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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

航海篇1ノ6

長めの付記――印欧語系の文法を日本語に当てはめる事への私見

ここでは、主に述語に着目して観察した結果を述べる。

印欧語系の述語(自動詞/他動詞)は各々、主語の支配を強烈に受け、それに準じた振る舞いをするが、日本語の場合は、述語(動詞・形容詞に相当する要素)こそが文章全体を支配する――という事実がある。

印欧語の文法体系を日本語に当てはめようと企てても、必ず何処かで破綻するのは、以上のせいである。この行き詰まりを以って、「日本語は非論理的」と判断するのはお門違いというものではなかろうか(’’;

「花咲く」・「花美し」の場合は、「咲く」・「美し」の方が支配的であり、「花」は重要ではあるが、宇宙的な流れと構成の中の、一要素に過ぎない。この事象を検討するに、日本語はどちらかというと、森羅万象の命や業(ワザ)に焦点を当て、かつ、これら森羅万象の普遍的構成に応えて言及する、という言葉であろう。

日本語を持ち上げすぎという感じも否めないのではあるが、日本語は日本語なりに、世界に共通する客観的な普遍性を成し遂げた言語であるという可能性がある。

(勿論、万人に通ずる論理を備えていなければ、一言語たりとも成立しないのである。普遍にしたがって言語が生まれてくるのではなく、各言語ごとに、各言語が描き出してみせる普遍世界があるのだ、と想定した方が、
よりまともで健全な考え方だと思われる。我々が見るのは常に、広大無辺なる宇宙の中の一片でしか無い。)

印欧語は、自/他の立場を明確に切り分けた上での客観的普遍性を成し遂げている。そして、日本語は、自/他を明確に切り分けないという立場からの客観的普遍性を作り上げたのではないだろうか。

日本語には、「見ゆ」「覚ゆ」などの、印欧語に最も訳しがたい言葉がある。こういった言葉こそが、日本語の、日本語による普遍的表現の独壇場である。

「花見ゆ」という科白は、「I see flower(s).」では無い。

「我が花見ゆ」だけでは無く、「君も花見ゆ」という意味を同時に含んでおり、しかも、「この場において、我と君だけで無く、他の人も花見ゆ」という広がりを含んでいる。印欧語がセットする普遍の中に定義するところの「I」及び「flower」とは、全く別の世界が、そこに織り上げられている事を示唆しているのである。

我にあらざる我――我も人も、そして花も、共に和するところにある我、すなわち汎世界的我――において、「花見ゆ」なのである。

Iとflowerの別をはるかに超越した「汎世界」と呼ぶべきもの、――その構成の中において、「花見ゆ」と応えているのだ。この深淵における普遍性を欠いては、日本語文法は記述できない筈である。

この主客未分の世界は、言い方を変えれば、汎神論的な世界である。遠藤周作がその著書『深い河』の中で、登場人物(大津の手紙)に次のように語らせた言葉がある。

…日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。
よく見ればなずな花咲く垣根かな、は、ここの人たちには遂に理解できないでしょう。
もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視する口ぶりをしますが、決してその二つを同じとは思っていないのです。

「それではお前にとって神とは何なのだ」……
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」
――遠藤周作『深い河(ディープ・リバー)』、講談社、1993

日本語の伝統を深めてゆくという事は、いとも深き汎世界に生きようとする事と、同義なのではないだろうか。(終)

★(おまけ)―多少、オカルト的なキーワードになるのだが、日本神話の解読研究において、興味深い法則が提唱されている。提唱者は、いわずと知れた有名なオカルティストであるが、元々は元伊勢にある籠神社の神官が発見した法則らしい。詳細はインターネットで研究されたし…

神話物語に見る、日本の神の法則―「多次元同時存在の法則」

1.神の世界に適用される
2.神は時間と空間を超越する
3.神は分身をつくることがある
4.神の分身は別名で表現される
5.同じ名前の神は同一神である

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航海篇1ノ5

◆考察:判断基準、境界物、異世界に対する反応から各言語の思考様式を探る

印欧語
外なる神、普遍を明確化(正義か、悪か)/序列・排除作用が強い/結合手は相・反・合の三手。世界の抽象化や、法則化を志向する世界観であると思われる。
古漢語
宗族・支族の区別が明確(敵か、仲間か)/同化・同質化作用が強い/結合手は合の一手のみ。華夷秩序の世界観を生むのが、この判断基準であると思われる。
日本語
自生・作為の区別が明確(自然か、不自然か)/複合化・多岐並列化作用/結合手が多種類。多分に「和」を基底とする判断基準である。

