン魔術の達人で、カバラ・タロット研究家でもありました。ウッドマンが設立後まもなく死亡したため、ウェストスコットと一緒に結社を運営していたのですが、後に「シークレット・チーフの霊的メッセージ」をでっちあげて(?)、ウェストスコットを追放し、「黄金の夜明け」の独裁者となったそうです。

当初は、多くの魔術師と同様、メイザーズも、ウクライナ出身・19世紀最大の神秘主義者マダム・ブラヴァツキーが「マスター」とチャネリングしてニューヨークに設立していた「神智学協会」と、密な交流をしていました。しかし、彼は、「神智学協会」の東洋的要素に反発し、独自に西洋魔術の復活を図ろうと活動した超・西欧ナショナリスト(?)でありました…

※「シークレット・チーフ」の概念は、中世の薔薇十字団で語られた「秘密の指導者」から来ているのではないかという説があります。マダム・ブラヴァツキーは「水瓶座時代」や「グレート・ホワイト・ブラザーフッド」の教えを広めた人です。今でも、2012年アセンション説で「12人の選ばれたインディゴ」だか「霊界の高次」だか「銀河のグランド・マスター」だか分かりませんが、霊界通信とかチャネリングを通じて、そういう概念が語られておる訳ですね…うーん…

近現代オカルトが面白いので長くなってしまいましたが、もう少し続けます。

イギリス生まれ・ケンブリッジ大学に在籍していたクロウリーという人物が、「黄金の夜明け」に入団して活動した際に、内部意見の対立があって、「黄金の夜明け」は決定的に分裂します。独裁者メイザーズ自身も退団に追い込まれ、新しい魔術結社「アルファ・オメガ」を設立します(何だか、どこかの政党の分裂と再編を見てるみたいですね)。

このクロウリーという人物は、知る人ぞ知る20世紀最大の魔術師です。「獣666」を名乗って「銀の星」魔術結社を設立するなど、数々の魔術結社に関係し、かつ多くの魔術結社の設立に関わりました。タロット占い師で、この人の名前を知らない人は、多分居ないと思います(現代の魔術師および現代の魔術結社に属する者で、クロウリーの名を知らない人はモグリだと思われます。それくらい有名…)。

更にクロウリーは、東方聖堂騎士団-イギリス支部の結成に関わり、その指導者になっています。このドイツ発祥の、中世「テンプル騎士団」を真似した「東方聖堂騎士団(Ordo Templi Orientis, OTO)」、何だか東洋スーフィズム及びチベット・タントリズムの気配に満ちていて、日本の最大の邪教・真言立川流っぽい魔術結社なのです…魔術師の間では、「東方聖堂騎士団」は「OTO」という略称だけで通じます(と、思います)

(OTOの内容はさすがに、或る意味、スーパー過激なので省略。クロウリーには同性愛者の噂があり、それが高じて、イタリアに設立していた魔術結社「エイワス教団」「テレマの僧院」ごと、ムッソリーニに追放されたほどの人物です。それで大部分ご理解いただけるかと…汗)

ちなみにOTOは「ナチス魔術政党」に弾圧されましたが、今でもクロウリー系OTO残党があり、北米とスイスで活動しているそうです。それから、最近、鳩山首相の奥方が所属している事で話題になった「サイエントロジー協会」は、北米、特にハリウッドのあるカリフォルニア州に繁栄した「アガペー・ロッジ」という結社を仲介して、クロウリー系OTOの流れを直接間接に継承しています。…ついでながら、仲介者にして「サイエントロジー協会」設立者は、元軍人のSF作家だそうです…

余談ですが、OTOからは、別系統で各種のサタン崇拝教団も分派しました。えーと、この辺りになると何だか系列が混乱してくるのですが、黒魔術に、「黄金の夜明け」由来のエノク魔術の論理を取り入れてるそうです。エノク魔術は天使を召喚するのですが、こちらの黒魔術では悪魔を召喚するわけですね…

※ここでいうエノク魔術は、『聖書』の「エノク書」の方ではなく、中世イギリス・エリザベス1世の時代に活躍した大魔術師ジョン・ディーとケリーによる、エノク語を使う天使召喚魔術です。

エノク語は、元は古代ウェールズ語か何かの正体不明の言語らしいのですが、大天使ウリエルの言葉とか、エデンの園の言葉とか、古代アトランティスの言葉とか、色々な説があります。

彼らはさすがに、地元住民から危険人物視されて、オカルト好きの神聖ローマ皇帝ルドルフ2世治下の錬金術の都プラハに亡命しましたが、そこで仲たがいして、ディーは帰国しました。

しかし、その頃のイギリスはすでに王位継承の都合でスコットランド王ジェームズ1世治下となっており、魔術に対し厳しい社会となっていたため、ディーは赤貧のうちに死亡したそうです。そういう訳でエノク魔術は長く失われていましたが、近代になって、「黄金の夜明け」の設立者にして西洋至上主義の魔術師メイザーズが発掘し、復活させたのでした。

