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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

「知」に関する覚書&雑考

★下記のtwitter群が連続して興味深い内容だったので、メモさせて頂きました。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728549236383744
自分の歩む道を自分で意識するということは、実は、歩いている本人の目線からは行いにくい。歩いている自分の姿を上空から俯瞰的にみつめてみて、はじめて自分の歩む道は意識できる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728915004854273
客観的にみるというのは、そんな風に自分の姿を上空から俯瞰的にみるということであって、まわりの枠組みに安易に自分を当てはめてわかったつもりになるということではない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121730774490820608
他人のことを考えるというのも単にいま目の前に起きていることを自分の立ち位置からみたことをベースに相手を評価するということではありえない。そうではなく上空から俯瞰した自分の歩みと他者とをぶつけてみた際に何を考えられるかが、相手を考えるということだろう。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121731592896000001
そういう俯瞰的にみるということを考えた際に思い当たるのが、漱石が文学はローカルだと言った際の考えだ。漱石はおそらく言語がローカルであるがゆえに文学がローカルだと言ったのではない。マクルーハン的な意味でグーテンベルク革命の結果としての文学が俯瞰を可能にする知だからそう言ったのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121732315142569984
つまり、客観的にみるというのは、本来、普遍的にみるということとは同じではない。それは実はグーテンベルク革命が充分に普及して、その知の具体的な応用方法を模索した18世紀の活動を通じて作られた加工物である。本来、客観的にみるというのは、漱石的な意味でローカルなのだ。

《コメント》・・・「客観的思考もまた、主観的な条件の下に偏向したローカルな思考スタイルである(普遍的思考では無い)」という思索は、興味深いものでした。

戦略的思考はたぶんに客観的思考のスタイルを取る傾向がありますが、こうしたローカルな主観性が糊付けされているから、各人ごとに異なった思考(戦略デザイン)が見られて、なお興味深いのだろうと思いました。

活版印刷の技術革命(グーテンベルク革命)が人間の思考に如何に大きな変容をもたらしたかというのは未だよく分からない状態です。ただ、話し言葉が主流だった頃の時代と、書き言葉が主流になった時代とは、世界観や価値観が大きく異なってくるだろうというのは想像できました。例えば、過去と未来の時間軸の明確化とか…

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786311983104000
車に乗せてもらっていったり、人に連れて行ってもらった道はなかなか覚えられないものだけど、自分で迷いながらたどり着いた道とはいうのは案外しっかり覚えているもの。プロトタイピングによる知というのはまさにそれ。体験しながら考えられることを増やしていくのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786387669323776
失敗を恐れて自分で体験をすることを避け、人に教えてもらうことばかりを望んでしまうと、その類いの知はいつまで経っても獲得できない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786398993956864
デザイン思考的なトライアンドエラーというのはまさにそういう意味。ただ、それは何もデザイン思考に限った話ではなく、人間の知の獲得の仕方として、それが1つの形ということだと思う。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787492167987200
何かを知るためにその知り方を調べるためのスキル。つまり、それは道に迷った際や暗闇で何か探し物をする際に「手探りする」という方法を知っているかどうかということ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787517824532480
「自分で手探りをする」という方法を知らず、「他者に正しいやり方を教えてもらう」という方法にのみ頼ってしまうのが、文字/文章中心の知のあり方。まさにグーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響を受けたままの状態がそれ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787857177288704
「グーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響」というのが、ブログ(http://gitanez.seesaa.net/article/228703702.html)に書いた“「実践より理論」をベースとしたデザインを、ほんのすこし「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのがデザイン思考”ということの意味。

《コメント》・・・これはそのまま、うなづけました。教条主義、マニュアル人間とも申しますが

言葉以前の不完全なイメージ、直感に留まっているものを、実際の表現スタイル(言葉・絵画・音楽・身体作業など)を通じて現実の世界に引き降ろすのは、やはり人間自身の、教科書無き実践によるものであります。その方法に関する知は、まさに「手探り」で探し当てていく知のジャンルに入るだろうと思います。

ただこういった「現場力(或いは即戦力)」と言っていい「知(ナレッジ)」は、人間の生身の身体を使うものだけに、感覚をつかむのに非常に苦労するであろうという事が予想されます。

