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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

スパイウェア騒動顛末記

この週末は、某スパイウェアとのオフライン戦闘で、忙しくしておりました…^^;

※この記事を書く前まで、疲労回復のため、昼寝しておりました※

「とある個人サイト上」での「とあるダウンロード画面」がスパイウェアに感染していたようで、あっという間にやられました(=ちなみに、それまでは存在も知らなかった個人サイトでありまして、素材配布をメインにしているブログタイプのサイトです)。

「この素材を試してみたいな」という気持ちでダウンロードしたら、素材じゃなくてスパイウェアがダウンロードされてきました。すると、それまで動いていたインターネットブラウザが、いきなり強制終了。パソコン上の覚書用に開いていた「よろずメモ帳」も強制終了。

※さすがに疑心暗鬼になりましたが、現在は、悪意の無い個人サイトも大手会社サイトも、こうしたスパイウェアに付け狙われていて、隙があればあっという間にスパイウェアが入り込んでくるような時代になっているそうです。「インターネット版の"振り込め詐欺"みたいなものか…」と、理解してみました。

見慣れぬ英語画面がいつまでも居座るという事態には、正直言って焦りました…^^;

あらゆるソフトの動きがブロックされ、アンチウイルスソフトすら、動きを封印された状態でした。

【参考】☆ とんちくんの創業日記 ☆(アメーバブログ)
インチキ偽セキュリティソフト Security Protection の削除方法(2011.8.22)

名前が違うだけで同種のデザイン・同種の症状のスパイウェアのお話。まさにこんな感じ…^^;

非感染パソコンを使ってインターネットを検索しまくり、対抗手段をまとめました。

1.呪文をかけて、スパイウェアの動きを封印する(『無題なブログ(2011.11.6)』様を参照)。
嘘のメールアドレスは「お断りします@」にしました。これでも、自分なりの怒りのユーモアであります…^^;
2.「マイコンピュータ」を開き、ファイルとフォルダの表示設定を「全て表示」に変更。
「ローカルディスク(C:)」の中身を全てひっくり返して、調べてみました。
▼"Program Files"内部に怪しいアイコンがあったので削除。
▼"Documents and Settings"内部に怪しいアイコンがあったので削除。
▼他、"Application Data"フォルダ(?)の中にもあったという記憶が…。
※表示フォルダも非表示フォルダも全てひっくり返していたので、割と長い時間がかかりました。空のフォルダが割と多いのは、意外でした。
3.レジストリを起動し、怪しいレジストリ・キーの削除にトライ。
レジストリの開き方は、非感染パソコンでインターネット検索して、すぐ分かりました。インターネット検索で見つけた対抗手段ページで出てきた該当レジストリ・キーを全てチェック。存在があったり無かったりでした。
▼HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Run "スパイウェアの名前"
▼HKEY_LOCAL_MACHINE\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Run "スパイウェアの名前"
▼HKEY_LOCAL_MACHINE\Software\ "スパイウェアの名前"
▼HKEY_LOCAL_MACHINE\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Uninstall "スパイウェアの名前"
4.非感染パソコンを使って、インターネットより駆除ツールを入手し、USBに保存。
スパイウェアの動きの封印には成功していたので、「Rkill」は使いませんでした。
▼"Microsoft Safety Scanner"を入手。『インストール不要な無料お手軽ウイルス駆除ツール (フリーソフト)』様のご紹介から。
▼"Malwarebytes' Anti-Malware"を入手。『無題なブログ(2011.11.6)』様のご紹介の英語ページから。
▼"TDSSKiller.exe"を入手。『Rootkit.Win32.TDSS ファミリーのマルウェアを削除する方法』様から。『Anti-rootkit utility TDSSKiller』の方が新しかったみたいです(英語ページ)。

5.感染したパソコンにUSBを差し、保存しておいた駆除ツールを移動。

6."Malwarebytes' Anti-Malware"をセーフモードで駆動し、ウイルススキャン。

7."TDSSKiller"を通常モードで駆動し、ウイルススキャン。
その時は時間が無かったので、セーフモードスキャンは出来ませんでした。これから新しいバージョンの"TDSSKiller"でトライの予定⇒2011.11.14追記:セーフモードスキャン完了。問題点は見つからずで、ホッとしました。
8.通常モードで再起動、"Microsoft Safety Scanner"を駆動しウイルススキャン。
2個の有象無象マルウェアが見つかったとの事で、削除しました。他にはおかしいところは見つからなかったので、どうやら駆除成功と判断。

