制作日誌で記録した西洋中世史の私的研究をまとめて、ホームページに仕立てました。
ホームページ版の方は、かなり加筆をして容量が増えてしまったので、番外編を設けました。後から考えてみると、オカルト関係(錬金術やカタリ派など)でかなり興味深い様相が展開していたのも中世史の特徴だったので、この部分も盛り込んでみればよかったかなと、反省です。
- 星巴の時空4.・・・諸国暁闇ノ章
- 直通アドレス=[http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/history/europe_4.html]
- 星巴の時空・番外・・・中世ルネサンス関連の添付資料
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西洋中世史の私的な研究:
西洋中世研究の参考:
《以上》
◆歴史研究の付録【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】=2009.11.29メモの再掲◆
【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】
12-13世紀のプロヴァンスなど南仏地方では、地中海を通じた商業が盛んで、ユダヤ社会も繁栄していた。当時のナルボンヌ諸都市の記録に、ユダヤ人裁判官や商業者の名が見える。
また、中世カバラー思想(10のセフィラを持つセフィロトなどの神秘思想)もここで発生した。古代ユダヤ神秘思想とは系列が異なるものであったらしいが、『ゾハル(光輝の書)』、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』、『バヒール(光輝の書)』などの主要なカバラ文献が、ユダヤ神秘思想史の表舞台に出てきた事は、注目される。
ユダヤ神秘思想の中心地は、スペイン、アキテーヌ、プロヴァンス、ラングドック、レヴァント、ナルボンヌなどの地中海沿岸であったらしい。ここからは、当時の地中海の南で急激に広がったイスラーム勢力との、広汎な交流の様子が透けて見えるものである。
(歴史説話の分野になるが、「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」を想起されたい。特にフランク軍がイスラームに反撃した際は、ラングドック地方は砂漠と化した、というくらいに大きな被害を受けたそうである。初期フランク人は野蛮人であったらしい。だからこそ、後に広大なフランク統一帝国を作りえたのではあるが…)
同じ頃、異端カタリ派も南仏、特にラングドック地方で繁栄しており、ユダヤ社会とは友好関係にあったらしい。小アジアやコンスタンティノープルを拠点とする東方教会とも、直接の交流があった。カタリ派の流れには、ユダヤ神秘思想やスーフィズム、オリエント神秘思想の要素が、確実に含まれてあったわけである。正確にマニ教グノーシス系統であったかどうかは、未だに議論のテーマであるらしいが、いずれにせよオリエント神秘思想を受け継ぐ「グノーシス的異端」だったのだと言えよう。
ここで、アルビジョワ十字軍1209-1229のきっかけについて記しておく。
教皇インノケンティウス3世が派遣した使節ピエールが、カタリ派の盛んなトゥルーズ伯レイモン6世の土地でカタリ派を根絶しようとしたが、結局、トゥルーズ伯の手の者に、背後から槍で突き殺された…という事件による。説話によれば、この顛末を聞いた教皇は、2日間、声が出ないほど怒り狂った後、フランス王に破門者トゥルーズ伯の討伐を訴えた。これがアルビジョワ十字軍の始まりである。
(ちなみに、トゥルーズ伯レイモン6世は、異端カタリ派支援貴族として、破門を受けた人物である。この破門宣告という代物は、最近の北朝鮮やイランなどの、テロ支援国家の指定に似てなくも無い。…いちじるしいデジャビュを感じるのは多分、気のせいでは無い筈だ…)
アルビジョワ十字軍はユダヤ排除も含んでおり、南仏ユダヤ・コミュニティーの弾圧も行なわれたと言われている。実際、十字軍とは、とどのつまり、欧州社会における一大ヒステリーであり、大規模なユダヤ排斥運動の一様式であったらしい、ということが指摘されている。
フランス・カペー朝は、この教皇からの討伐依頼を利用し、莫大な資金と軍隊とを運用して、南仏穀倉地帯を支配していた諸侯を制圧し、フランス統一を図ったのである。ブルゴーニュ、イル=ド=フランス、ノルマンディー地方の騎士たちは、過去の十字軍とは異なり、海を渡る必要も、他国の騎士と競争する必要も無く、南仏の豊かな商業の富が容易に手に入る事を夢想して、アルビジョワ十字軍に参加したのであった。
