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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

台湾への手紙(2)

台湾への手紙(2)・・・戦後史ダイジェスト

「戦後日本は、戦後台湾を非情にも捨てたのか?」の件がどうしても気になって、数学のT先生のところに駆け込んで、戦後史ダイジェストを聞き出しました。(T先生はちょうど戦後史と青春とが重なっていて、当時の情勢を直接に見聞きしているという感じで、激動の戦後史の語り手としては一番のタイミングの世代に位置してらっしゃいます…^^;)

まず結論から言うと、T先生の解釈では、日中国交正常化に伴い、台湾を手放す事は、キューバ危機~全面核戦争の回避と引き換えの、苦しい選択であった…と言うことです。

「台湾を見捨てるか」、「世界中を核戦争に巻き込むか」、どちらを選択するか…といったら…背筋が凍るほど恐ろしい選択です…(T T)

で、時を巻き戻して:


1947年:2.28事件=大日本帝国が滅亡中で、いかんともしがたかった…と解釈です。
(本国がアメリカ占領下にあって、何も出来なかった…)

1957年:スプートニク・ショック。ソビエト連邦がもたらす軍事的恐怖が表面化

1958年:長崎国旗事件~周恩来(知日派)勢力と最悪の関係になる、日中貿易中断

1961年:ユーリ・ガガーリン、宇宙飛行。アメリカ、アポロ計画を立案。
(アメリカは、本気でガガーリンの偉業に怯えたそうです。それで、アポロ計画が当初の有人宇宙飛行ではなく、月面着陸に変更された…らしいです・深くため息)

1962年:キューバ危機~世界核戦争の1秒前

1964年:中国大陸側では文化大革命が起こり、非常な混乱に陥ってしまい、核戦争抑止のための外交どころでは無かったらしいです。しかも、ソビエト連邦と非常に険悪になり、1966年頃には、中国共産党はソビエト連邦に向かって、「ブレジネフを頭目とする、ソビエト社会主義、修正主義の裏切り者集団」と罵ってすらいたそうです。(この部分はT先生からの聞き取りなので、本当にそういう科白だったかどうかは不明…^^;)

1971年:ニクソン・ショック~冷戦体制&核戦争の抑止に対応するための国際関係の激変

1972年:日中国交正常化(田中角栄-周恩来)
(ニクソン・ショック=冷戦体制確立により、1958年以来の周恩来派との最悪関係を修正する必要に迫られたらしい)


当時、キューバ危機がもたらした全面核戦争の恐怖が、いまだに色濃く漂っていたということでした。冷戦時代は、核兵器の爆発的な急増時代でもあり…どのような手を使ってでもソ連の覇権を抑圧せねばならず、その過程で、台湾を外交の犠牲にせざるを得なかった…という感じだったと、T先生は話していました。

もちろん、この解釈は当時の緊迫した情勢…「有人宇宙飛行」「キューバ危機」「核戦争の恐怖&冷戦体制」というトリプル・クライシスの進展をまざまざと見ていたT先生の考察によるものであり、他の人は別の考察をするのかも知れません。当時の空気がどんなものだったのかは知らないのですが、世界核戦争を防ぐために台湾を犠牲にせざるを得なかった…というのも、その当時の情勢を構成していた、ひとつの真実であった…と思われました。

その後、中国共産党では、戦前教育を受けていた知日派が順番に死に絶えました(例えば、周恩来は京都大学の留学生だったそうです)。当時の知日派の功績は、日中国交正常化を通じて、ソ連からの技術移転を日本からの技術移転に切り替えた事なのかな…T先生は、後々歴史評価されるかも知れないねえ、と言われてましたが…ともあれ、今は保留という事で…

補足・・・・・・資料[日中国交正常化交渉記録]・・・・・・
当時は、中ソ対立が最悪状態で、ソ連から中国への技術移転が完全にストップしていたそうです。中国共産党は文化大革命で荒廃してしまった国を立て直すために、当時の最新技術の移転を真剣に希望した筈です。個人的な感触に過ぎないのですが、日本からの技術移転に際して、台湾に関する黙示的な条件を付けていたと想像される節がありました。会談記録ではいろいろありますが、台湾に武力介入してはならない旨、厳密に約束し、確認する…という明確な流れはあったと思います。

そして、戦後教育を受けていた、日本を知らない世代、江沢民の独裁体制(??)に変化してゆき…その後の、まあ、反日教育への変化は言わずもがな…かも、です。でも、うーん、中共独裁化の方がメインなのかな、よく分かりません。