…「和」については今だ考察中である…

◆以上の比較から考察できること◆

印欧語と古漢語については、「善/悪」、「内/外」という二元的思考が支配的である。

この事は、ユーラシア大陸を支配してきた宗教的思考が何千年もの間、「光と闇」という二元的思考の伝統を守り続けてきた事実からも、しかと伺えることである。二元的思考こそが、苛酷にして広大なユーラシア大陸を
生き延びるに適した思考であったのだろう。

東アジアの果てで華夷秩序の考え方が生まれてきたことは、実に大きな「宗教革命」であったと思うものである。何故なら華夷秩序は、二元的思考による世界観を、更に非対称化した世界観になるからである。漢字による文字ショックの波に乗って、限りなく絶対一元化された思考…

しっかりと構成された二元的思考は、必然的に絶対一元的思考に移ってゆく。広大な領土や絶対一神教を保ち続けられるエネルギーは、二元的思考の強烈さや、安定感から来るのである。この意味において、印欧語と古漢語は、振る舞いは大きく異なるものの、同じユーラシア大陸の種族である。

三位一体の物語もまた、相・反・合を通じた思考の一元化プロセス(統合化プロセス)を経て生じてきたものである、と考えられないだろうか。(三位一体=「御父」「御子」「御霊」は、絶対一神が三つに分かれた各要素である、という考え方。この三要素の統合されたものが、絶対一神なるものであるそうだ…)

では、日本語が繰り出す物語とその思考は、どのように語れるのであろうか。

ここでは、「三元的思考」である――という説を提唱するものである。日本仏教の考え方では「一即多」「多即一」という捉え方もあるのであるが、おのづから「多」という要素が混入するにおいて、三元的思考、ないしは、多元的思考の影を見て取らずには居れないのである。

一、二、三は、また一、二、多でもある。三元的思考は、多元的思考に容易にシフトする。

三元から多元へ。その通路を開く鍵となるのが、自然/作為という判断基準であろう。日本語の述語の基底には、この「自然/作為」判断の影が、色濃く映し出されている。例えば「…する」の「スル」は、作為の「ス」と自然の「ル」が和したものであり、外国語の動詞を頭につければ即席の日本語動詞となる。(例:オープンする)

先ほどの「三位一体」を比較に取れば、日本語の思考が繰り出す物語は、「御父」「御子」「御霊」はとこしえに「三なる絶対神」である・・・という物語となろう。すなわち、「要素における合(絶対一神化/統合化)」という事象はあり得ない、とする議論を採ることになる。

日本において「合」の代わりに導き出される思考、それが即ち「和」である。

だがしかし、この「和」とは何であるのか、未だ説明できるほどには至っていない。もっとも身近にありながら、謎の思考なのである。「和」の根源、ないしはその基底を突き止めることは、今なお課題のひとつである。

最後に、「和」を考えるヒントとして一首の和歌を引用する――

淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

良寛の作である。三千大千世界は本来は「さんぜんだいせんせかい」と読むと言われているが、良寛が独自に振ったルビが、「みちあふち」である。これは「道の出会うところ」というほどの意味であるらしい。

いささか不十分な、かえって謎かけに近い試論となったが・・・今は、ここで筆を置くことにする。

航海篇1ノ4

◆表記文字

音声言語を表記文字に変えるときに要求されるのは、意図の伝達に堪えうるかどうかである。多様な解釈を必要とするか、逐一決まりきった定義を必要とするかで、表記文字の性格が異なってゆくものと思われる。

印欧語=表音記号
ヒエログリフという表意文字があったが、より正確な意図を伝えるには適さなかった。文字種類を極限まで減らし、最も意図にぶれの出ない表音体系のみに変わってゆく。ヒエログリフの衰退後は、フェニキア文字、ギリシャ文字などの表音記号体系の普及が見られた。
古漢語=表意記号
含蓄に富む表現を可能にするため、絵画的要素のある漢字体系を生み出した。同じような係累をより詳細に区別するため、要素ごとに異なる字種を当ててゆく。漢字の総数は五万字以上あると言われている。(どうやって数えたのだろうか?)
日本語=表音表意併記
発音を連ねただけでは総合的すぎて意図が伝わらず。(全かな文は読みにくくなる。)かといって表意文字に変えると、輸入した表意文字(=漢字)の読みに引きずられて「素」を失う。よって、当て読み(ルビを振る等)を採用、表音表意併記によって意図を精密に当てていった。