最も凶暴な十字軍で知られたのは、イル=ド=フランス出身のレステル伯シモン・ド・モンフォール勢力である。十字軍の殆どが帰郷したにも関わらず、シモンは新トゥルーズ伯になる事を望んで略奪と圧制の限りを続け、配下の騎士たちは血の海の中で、カタリ派の財産を奪ったのであった。インノケンティウス3世自身、自らの名において発した十字軍の残虐行為の有様に、不安になったそうである(ちなみにその後、フランス情勢は動乱を続け、圧制者シモンは、トゥルーズ伯の反撃の際に投石で殺された)。
同じ頃に、カトリック=スコラ学の尖兵としてドミニコ修道会が結成され、アルビジョワ十字軍に随行し、カタリ派を異端審問にかけ、殺害した事が知られている。皮肉なことに、「転向した元カタリ派」による異端審問が、最も苛酷なものだったそうである。
(ドミニコは死後わずか13年で聖人に列せられた。この辺りにローマ=カトリックの「清らかではない政治事情」を見てもよいと思われる。当時の聖職者の堕落ぶりは、大きな話題になっていた。その折に現世を悪と見るカタリ派が人気を博したという事実は、ローマ=カトリック側に深刻な危機感と醜い嫉妬心とをかきたてた筈である。ついでながら、ドミニコ会は中世スコラ学の巨人アルベルトゥス・マグヌスと、その弟子トマス・アクィナスを輩出した事で知られている。)
このアルビジョワ十字軍から始まったフランス南北戦争により、豊かな土地であった南仏は荒廃して大勢の死者を出した。南仏で最も有力であったトゥルーズ伯の子孫(圧制者シモンからトゥルーズを奪還した人物の息子)が、抗戦の末にフランス王に降伏し、上着を脱いだシャツ1枚の姿となり、「カタリ派の一掃、及びフランス王室との政略結婚に応じる旨」をノートルダム広場の前で誓った事をもって、南仏は正式にカトリック系フランス領土となることが運命付けられた。
こうした政治情勢の激変と並行して、魔女裁判があったことも、南仏カタリ派の崩壊に拍車をかけた。更に14世紀ペストの大流行があり、わずかな残党も壊滅したのである。カタリ派が完全に断絶し、異端審問所が無くなったのは、1350年頃のことである。
この後、カタリ派と同じくオリエント・グノーシスの影響を受けたユダヤ神秘思想(カバラ中心)が、スペイン=レコンキスタ運動に追われたユダヤ人のイタリア移住後、イタリア・ルネサンスの波に乗って一気にヨーロッパ全体に拡散し、中世崩壊以後の西洋オカルト思想に大きな影響を与えたのは、これまた皮肉な現象である。
最後になるが、この100万人以上にのぼった南仏大虐殺の歴史は、フランスではあまり重要視されていないらしい。フランス南北戦争の末に、強大な大陸型権力と、豊かな領土とが手に入った…というメリットの方が大きかった、という事であろう。
この辺りは、文革大虐殺の歴史を、共産党の歴史学界があまり重要視しないのと、構図は似ているのではあるまいか。いささか「シラケ」の感も否めないが、人間は、本来、直視したくない事象は捨像するものなのである。それが人格崩壊を防ぐのに必要な方法でもあるからだろう。
人間は、事実と「ありのまま」に向き合えるほど強い生き物ではないのである。
流行りのスピリチュアルが「事実をありのままに見る」…と言うとき、そこに、惨めに屈折した「幻想への隷従」を見ずにはおれない。
逆に言えば「いわゆる新世界秩序」は、各種宗教法人や2012年終末版スピリチュアルブームを通じて、そういう終末幻想の心理を煽っている、という事だろう。「彼ら」が、何の目的でそういう事をするのかは知らないが、社会歴史を紐解いてみる限りでは、総じてこういう心理が群集心理となった時が危険である…と、はっきりと述べることが出来る。
扱い方を間違えれば、アキバ事件の拡大版や文革など、十字軍的ヒステリーを爆発させる事になるからである。ついでながら、霊感商法や霊感コンサルタントなどの商売の場合は、それが商売になるから、終末幻想の流行をいっそう煽るのではあるまいか。彼らに明確な「霊的な意味での使命/自由意思」があるとは思えないのである。
必要なのは、時代の激変に耐えうる安定した精神(禅的流体的な精神)を鍛え養う事であって、ラディカルな革命思想に走る事でも、終末幻想にのめりこむ事でも無い、のである。日本人の精神は、元来、そういう高い境地を目指していたのである。
上の考えは、物語のシナリオで少しずつ提唱してゆく予定であったが、現代社会のヒステリー状態にさすがに不安になったので、あらかじめ、まとめて提唱しておくものである