やっぱり、オカルト関係に首を突っ込むと、色々とおかしな…もとい、冗談をはるかに超越してしまったレベルの、魔術的・霊的な世界が展開しているのが分かるわけです。表で動いた歴史と比較しながら読むと、歴史理解に深みが出て、なかなか興味深いのではないかと思います…

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古代科学漂流の章・中世8

ネストリオス派がオリエントを超えてアジアへ流れていった年代は、ウルフィラの聖書ゴート語翻訳の年代とはそれほど離れていません。長くても半世紀くらいというところです。当時のキリスト教は、教義の論争を通じて、それほどに急激に変貌を遂げていたわけです。

同じ頃のインドでは、ヴェーダ哲学が完成し、『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、数々の仏教異端や密教が次々に成立しつつありました。例えばクマラジーヴァが生まれたのが344年だそうです。歴史の神様のような存在が意思を発動していたのかどうか…、しみじみと考えさせられるところです…^^;

【ササン朝ペルシャとネストリオス派・・・アジア系キリスト教の素地】

431年のエフェソス公会議での排斥の結果、ビザンティンを追われたネストリオス派は、まずエジプトに逃れるのですが、ここでは布教のための足がかりを築くことが出来ず、西アジアに移ることを余儀なくされました。ネストリオス派は、シリア語を話すオリエントの人々の間で普及してゆく事となったのです。

ネストリオス派が本拠にしたのは、北メソポタミアのエデッサと言う町です。当時の東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの国境に近いところです。373年に既にキリスト教の学校が建築されていたという事ですが、ここにネストリオス派が定着しました。彼らは当初のギリシャ語を捨てて、シリア語で布教を始めます。

しかし475年に東ローマ皇帝のゼノンが、エデッサでの異端布教まかりならぬ、という事でエデッサの学校を閉鎖し、ネストリオス派の迫害を始めました。そこで当時の学頭であったバルサウマという人は、ネストリオス派のキリスト教徒を引き連れて国境を越え、ササン朝ペルシャの領内に入りました。

そこでバルサウマは、ペルシャの総主教であったバボワイに歓迎され、時のペルシャ王ペーローズに謁見する事がかないます。バルサウマはペルシャ王ペーローズ(在位年:459-484)に、次のように説明しました:

「正教会は東ローマ帝国と固く結びついているが、我々ネストリオス派はこの東ローマ帝国からひどい仕打ちを受け迫害されたので、今ではまったく絶縁しており、むしろ東ローマ帝国に対して敵対的であるのだ」(出典『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎・著1993岩波書店)

ササン朝ペルシャは東ローマ帝国と争っていた事もあり、バルサウマは王の信頼を得て、ペルシャに居住する事を許されました。彼らはまずニシビスに学校を開き、ここをネストリオス派の本拠としました。

その後、次第にエフタル人やソグド人が活躍していたユーラシア交易路を通じて、ネストリオス派はアジア全域に拡大し、ついには唐代シナまで辿り着く事となります。シナ語では、「景教」と呼ばれました。(同じ頃、玄奘三蔵が天竺から仏典を持ち帰っています。『大唐西域記』…*^^*)

余談ですが、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で書き残した「アジアの至る所にあるキリスト教会」とは、ネストリオス派のものです。今でも西安に「大秦景教流行中国碑」という石碑が残っており、かつて長安に留学した空海は、この碑を見ているはずです(ゾロアスター教やマニ教も流行していました)。これは804年の話。

つまり、ローマ帝国以東のユーラシアの国々では(場合によっては、日本も含めて)キリスト教と言えば、この「ネストリオス派キリスト教(=景教)」であったのです…^^;

★おまけの知識=ササン朝ペルシャと異民族(エフタル、突厥)

ササン朝ペルシャ帝国は、西方にローマ帝国、東方にクシャン帝国、次いで遊牧騎馬民族エフタル(白匈奴)という強敵を持っていました。(※7世紀半にマホメットが登場した後、ササン朝ペルシャは南方にイスラームと言う強敵をも抱える事になったのです。652年、ペルシャはアラブに征服されました)

インド西北部・バクトリア地域の強国であったクシャン朝(大月氏=ガンダーラ美術で有名)は、ササン朝ペルシャの攻撃を受けて西方の領土を大幅に失い、5世紀末に滅びました。

その後、北方の異民族エフタル(白匈奴)が勢力を拡大し、ペルシャ国内への侵入が激しくなります。エフタルの妨害は、ササン朝ペルシャにおける王位継承や対ローマ作戦の遂行に影響を来たすまでになります。

その後、エフタルは、558年頃に突厥とササン朝ペルシャとに挟撃されて滅亡します(エフタルの民族系統は不明ですが、現在はイラン系とする説が有力です)。

事実上、エフタルの滅亡が、突厥…もとい、トルコ民族の、西方大移動の引き金となりました。このトルコ人(チュルク系)を中心とした遊牧民族の第2次民族大移動は、遠くヨーロッパにまで及びます。

この大移動によって突厥は、ユーラシア最強の「遊牧騎馬民族」として、歴史の表舞台に登場しました。突厥はユーラシア大陸を横断するほどの広大な「突厥帝国」を形成し、その後に東西分裂しますが、その際に西端にハザール王国が登場したと推測されています。7世紀頃の事です。

