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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

神庭…現世(ウツシヨ)の境界

神庭&境内を含めて、あらゆる「庭」なるものの原形は「辻」であった。

辻は道々の交差点――八十道又(ヤソミチマタ)のターミナルポイントである。「道々の者」が流離うところ。そして、辻に関係の深い「庭」という言葉は、我々の始祖が描き出した時空概念を暗示している可能性がある。

「辻」は――「庭/神庭」は、境界の一種であり、境界とは、この世とあの世との境目であって、そこでは日常の生活空間とは異なる時空――渡らせの宇宙(そら)――が想定されていたという。

神々の荒らぶる幽世(カクリヨ)と、現身(うつそみ)の人々の生活する現世(ウツシヨ)とが、クロスオーバーする処。

「移世・映世・遷世(ウツリヨ)」という名称がふさわしい――血、貨幣、運命、祈り、呪い、言霊――あらゆるものが飛び交い、清浄と汚濁が共に渦巻き鳴り渡る、たまゆらの時空(ニワ)。

最もこの世ならざるものの出現を見るのも、「暁(アカトキ)」と「黄昏」。生と死の、昼と夜の交差する、ひと時の「間」…

  • 辻や辻-四辻が占の-市四辻-占正(まさ)しかれ-辻占の神/「本津草 地」
  • 百辻や-四辻が中の-一の辻-占正(まさ)しかれ-辻占の神/典拠不詳

その「時」と「道」が交差する時空(ニワ)こそが、古くは市の舞台であり、辻の神が幸わい、また男女が恋歌(相聞歌)を交わす歌垣でもあった。道が交差する、時が交わるということに、古代人はある種の不思議な力――宇宙創世に関わる力――の顕現を感じていたのではないだろうか。

(何故「新年」を「あらたま(新しい魂/玉)」の年というのか。これこそ、境界に発する宇宙創造の力を古代人が想定した証しではないのか。また、ここからは時空概念の発生において、“球”という立体幾何が重要な意味を持っていることが読み取れる)

「時」と「道」の交差する座標こそが、「辺境(スク)」であり「境界」である。「夜を越す事」、「境界」という概念は強い意味を持っていた…と想像される。更に言えば、「けじめ感覚」がそれだけ堅牢であり、このけじめに対する意識は、公私の別を問う「けじめ感覚」や、「和」というものに対する重要なファクターとなっているのではないか…と考えられるのである。

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神話論仮説:忘却の彼方の大和朝廷

《忘却の彼方の大和朝廷―ヤマトタケル神話・考―》

神話研究関係の言葉に、「アリストクラットaristocrat」という言葉がある。「名門の1人」、「貴族/貴族的な人」「最高ステータスの人」という意味がある。

貴種流離譚や英雄伝説はアリストクラット神話というジャンルでまとめる事が出来る。身分社会の発生から固定化に至る揺籃の時代と、アリストクラット神話には、深い関係があると言われている。

ヤマトタケル神話/ヤマトヒメ物語もアリストクラット神話の一種であり、大王を中心とする権力機構(大和朝廷)の固定化を窺わせる証拠となるという話である。

アリストクラット・キャラの放浪物語(英雄伝説)の登場と、王権・支配権といった概念の確立との間には、人類社会の変遷(身分の上下の発生、格差社会ルールなどの複雑化)に関わる根源的な関係がある。

仮説ではあるが、社会を彩る言語・概念の世代変化という背景も含んでいる筈だ。新たな概念が導入され、古い概念が忘却される。放浪を主題とするヤマトタケル神話の中に、地方有力者の暗殺や異国女性の入手、東国遠征などのエピソードが組み込まれているのは、深い理由があると言える。

ヤマトタケル神話は、渡来人の急増をも暗示する。ヤマトタケルは「弟王子」という事になっているが、これも「後から渡来した人々=弟」という意味合いが含まれている筈である。

華夷秩序や儒教のルールに基づくのであれば「大陸&半島の方が兄・島国の方が弟」という位置づけが正解になるのである。しかし、日本神話として確立する際、殆どの場合で兄・弟の位置づけの逆転が起こるのだ(この頃、日本でも長子相続のルールは確立していた)。

これは、その後の日本を特徴付ける性質となる。ヤマトタケル神話は非常に多面的かつ多義的な物語であるが、国家的に、わが国の基層を成す国家神話としての地位を有するのは、此処に理由がある。ヤマトタケルの物語は、列島の古層を成す神に滅ぼされると言う結論で終わる。日本は、遂に、渡来人がもたらした正統な儒教に基づく格差社会ルールを受け入れなかったのである。

ヤマトタケル神話などが完成した時代は、同時に、大和朝廷という記憶が忘却されつつある時代でもあった筈だ。まだ文字記録が確立していなかった古代、歴史の神話化と世代記憶の忘却は、同時に進行するプロセスであった。

忘却と浄化は、分かちがたく結びついている。醜い権力闘争や、新天地の征服に伴う先住民の大虐殺といった事件も確実に存在したであろうが、神話に変化する際に、その大部分は忘却され、寓意的・象徴的なエピソードに変貌するのである(例:兄弟殺し、異国女性との結婚、等)。

