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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『正法眼蔵』現成公案

《正法眼蔵/現成公案》・・・《現(うつつ)を成す、あまねき理(ことわり)》

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

《私的解釈》
大いなるものの中に、迷いと悟りがあり、生と死があり、光と闇がある。大いなるもの無ければ、迷いと悟りは無く、光と闇は無く、生成と消滅は無い。大いなるものは、この世の貧富を超越するところにあるが故に、大いなるものの中で生成消滅があり、迷いと悟りがあり、生ける神があるのだ。しかも、世界はこのようにあるとは言っても、花は惜しまれながら散り、草は嫌われながら生える、ただそれだけの事である。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

《私的解釈》
自我に囚われたまま世界の相を知る事は迷いである。世界の相を学び自我を見極める事は悟りである。迷妄を克服するのは開けた意識である。克服せずに迷い続けるのは閉じられた意識である。さらに悟りの上に悟りを重ねる者があれば、迷いに迷い続ける者もある。世界の相に真に同化した時、自我は、世界の相と自己の相とを区別することはできない。そのようにあっても大いなるものはあるのであり、(我々は)大いなるものを悟ってゆくものなのである。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。(自我というのは)一方の現象に注目する余りに、もう一方の現象が見えなくなるものだ(木を見て森を見ず、森を見て木を見ず)。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。大いなるものに同化するという事は、この小さき自我に属する主観と客観とが、共に抜き去られてゆくという事だ。大自然は沈黙(寂静)にあり、沈黙(寂静)なる大自然はじわじわと浸透してゆくものなのだ。人が初めて真理を求める時は、真理の周辺から遠く離れてしまっている。真理は既におのれの内にありと悟る時、人は真実の者となる。

人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。舟の進行を知る時と同じように、心身乱れた状態で大自然と臨めば、自我は永遠不変なりと誤る。坐禅(心身不動の状態)で大自然と臨めば、大自然は(そのような永遠不変と見られる)自我では無いという道理は、明らかである。

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

《私的解釈》
(大意)=大自然は諸行無常である。万物流転である。生の相があり、死の相があり、永遠に変わらないものなど無い。時代は後戻りすることは無い。日々新たに変容してゆくのである。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罜礙せざること、滴露の天月を罜礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿點し、天月の廣狹を辨取すべし。

《私的解釈》
(大意)=大いなる大自然は、小さき自己に反映する。この真理は完全に完璧であり、疑う箇所は無い。悟りの深い事は悟りの高い事と同等である。その悟りのタイミングの良し悪しについては、大いなる現象と小さき現象との兼ね合いをよくよく熟考し、判断するべきである。

身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

《私的解釈》
(大意)=悟りの不十分な時、悟りは十分であると早とちりするものである。十分な悟りを得ると、まだまだ悟りの不十分な事が分かってくる(=知れば知るほど、分からない事が出てくるものである)。大自然は無限にあり、多種多様な世界がある事を知るべきである。身の回りの事象は、見たままの浅きものでは無く、直下にも一滴にも、深いものがあると知るべきである。

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。

《私的解釈》
(大意)=人は、人の世界から離れて生きてゆく事は出来ない。ただ生命の能力として、大小の(雑多な)環境に適応してゆくのみである。さらに(我々、命ある者は、悟りにおいて)進化変容してゆくべきなのである。大いなる道があり、その大自然から授かった寿命は、その道のためにある。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

《私的解釈》
(大意)=与えられた命の中で道を尽くし、疑念のままに道をはみ出してゆく(目的の為に手段を選ばず、手段の為に目的を忘れる)者は、悟りの境地を得る事は無い。この箇所を得心すれば、ありのままの日常の中に、世界が現成するのである。大小の差を超越し、主観と客観を超越し、過去と未来を超越するところに、「今この瞬間(一期一会)」の現実が生起するのだ。

しかあるがごとく、人もし佛道を修證するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。得處かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。證究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

《私的解釈》
このように、人が大いなる道を証しようとすれば、一つの法、一つの道、一つの遭遇、一つの理解を歩むことになる。この境地に至る道によくよく通暁すれば、世界の未知の領域においても、同じように大いなる道がある事が察せられるのだ。ここで得たものは己の理解となり、知識としては知らなくても、自然に発揮する(自然に振舞える)ものである。世界がすみやかに現成するとは言っても、その世界は必ずしも目の前に、分かりやすくありありと現われるものでは無い。その本質に透徹する事が必要なのである。

麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。

《私的解釈》
禅師が扇を使っているところに、僧が来て問うた。「風の性は、常に此処にあって動かないものです。何故に殊更に扇を使うのでしょう」/師曰く「君は“風性常住”を知っているけど、“所として至らずという事の無き(無處不周)”という道理をまだ知らないね」/僧曰く「無處不周底の道理とは、どういう事でしょう?」/師はただ扇を使っていた(風が融通無碍に此処にある事を示すために、風を起こしていた)。/僧は礼拝した(=得心した)。

佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。

正法眼藏見成公案第一

これは天福元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。

建長壬子拾勒

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