9.戦闘を終了。⇒2011.11.14追記:手持ちのアンチウイルスソフトでも、念のためパソコン全体スキャンをかけてみて、それで完了…と決定しました。いずれにしても画像処理専門のパソコンですし、用心のためにも、重要情報は、もっとガードの固い別のパソコンで扱いたいと思うのであります…^^;

・・・《以上》・・・

どうも、Windowsパソコンは集中的にウイルスに狙われるようです。将来の防衛のためにメモであります…^^;

※他にもいろいろお勉強になるページがありました…^^;

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ネトウヨ・ブームのお話

あちこちで「まるで意味が取れない謎だらけの文章」と評価されていたので、興味を覚えて、記録してみる

【時代の風:サイバー空間の「国防」=東京大教授・加藤陽子(毎日新聞2011.10.30)】

◇変容を始めた安全保障
20代の学生にものを教える立場にいると、ときに「おやおや」と思うことがある。これが「やれやれ」となれば、村上春樹の世界となって別の話となるのだが。
「おやおや」と思った直近の例は、かなりの学生が、自分の目や耳に入ってくる「情報」につき、疑いの目を向けず、信頼感を持って接していると知らされた瞬間だった。しかも、彼らのそのような感覚を支えているのは、自らの判断力や思考力によって情報の確度を測れるとの自負ではないのだ。
そうではなく、インターネット上に短文で個人の観察や意見を投稿できる「ツイッター」などのサービスが有する機能ゆえに、情報の取捨選択がなされうる、と考えられている。ここにいう機能とは例えば、RTと略される「リツイート」、すなわち、ある投稿者の観察や意見に対し、他のユーザーが再投稿する機能を指す。RTによる反復で有用な情報は浮き上がり、デマの類いは自然に淘汰されうる、と考えられているようだ。
情報のデジタル化とは、周到な取材によって書かれた新聞記者の署名記事と、個人の観察や意見とが、
RTの対象という点では、同質の「情報」として並んでしまうことを意味する。やっかいな時代となった。正しく疑うことを教えなければならないのか。私に教えられるのか。
まずは、他人や他国について冷静な観察ができる人でも、それと同程度の確度で自らや自国について観察するのは難しいことに気づいてほしい。自らを眺める際に欠落している視角は何か、死角となっているものの見方は何かを問いながら、まずは情報に接する必要がある。
三菱重工や衆議院のネットサーバーやパソコンへサイバーテロが仕掛けられたとの事件を例に考えてみたい。三菱重工の一件では、潜水艦や護衛艦を建造する造船所から防衛関連情報が流出した恐れがあるという。また、衆議院の一件では、ウイルス感染によって中国国内のサーバーに強制接続するようなプログラムが議員の公用パソコンに組み込まれていたという。
二つの事件報道を点と線でつなげば、読み手の頭の中で自然に結ばれる像が何かは述べずとも明らかだろう。では、上記の事件を考える際に思い出されるべき事項とは何か。それは、昨年12月に閣議決定された「防衛計画の大綱」の中身だと思われる。
新防衛大綱は、1976年以来一貫していた「基盤的防衛力構想」を抜本的に見直し、日常の警戒監視を通じた抑止力の向上をめざす「動的防衛力」概念を打ち出した点に特徴があった。具体的項目では、16隻(4個隊)態勢だった潜水艦を今後10年間で22隻(6個隊)に増強する計画などが注目された。
今年8月2日の安全保障会議と閣議で了承された今年版防衛白書を読んでみると、新防衛大綱の特徴が次の諸点にあると気づく。第一に、サイバー攻撃への対処が急務とされたこと。第二に、潜水艦部隊による情報収集・警戒監視について、その対象地域を従来は、「東シナ海及び日本海の海上交通の要衝」としていたのに加え、「南西方面など」といった語句が加えられたこと。
第三に、南西方面の航空警戒管制の強化が挙げられる。南西方面とは、沖縄などを含む南西諸島を指す。弾道ミサイルの探知・追尾能力を持つ「固定式三次元レーダー」が、沖縄県糸満市の与座岳分屯基地において本年度中に運用開始の見込みという。さらに、沖永良部島、久米島、宮古島には、通信・電波情報収集施設がある。日本列島上の警戒管制の密度は、中国・ロシアなどユーラシア大陸にある国家にとって、十分な脅威となっていよう。
一方、防衛白書は「サイバー空間と安全保障」の項において、多くの外国軍隊がサイバー空間における攻撃能力を開発していると分析。説明にあたっては脚注部分で、米議会の超党派の諮問機関である米中経済安全保障再検討委員会が2年前に作成した年次報告書から次の一節を引用した。すなわち、「中国人民解放軍は紛争の初期段階において、敵対する政府および軍の情報システムに対して、コンピュータ・ネットワーク作戦を実施する可能性がある」と。
政府は次の通常国会をめざして秘密保全法案を準備中という。同法は、国防・外交・治安の3分野を対象に、国の存立にかかわる秘密情報を特別秘密と指定し、刑事罰を科すことで漏洩防止を図ろうとしたものである。これでは、情報公開法、公文書管理法など近年培われてきた流れに逆行するのではないか。公文書管理法は、第1条で公文書を、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」、「主権者である国民が主体的に利用し得るもの」と位置づけていた。
問題は、国の存立にかかわるという特別秘密の中身だろう。その際、防衛白書がサイバー空間を、海洋や宇宙と並ぶ国際公共財と位置づけたことは見逃せない。安全保障の対象と意味づけが、世界的な経済危機と信用不安の中で大きく変容し始めている。事は小さくない。