万葉仮名なるものを発明し、アクロバティックな読み書きを始めたのが日本語である。漢字(表意文字)を「真名」、それ以外(音声文字)を「仮名」として使い分ける。ここに、「真」/「仮」という奇妙な二重思考の発祥を見る事が出来る。(※「建前」/「本音」などとも奇妙にクロスすると思われる)

◆個人観念

この項目は、「歌語り」部分の唱和に注目して考察したものである。

印欧語=独立したバラバラな個人
合唱型。レパートリーを決めて交互に歌ったり、音声パートを決めてハーモニーを構築したりする。唱和において個人の音程がはっきりしており、バラバラな個人が前提されているという事が伺える。したがって印欧語の社会は、「確立した個人」を基底として構成されている。
古漢語=以心伝心集団(血縁・血盟)
独唱型。主役(宗家・血統主)の独唱に連動して集団が動き、場面が動いてゆく。血盟を誓ったもの同士などでは盛んに共鳴するが、一旦関係を外れると、急に減衰する。※したがって古漢語の社会は、「同胞社会(幇)」の無限増殖・膨張を前提として構成されている。
日本語=主客逆転(流動的)
斉唱型。主役も集団もはっきりせず。問答歌、連歌、反歌など。同時合唱というよりは、交代唱。一人が歌の上句を歌って、別の一人が下句を継ぐなど、主客未分・流動的である。したがって日本語の社会は、「かくあらしめるが故にある個人」を基底として構成されている。

上記比較で述べた音色や音楽的性質を考慮すると、個人観念というものを「純粋音」にまで磨き上げてゆくのが印欧語タイプであり、「ノイズ音」の豊穣な調和を目指すのが日本語タイプであろうと想像できる。一方、「宗主の音」に合わせてゆくのが、古漢語タイプと言えるであろう。

(もっとも、こうした考え方は、類型的・一面的な見方に過ぎないのであり、その点は重々注意されたい)

◆言語得意分野/真理,宗教

言語の特性から、真理に対する感覚や宗教観を考察したものである。

印欧語=ロゴス,契約,分析,論理/真理はロゴスによって到達可能(哲学)
弁論、弁証学が発達したのは、その作り出した言語の特性に多分に依存している。ストア派は、神の摂理(ロゴス)に到達することで完全理性に達すると説いている。理性には真理の深い関与がある――理性と天啓に富む宗教観であると思われる。
古漢語=情念,詩的,含蓄,同化/真理は易によって到達可能(天との合一)
少ない言葉で多くの意図を伝えるに適した言語である。易は天地万物の相互関与・組み合わせを、観察と経験によって総合的に系統立てたものである。したがって真理は、相互関与・組み合わせ・総合化のステップを経ての読み出しから生まれる。現実からの跳躍がない分、極めて強烈に安定し、同化力に富む宗教観を持っていると思われる。
日本語=両論併記,異論吸収,包摂/真理は行によって到達可能(工夫と稽古)
イメージ描写、オノマトペに富む性質があり、漢字とアルファベットの同時受容を容易にする。並列性とイメージ描写が組み合わさって、未知要素の受容に非常に向いている言語となっている。「体で覚える」という言葉があるように、技術・知識の身体伝承を重要視する。「修行」、「道」。宗教観は、自然、わずかな道標を頼りに各々の真理を探索する、というものになる。

以上の考察は不十分なスケッチに過ぎない。真理を語ろうとすれば、結局はどの言語も図像と言葉による説明に頼らざるを得ないのであるが、いくつかのヒントは切り出せたように思う。

《続く》

【補遺】

智慧や真理を伝承するのに「黙示(カバラ)」という手法もあるが、これは人類史と同じ程の巨大な領域を含み、手に余るので省略する。秘密・隠蔽を通じた真理の伝承は、宗教や秘密結社のあり方を考えるときに、重要な要素となると思われるのである。

勿論、日本にもカバラ要素は普遍に見られるのであり、伝統的な神道は、カバラ要素の結晶といっても何ら差し支えないのである。