T先生曰く、民族主義と社会主義はどうしたって水と油なんだから、社会主義で多民族をまとめようとしたソ連は、結局その無理がたたって、失敗したのだよ…という事で。(社会主義を使って多民族をまとめようとすると、時の経過と共に、必然的に独裁体制にシフトする、というのがT先生の見解です。)

過去の鳩山内閣については、今いろいろ非難があるようですが、えーと、シベリア抑留者の返還へのこぎつけとか、オホーツク海方面の…北海道サケ・マス漁業とか、北洋漁業について、ソビエト連邦と必死にやり取りしていて、いま北海道の漁業がある程度可能なのは、鳩山内閣がソ連からの保証取り付けに努力したからだろう…という話でした。まあ「本当はこうすれば良かったのではないか」とか、是々非々いろいろありますが、そんなに単純に評価できるようなシロモノでは無いようです…

T先生の、これは曖昧な推察の類かな…という話ですが、最後のお話。ソ連崩壊を引き起こしたのは、チェルノブイリだ…というのがT先生の解釈。で、将来、中国共産党崩壊を引き起こしたのは、四川大地震であった…と言う風に語られるんじゃないかな、という事でした。

…ハッと気づけば、いろいろ付け足しが多くなってしまいました。

当時の緊迫した情勢を目にしていた、1人の日本人の見解に過ぎないのですが…「全面核戦争の回避のための一手段として、台湾を犠牲にせざるを得なかったのだ」という見解で、台湾の人たちは納得してくれるだろうか…多少の不安と共に、エントリしてみました(それでも外交的には「裏切った」というのには変わり無いので、やっぱり恨まれても仕方が無い、と観念…汗)。

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台湾への手紙(1)

台湾への手紙(1)・・・台湾の方への感謝と御礼とお詫び

テレビで見た番組や、丸山(=丸幸亭)さまがイザ版ブログにエントリされた『海角七号』の影響が大きくて、しばらくボーッとしていました…

こちらは戦後世代で、昔の人のことはよく分からないので、自分が、台湾と、台湾の人々について、どのように考えているか…というような事を、手紙風に書いてみるしかありません。

台湾の歴史をさらっと見ただけなのですが、それでも、台湾の歴史のすさまじさに息を呑む思いです。日本の場合、その近代化を、明治元年(1868年)にスタートし、台湾統治スタート年(1898年)までかかった…という風にカウントしても、30年の時間がありました。

ひるがえって、台湾の近代化にはそれだけの時間が無く、だいたい8年で、近代的統治にあっという間に着手したという感じで…それは、現代の目で見ても、信じがたいまでにすさまじいスピードであるというしか無く、是々非々の評価はさておき、そんな激変に対応できた台湾の先人というのは、本当にすごいと言うしかありません。

50年の統治時代ですが

差別も流血も込み込みで、このあたりは、日本からは「反省の弁」以外の事は言いにくいです。日本統治時代の台湾で起きた諸々の事情は、台湾という土地で刻まれた歴史であり、台湾の人たちの歴史評価にお任せしたいと思います。

(今の日本としては…「当時こういう事があった」という風に、かつての大日本帝国としての責任を持って誠実に記憶し続ける事、日台交流の実績を地道に積み上げる事…以上の事は、できないと思います。直接に台湾に干渉しようとすれば、それは内政干渉と取られてしまいますし…)

日本人自身も、近代化してわずか30余年という、あまりにも若すぎる近代人で、当時の近代国家としては、あまりにも「近代社会」の蓄積経験が無さすぎた…というところはあると思います。これは結局、現代の(しかも戦後世代の)日本人としての見解ですが、他に言いようが無く。

戦後日本が選択した決定については…自分でもまだ理解していない部分の方が大きく、今まさに現在進行形という事もあって、この辺りは判断が下せないです。将来の日本がどういう決定を下すのか、台湾とどういう関係になってゆくのか…という事も、よく分からないです。今はただ、大戦後の台湾に対してあまりにも無関心でありすぎた事に対して、お詫び申し上げるのみです。

どのような形であれ、台湾の未来がより幸多いものであるよう、祈っています…

そして、やむを得ぬ経緯とは言え、50年という、決して短いとはいえない時間を、同じ日本人として、わが祖国・日本の歴史を真摯に共有してくれた台湾の尊敬すべき先人たちに、心より感謝と御礼を申し上げたいと思います…

日本の近現代史の闇?