(感想)…うーん、一応、「まともな言論」っぽい内容のように見えるのがキモ…?

(「興味を覚えて記録した」のがメインなので、それ以外の感想は、書かないことにするのです…)


長文だけど文章が素晴らしく絞られていて、面白く読めた記事。

http://ameblo.jp/oharan/entry-11062227098.html
「ネット利用者の右傾化、その功罪について」 その1

http://ameblo.jp/oharan/entry-11062227523.html
「ネット利用者の右傾化、その功罪について」 その2

http://ameblo.jp/oharan/entry-11062227958.html
「ネット利用者の右傾化、その功罪について」 その3

「東村山問題」は知りませんでしたが、そういう奇々怪々な出来事が日本で起きていた…という事実にビックリです。

最後、印象に残った文章(引用)

まとめ ~ ネットウヨク問題と右傾化はイコールではない
ネットウヨクと呼ばれる人種は「自分の思い通りの情報しか見たくない」「反対意見なんか聞きたくない」「議論なんかしたくない」といった、癇癪持ちの幼児かのような未成熟な人間であると言える。

これが現実社会であれば、嫌でも聞きたくない事を聞き、見たくない物を見せられ、自然と耐性が付いていくものなのだが、ネットに閉じ篭り、ネットにしか真実がないと勘違いをしている彼らには、そうした社会で揉まれる経験が欠落している。

そして何かのタイミングで自分をありのまま全肯定してくれるネットウヨク・コミュニティの存在に気付き、そこに依存するようになる。そのコミュニティもしくはサロンへ入る時に必要になる入場券や会員証が「反朝鮮」「反創価学会」といったキーワードなのだ。
これを80~90年代に例えるならば、「月刊ムーの読者投稿欄で知り合って文通を始める元火星の戦士」のようなノリだろう。しかし、あの当時は人を集めるにしても10~20人程度がMAXだっただろうが、今はインターネットというツールを使って何千何万という「同好の士」を見付けられる状況になってしまっている。
在特会などの素人ネットウヨクは、政治団体というより、このようにして膨れ上がった「月刊ムー同好会」のような存在なのである。「私は前世で火星の戦士でした」が「私は朝鮮人を憎む愛国者です」にすげ変わっただけだと考えるべきで、それ以上の深読みをすると逆に彼らの実態から遠ざかる。

何故なら、ネットウヨクと言うだけあって、どこかで聞きかじった政治的な文言をテンプレートのように口にするため、主張をまともに聞こうとすると、単なる政治議論のように見えなくもないからだ。

そうなると彼らは「現代日本の弱腰外交に義憤を感じて立ち上がった若者」といった解釈になってしまうが、果たしてそれで誰が納得するだろうか?