出自や伝統を異にする人々が、過去の深い傷口を踏みしめつつ同じ土地で同化・共存するためには、そうやって傷口を浄化しつつ、現実と折り合う他には、有効な手段を持ち得ないであろう。余談だが我々の先祖は、この「過去の因縁・傷口」に相当する概念を、「天つ罪・国つ罪」と表現した。

ちなみに、『ヨハネの黙示録』など、異人勢力の完全な追放絶滅=民族浄化を語る未来記的な物語という方法もあるにはある。だが、我々の先祖は、歴史記憶の救済とも位置づけられるヤマトタケル神話を構成する時に、その物語スタイルを採用はしなかった。これはこれで、日本という国家集団の性質に関わる興味深い問題である。

忘却と浄化のプロセスは、新たな記憶の捏造や、並行する偽史の成立をも生み出すプロセスである。そうして、歴史物語は成立して行くのである。「真実である物」も「真実でない物」も、等しくこの現実を構成する存在なのだ。

実際、ヤマトタケル神話を始めとする古い国家神話群は、その真偽の程を曖昧としながらも、今なお語り継がれており、我々の国家観や言語、思考のパターンに影響を及ぼしているのである。

ヤマトタケル神話が、大陸文化に対する防波堤として成立したと言う側面も持つ事は否定できないであろう。ヤマトタケルの血縁として語られるヤマトヒメの物語があり、これは日本の神社神道を確立させた呪術的思考のプロセスにも関わっており、長い話になるので省略する。

新たなジャンルの物語の登場は、新奇な単語・概念(大陸由来の言葉=古代の漢語、現代のカタカナ語など)の増加&定着と、決して無関係では無い。

それは、地域支配圏(古代王国の支配圏)ごとの、ブロック単位の社会文化の個性化のプロセスに連結して行くのである。

命の闌曲…「チハヤフル」考

「桜の花の満開の下」というのは、特別な、濃厚な気配に満ちている。

チハヤフル――祝祭の時空である。

桜の花が満開になり、そして散り落ちるまでの過程。不動の樹木が発するもの、それは、動物である人類を圧倒する程の、濃厚な生気に満ち溢れているものなのだ。人によっては、神秘的な意味での「生の爆発」を感ずるものもあるかも知れない。

それは、オーラであり、霊気であり…梶井基次郎が「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書いたように、死と隣り合わせの狂気や妖気すら感じられる、というのもあるだろう。

桜の花が散り乱れるときの、凄まじい「気」の奔流――それは、霊気というような静的なイメージで想起され語られることは、決して無い。生きてあるものの霊威、霊力、或いは神威――それは、「猛っているもの」として語られるものなのだ。

「たける」という言葉は、「猛る」、「長ける」、「闌ける」――などというように、或る語感を持った漢字で書かれるが、そこには、古代日本人が持っていた命の哲学、神観念といったものの一端を窺うことが出来る。

中世の頃、高度に発達した舞踏の芸術「能」には、「闌位」という概念がある。「闌(た)けたる位(くらい)」――「闌位」。そして「乱曲(闌曲)」とは、全ての曲風を含み、なおかつそれらを超越した曲。世阿弥が最高の曲風とした音曲である。

「乱曲(闌曲)」と、古代の神観念と、舞い散る花との間には、深い関係がある。

猛るもの、闌けるもの――闌曲。乱れる曲。むせ返るほどの命の霊気――それは、もはや霊威と言っても差し支えない程の激烈なものである――それに触れるとき、人は正気を失って「物狂い」になると、中世の日本人は考えた。

一瞬の中の永遠――その中を猛り、舞い狂い、生成消滅する命――そして荒らぶる神々。

能の物狂いは、「荒らぶるもの/すさぶもの」に由来を持っているのである。

そして、荒らぶる命(ないし神々)は、古代日本語で「チ」と呼ばれたものであった。

「チ」は、医学的な意味で言う赤い血をのみ指すのでは無かった。もっと広く、深く、命の生成消滅の哲学全体を示す、観念的な言葉だったのである。猛るもの、闌けるもの、長けるもの――その観念全体をはらんだ言葉が、「チ」なのだ。

「チハヤフル」とは、恐るべき言葉である。命の闌曲を表す言葉である。

歌人・在原業平は「千早ぶる-神代もきかず-龍田川-からくれなゐに-水くくるとは」と歌った。ここで歌われたのは紅葉散り敷く秋の光景であるが、桜の花が散り乱れ、川面に壮麗な花筏を成す――という春の光景に変えてみても、一向に差し支えないものであるだろうと思う。

猛り、頂点を極めた命のエネルギーは、盛りを過ぎて崩れていくことで、次の季節を創造する。「闌曲」という観念を、命そのものの移行、遷移、生成消滅のプロセスとして理解することも、或いは可能であるだろう。

春の嵐が来て、桜の花はあらかた散り落ちた――その次に創造されたのは、初夏につながっていく時間であり――本格的な春なのである。嵐の前とは、明らかに異なる季節。

そのようにして新たに創造された季節も、頂点を極めた後、やがて崩れていくのである――