形にしにくい、体系化しにくい、普及しにくい…そういう類の知かも知れません。少し前に「ナレッジマネジメント」という言葉が流行ったと記憶していますが、要はそういう事を理論化して、実際の経営に応用しようとしていたのですね。今はどうなっているのでしょうか…

現代のコスト至上主義の考え方からすると、時間や労力のロスは無視できないと思いました(表現のクオリティや厚みを生み出すのが、こうした「無駄な要素」だったりするので、非常に悩ましいところですが…要は学習とのバランスなのかも知れません)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121798823868760064
自分が何かを行う時や行わない時の理由と考えるものが、本当に理由となりえるかどうかは考えてみた方がいい。◯◯だから××する(あるいは、しない)というロジックが、自分のなかでしか成り立たないものか、他者にも受け入れてもらえるものか、という意味で。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121799831588048896
特に◯◯だから××しない(あるいは、できない)という場合はそう。こう言ったら、他の人に何を言われるか怖いから自分の考えを口にすることができない、なんてのは、まさにそう。怖いとか不安になる気持ちはわかる。けれど、だからといって、できないにはならない。怖くても勇気を出す人はいる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121800763658874880
そもそも行動をすることやしないことに理由があるというのを当たり前のことと捉えるのが近現代に特有の思考だと考えたほうがよい。マクルーハンやオングが指摘するように、それは印刷文化以降の思考だ。江戸期の文章をみると、「だから」のような接続詞はない。原因と結果を結ぶ思考がない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121801608404283392
こうすればこうなるというのは、まさに近代以降の機械的な思考だ。宇宙を生体として捉えた中世までの思考から機械として捉える近代の思考が「だから」という接続詞の使用を可能にする。ボタンを押すと特定の結果が出るし、一つの問題に一つの正解があるような思考。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121802344961818624
いまの僕らもさすがに機械的な一つの正解を求めるまではいかないまでも、何らかのイデア的なものを前提にしてしまう意味では近代以降の魔術に囚われたままだ。原因に対して結果を想定してしまい、行動に理由を想定してしまう。だが、中世まではそうでない世界があったことは理解する必要があるはず。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121803113844834305
魔術に囚われたままの状態を自覚することが、自分の姿を正しい鏡にうつす作業の第一歩だ。

《コメント》・・・自/他を見極めるというのは、実際は困難だと思います^^;

そもそも人間の「自我」が、どこまでのものを適用するのかが分かっておりませんし…(これはどちらかと言うと、心理分析や精神分析や宗教の話になるかも知れない…)

一対一の原因と結果を求めるのが近現代に特有の思考かどうかというのは、人間の思考・感情や行動そのものの曖昧さがあって、容易に結論は出せないと思いました。古代中世においても、一対一の原因と結果を求める思考はあったと思います…

(というか、数学ジャンルでもそれが一番、基本的な思考方法になるのです。個人的には、古代ギリシャで最初に「数学という思考」が生み出された時、この一対一の問答を求める思考が強烈に働いたはずだ…と、考えております…)

ただ、世界を解釈するためのごく総合的な思考スタイルとして、近代に著しく発達したニュートン的思考、科学的思考…法的思考、イデオロギー的思考…というものを例に取るなら、上の指摘は、極めて精確であると思いました(それが、「一般人の間で新たに普及してきた〝近代〟という名の魔術的呪縛」かどうかは別にして)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121940302855536640
やっぱり単純に多くの人たちが、自分自身が物事を感じる仕組みや、アイデアが思いつく仕組み、他人の言動がムカつくものに感じてしまう仕組みがわかっていないのだろう。それもわからず獣のように流されるまま、まわりに怯えながら生きている。そのあたりの仕組みの謎がとけるから人間なのに。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/122111806851391488
他人の意図を汲める人とそうでない人がいます。どういう違いかというと、結局は他人に対して求められるような心遣いと同じような配慮を、普段から自分自身にも向けているかどうかということでしょう。自分の心の動きについての考察が足りなければ、他者にそれを適用することなんてできないということ。

《コメント》・・・「成る程」という部分が、いっぱいありました。自分の心の動きについての考察…これは、禅で言うディープな「悟り」が必要かも知れません。

この部分のtwitter群は、大雑把なところでは、朱子学の考え方に似ていると思いました^^

Wikipediaによれば、朱子学は〝自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した〟となっています^^

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