「知」に関する覚書&雑考

★下記のtwitter群が連続して興味深い内容だったので、メモさせて頂きました。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728549236383744
自分の歩む道を自分で意識するということは、実は、歩いている本人の目線からは行いにくい。歩いている自分の姿を上空から俯瞰的にみつめてみて、はじめて自分の歩む道は意識できる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728915004854273
客観的にみるというのは、そんな風に自分の姿を上空から俯瞰的にみるということであって、まわりの枠組みに安易に自分を当てはめてわかったつもりになるということではない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121730774490820608
他人のことを考えるというのも単にいま目の前に起きていることを自分の立ち位置からみたことをベースに相手を評価するということではありえない。そうではなく上空から俯瞰した自分の歩みと他者とをぶつけてみた際に何を考えられるかが、相手を考えるということだろう。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121731592896000001
そういう俯瞰的にみるということを考えた際に思い当たるのが、漱石が文学はローカルだと言った際の考えだ。漱石はおそらく言語がローカルであるがゆえに文学がローカルだと言ったのではない。マクルーハン的な意味でグーテンベルク革命の結果としての文学が俯瞰を可能にする知だからそう言ったのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121732315142569984
つまり、客観的にみるというのは、本来、普遍的にみるということとは同じではない。それは実はグーテンベルク革命が充分に普及して、その知の具体的な応用方法を模索した18世紀の活動を通じて作られた加工物である。本来、客観的にみるというのは、漱石的な意味でローカルなのだ。

《コメント》・・・「客観的思考もまた、主観的な条件の下に偏向したローカルな思考スタイルである(普遍的思考では無い)」という思索は、興味深いものでした。

戦略的思考はたぶんに客観的思考のスタイルを取る傾向がありますが、こうしたローカルな主観性が糊付けされているから、各人ごとに異なった思考(戦略デザイン)が見られて、なお興味深いのだろうと思いました。

活版印刷の技術革命(グーテンベルク革命)が人間の思考に如何に大きな変容をもたらしたかというのは未だよく分からない状態です。ただ、話し言葉が主流だった頃の時代と、書き言葉が主流になった時代とは、世界観や価値観が大きく異なってくるだろうというのは想像できました。例えば、過去と未来の時間軸の明確化とか…

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786311983104000
車に乗せてもらっていったり、人に連れて行ってもらった道はなかなか覚えられないものだけど、自分で迷いながらたどり着いた道とはいうのは案外しっかり覚えているもの。プロトタイピングによる知というのはまさにそれ。体験しながら考えられることを増やしていくのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786387669323776
失敗を恐れて自分で体験をすることを避け、人に教えてもらうことばかりを望んでしまうと、その類いの知はいつまで経っても獲得できない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786398993956864
デザイン思考的なトライアンドエラーというのはまさにそういう意味。ただ、それは何もデザイン思考に限った話ではなく、人間の知の獲得の仕方として、それが1つの形ということだと思う。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787492167987200
何かを知るためにその知り方を調べるためのスキル。つまり、それは道に迷った際や暗闇で何か探し物をする際に「手探りする」という方法を知っているかどうかということ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787517824532480
「自分で手探りをする」という方法を知らず、「他者に正しいやり方を教えてもらう」という方法にのみ頼ってしまうのが、文字/文章中心の知のあり方。まさにグーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響を受けたままの状態がそれ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787857177288704
「グーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響」というのが、ブログ(http://gitanez.seesaa.net/article/228703702.html)に書いた“「実践より理論」をベースとしたデザインを、ほんのすこし「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのがデザイン思考”ということの意味。

《コメント》・・・これはそのまま、うなづけました。教条主義、マニュアル人間とも申しますが

言葉以前の不完全なイメージ、直感に留まっているものを、実際の表現スタイル(言葉・絵画・音楽・身体作業など)を通じて現実の世界に引き降ろすのは、やはり人間自身の、教科書無き実践によるものであります。その方法に関する知は、まさに「手探り」で探し当てていく知のジャンルに入るだろうと思います。

ただこういった「現場力(或いは即戦力)」と言っていい「知(ナレッジ)」は、人間の生身の身体を使うものだけに、感覚をつかむのに非常に苦労するであろうという事が予想されます。