(独り言)北朝鮮のミサイル、4月5日お昼の11時30分頃に発射されたようです^^;;
タロットの読み(4.4は計画倒れ、4.5発射)は当たった?わけですが、微妙な気持ちです。

知人から見せていただいた、本日の朝日新聞(2009年4月5日版)のテレビ番組紹介欄に、「うーん」と考え込んでしまったコラムがあったので、後々のために、写真を撮って保存…(携帯カメラで写したので、画質は悪いです・汗)

テレビ番組の紹介コラム

写真にあるのが、「うーん」と考え込んでしまった内容です。以下引用:

[試写室]・・・何に倣い、何をしたのか・・・
JAPANデビュー「アジアの〝一等国〟」★NHK夜9:00

日本の近現代150年をたどる企画「プロジェクトJAPAN」内のNHKスペシャル1回目。

1895年、日本は日清戦争に勝利し、台湾が割譲された。日本は初の植民地統治を成功させ、列強に〝一等国〟として認められようともくろんだ。番組は2万6千冊に上る「台湾総督府文書」=写真=や欧州に残る史料などに基づき、半世紀の統治の実情に迫る。

1910年の日英博覧会で、日本は台湾の少数民族を「展示」した。列強が植民地の人たちを見せ物にした人間動物園に倣ったものだ。旧制台北一中の台湾人OBは昔を振り返り「嫌だな。差別。馬鹿にしおって!」と涙する。

あの半世紀に日本が台湾で何をしたのか。
知った上で、「親日的」と言われるかの地と付き合っていきたいものだ。(大室一也)

(感想)
素直に考えれば、日本は過去、台湾にひどい扱いをしたのだなという感じです。

台湾に住んでいる人の事はあまり知らないですし、「台湾から来たよ」という人とまだ会った事が無い(一応、お仕事先では、国際化が進んでいる場所では台湾出身の方も割といらっしゃるようです)ので、今でも「馬鹿にしおって!」と恨まれているのなら、本当に彼らに会った時に、どう振舞えばいいのか、ちょっと考えてしまいました。

歴史上の良心の呵責を抱えながら付き合う、と言うのは、ハードかも…歴史事情の上でこちらを恨んでいる人と、如何にして付き合えばいいのか…というのは、思いもつかない分野なので、考えるだけでも、付き合う前から、げっそりと疲れてしまいます^^;;

いつか台湾に旅行してみたいな…という思いはすこーしあるのですが(台湾に行った事は無いです)、うーん、ちょっと行き辛いかも…なんだか、複雑です…;^^ゞ

(※台湾には豊かな山岳地帯が連なっていると言われており、その中でも最高峰と言われている玉山というのに、なにげに興味があります。登山のほうではなくて、玉山を含む山脈の風景を回って見たいなという方ではあります。玉山ツツジとか…自然観察系ですね^^)

歴史上の事情とか、恨みの感情が今でも色濃く溜まっているのが現実であれば、台湾との友好関係というのは、本当は難しいのかも知れません(ため息)^^;;;;

このコラムを書いた大室一也氏は、きっと「歴史事情を踏まえての適切な付き合い方」というものに関して、普通の人よりもずっと、深く深く考えている筈なので、大室氏なりに、適切な付き合いという事に関して、紙面を割いて、思うところをもっと書いて欲しかったなと思いました(「新聞」と言う媒体である以上、それは難しかったかも知れませんが…)。

ともあれ、コラムを読んだ美月は、上のような感想を抱いたのでありました…^^ゞ

コラムだけでは実際の全体像は分かりませんし、くだんのテレビ番組は、いちおう見てみようと思います(他の用事と重なっている時間帯なので、パラパラと拾い読み…という感じになるかも)。

(追記)
テレビをパラパラと拾い読み…といった感じですが、台湾の方は本当に苦労されてたのだな…と思いました。

世界中の植民地はいろいろありましたが、台湾くらい、時代の波に激しく振り回されていた所は、ちょっと見つからないかも知れないです(その時代の波の元に日本があったというのが、何とも複雑…1人の日本人として、やっぱり責任を感じるところです。台湾の聖所とか、古来の神々の世界をかき乱してしまった部分については、やっぱり問題ありすぎだったと思います…orz)。

台湾が経験してきた近現代史から、学ぶところ、学ばなければならないところは、いっぱいあるように思いました。多分、台湾の歴史的経験と、その経験から来る思索は、日本にとっても貴重なものとなる筈です…、と思います。

テレビだけでは、「今後、台湾とどのように付き合うか」という件に関しては、回答が出ない状態ではありますが…これはやっぱり、現実に台湾の人々と会って、現実の付き合いを重ねてゆく中で、少しずつ探っていくというのが、一番誠実で確実な方法かな…と考えております…;^^ゞ