なお、トルコ人の一派といわれるアヴァール人は、東ローマ帝国やフランク王国と戦いながらパンノニア平原に落ち着いた事が知られています。アヴァール人が中央アジアから東ヨーロッパに入った頃、突厥は、東ヨーロッパのそれを「偽アヴァール」、中央アジアに残ったそれを「真アヴァール」と呼んで区別していたという事です。

※彼らアヴァール人こそが、現代にまで続くバルカン半島問題の原因となった、初期の大きな勢力だと申せましょうか…他にも色々と事情が錯綜しているようですが…^^;

古代科学漂流の章・中世7

区切りの都合で短いですが、何とか形になったので、【前篇】に続けてみました

【ゴート語の聖書・後篇】

332年、コンスタンティヌス大帝は、幾度も事を構えたゴート族と協定を結びました。

その際のゴート側の外交使節団の通訳として登場し、次第に面倒な外交交渉のメイン担当を任されるようになったのが、弱冠21才のウルフィラだったそうです(…非常に根性のある方だったのですね…^^;)

彼はその後、ローマ側の総主教に語学その他の才能を見出され、ローマ帝国でもトップレベルにあった学問の府、シリア領・アンティオキア教会併設のアカデミアで本格的に聖書を学び、ラテン語、ヘブル語、アラム語を習得したという事です。当時の聖書は音読、しかも詠唱するものでしたが、ウルフィラの詠唱は上手だったそうです。

※ちなみに、ウルフィラはアリウス派キリスト教に属していました。折りしも帝都コンスタンティノープルでは、アタナシウス派とアリウス派の三位一体論争に火が付き始めているところでした。時代がもう少し後にずれていたら、聖書のゴート語への翻訳作業がどうなっていたのか…、ちょっと想像がつきません…^^;

さて、司教の叙階を得たウルフィラは、ダキア領の伝道に努め、徒手空拳で数々の宗教弾圧を乗り越え、ドナウ川の南岸、現在のブルガリア国内にあるミノル=ゴート村という場所にキリスト教徒のゴート人と共に入植し、聖書翻訳を開始したと伝えられています。時に西暦348年頃、ウルフィラ37才であったそうです。

ゴート語聖書への翻訳の際の借入語は、例えば「天使」=「アンギルス」、「悪魔」=「ディアバウルス」などです。いずれもゲルマン語には無かった言葉で、ギリシャ語の音を借用したものだそうです。後世は各々「エンジェル」、「デヴィル」、と変わっています。

ウルフィラが最も苦心したのが、「神」という言葉を母国語に翻訳する作業だったと言われています。ギリシャ語の「ホ-テオス」に当たるゴート語は無かったわけです。日本語での「デウス」が根付かなかったように、このままでは「テオス」がゴート人ひいてはゲルマン人に根付かない、という事は明らかであったろうと思われます。

最終的に、ゴート語の「神」は、「Guþ(グス)」という言葉で表される事になりました。

・・・はじめにグス、天地を造りたまえり。・・・

これが「God(英語)」、「Gott(ドイツ語)」、「Gut(北欧語)」の語源となったと言われています。その影響の大きさは、察するに余りあります。

この「グス」という語は古代ゴート語の「相談者/対話者」という意味を受け継いでおり、個人個人の精神内部での言葉の格闘を要求するものであったのではないか?という指摘があります。「グス」を受け継いだ英語圏、ドイツ語圏の人々は、他人との対話を基軸とした民族性を培っていったという事です。

ギリシャ語の「テオス」がそのままラテン語の「デウス」となったラテン語圏では、「神」は、そのまま天空に光り輝くものとして捉える民族性を育てていったのだと申せましょうか(例:フランスでは「Dieu」と言う)。

ごく大雑把にラテン精神、ゲルマン精神、言い換えればカトリックとプロテスタントの違いは、受け継いだ言葉の違いによるものが大きいのかも知れない…というのも、納得できるものであります。

ゴート語の聖書が、西欧の「心」を作った。その巨大な遺産に、圧倒されるものであります。

☆おまけの知識=《ゴート語の「愛」》

キリスト教神学では、「愛」は「アガペー」と「エロス」で区別し、対比させて考えるという事です。

ウルフィラは、この「愛」を、ゴート語で「frijaþwa(フリヤスワ・愛)」、「frijon(フリヨン・愛する)」と翻訳しているという事です。この「fr-(フル)」系統の単語は、そのままインド=ヨーロッパ祖語を復元できるほどの古い言葉で、当時から既に、大変古風な匂いのする単語であったろうと言われています。

今では、「fr-(フル)」系統の単語で「free(英語)」、「frei(ドイツ語)」という言葉が使われていますが、どちらも、古代ゲルマン語時代では「愛する」と「自由な」の両方の意味を担っていた言葉だそうです。現代ドイツ語にも、「freien(求婚する)」という言葉に意味の名残があるそうです。

ついでながら、ゴート語で「自由な/愛する相手」を「frijonds(フリヨンズ)」と言います。

これが現代の「友人」を意味する「friend(英語)」、「Freund(ドイツ語)」の語源だそうです。