形にしにくい、体系化しにくい、普及しにくい…そういう類の知かも知れません。少し前に「ナレッジマネジメント」という言葉が流行ったと記憶していますが、要はそういう事を理論化して、実際の経営に応用しようとしていたのですね。今はどうなっているのでしょうか…

現代のコスト至上主義の考え方からすると、時間や労力のロスは無視できないと思いました(表現のクオリティや厚みを生み出すのが、こうした「無駄な要素」だったりするので、非常に悩ましいところですが…要は学習とのバランスなのかも知れません)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121798823868760064
自分が何かを行う時や行わない時の理由と考えるものが、本当に理由となりえるかどうかは考えてみた方がいい。◯◯だから××する(あるいは、しない)というロジックが、自分のなかでしか成り立たないものか、他者にも受け入れてもらえるものか、という意味で。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121799831588048896
特に◯◯だから××しない(あるいは、できない)という場合はそう。こう言ったら、他の人に何を言われるか怖いから自分の考えを口にすることができない、なんてのは、まさにそう。怖いとか不安になる気持ちはわかる。けれど、だからといって、できないにはならない。怖くても勇気を出す人はいる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121800763658874880
そもそも行動をすることやしないことに理由があるというのを当たり前のことと捉えるのが近現代に特有の思考だと考えたほうがよい。マクルーハンやオングが指摘するように、それは印刷文化以降の思考だ。江戸期の文章をみると、「だから」のような接続詞はない。原因と結果を結ぶ思考がない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121801608404283392
こうすればこうなるというのは、まさに近代以降の機械的な思考だ。宇宙を生体として捉えた中世までの思考から機械として捉える近代の思考が「だから」という接続詞の使用を可能にする。ボタンを押すと特定の結果が出るし、一つの問題に一つの正解があるような思考。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121802344961818624
いまの僕らもさすがに機械的な一つの正解を求めるまではいかないまでも、何らかのイデア的なものを前提にしてしまう意味では近代以降の魔術に囚われたままだ。原因に対して結果を想定してしまい、行動に理由を想定してしまう。だが、中世まではそうでない世界があったことは理解する必要があるはず。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121803113844834305
魔術に囚われたままの状態を自覚することが、自分の姿を正しい鏡にうつす作業の第一歩だ。

《コメント》・・・自/他を見極めるというのは、実際は困難だと思います^^;

そもそも人間の「自我」が、どこまでのものを適用するのかが分かっておりませんし…(これはどちらかと言うと、心理分析や精神分析や宗教の話になるかも知れない…)

一対一の原因と結果を求めるのが近現代に特有の思考かどうかというのは、人間の思考・感情や行動そのものの曖昧さがあって、容易に結論は出せないと思いました。古代中世においても、一対一の原因と結果を求める思考はあったと思います…

(というか、数学ジャンルでもそれが一番、基本的な思考方法になるのです。個人的には、古代ギリシャで最初に「数学という思考」が生み出された時、この一対一の問答を求める思考が強烈に働いたはずだ…と、考えております…)

ただ、世界を解釈するためのごく総合的な思考スタイルとして、近代に著しく発達したニュートン的思考、科学的思考…法的思考、イデオロギー的思考…というものを例に取るなら、上の指摘は、極めて精確であると思いました(それが、「一般人の間で新たに普及してきた〝近代〟という名の魔術的呪縛」かどうかは別にして)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121940302855536640
やっぱり単純に多くの人たちが、自分自身が物事を感じる仕組みや、アイデアが思いつく仕組み、他人の言動がムカつくものに感じてしまう仕組みがわかっていないのだろう。それもわからず獣のように流されるまま、まわりに怯えながら生きている。そのあたりの仕組みの謎がとけるから人間なのに。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/122111806851391488
他人の意図を汲める人とそうでない人がいます。どういう違いかというと、結局は他人に対して求められるような心遣いと同じような配慮を、普段から自分自身にも向けているかどうかということでしょう。自分の心の動きについての考察が足りなければ、他者にそれを適用することなんてできないということ。

《コメント》・・・「成る程」という部分が、いっぱいありました。自分の心の動きについての考察…これは、禅で言うディープな「悟り」が必要かも知れません。

この部分のtwitter群は、大雑把なところでは、朱子学の考え方に似ていると思いました^^

Wikipediaによれば、朱子学は〝自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した〟となっています^^