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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

政教分離・考/聖職と言葉

思考は言語によって構成される――

自分の使用している言語がおかしくなってゆくという事、そしてそうした事象に自力で気づけなくなってゆくという事、それは、聖職者という「聖なる言葉の語り手=聖なる神の使徒」にとっては、常人以上に深刻な問題ではないだろうか…と思われます。

感触としては、マスコミにはまた別の問題があるのではないかと思います。でもその問題を掘り出したり分析したりする事は、マスコミ問題について詳しくない自分にとっては荷が重過ぎるので、専門家にお任せしたいと思います

・・・何故、文明社会は、政教分離を選んだのか。

その理由をあれこれと想像してみると、現代社会においては、宗教家ないしは思想家が、政治に口出しする場面が多すぎる…または、政治活動を起こして、それを意のままにあやつるという場面が多すぎる、と思いました。

確かに、聖職を志すものには、世界平和の壮大なビジョンがあると思います。
栄光の千年王国、極楽浄土、神の国、天国…新しいところでは、アセンション。

でもそれは所詮、宗教上の観念的理論…可能性の領域に留まるものです。

どんなに優れた宗教的理論、霊能力、霊的知識があったとしても、その「知」をどのような場合にどのように用いるべきなのか、そういう人間としての基本的なTPOにすら欠けているならば、それは、「魔」となるのでは無いでしょうか。

「悪魔よ、去れ!」…聖なる知に裏付けられた言霊を使う能力は、人間としての基本的な社会的基礎がしっかりと確立された上にある筈だ…と思います。人格ある言霊を以って、聖なる「場」を、聖なる「言葉の宇宙」を現出できない聖職者は、果たして聖職者たりえるのでしょうか…

むしろ、若年代に流行しがちな「にわかカルト」よりも、厄介な存在であるように思います。

聖職者自身が、「聖職にあるという事」を理由にエリート意識をひけらかすようになれば、それは「メサイア・コンプレックス」と呼ばれるに値する心理現象です――未熟な人間が必死に優位に立とうとし、優越感を満たそうとするときに、普遍に生じるメンタルの病(やまい)です。

「私は選ばれし聖職者だ、特別な人間だ」という事を盾にしないと、他人と渡り合えない、「不完全な大人」であるという事です…自然、「不完全な大人」は、他人の心を理解する能力に欠ける、という事です。「観念」に没頭する余り、「現実」を生きている人の心が見えなくなります…

「幽界」に入れ込むあまり、「現世」が分からなくなる、「現世」に帰って来れなくなる…というエピソードは、こういう恐るべき心理現象を、暗に言っているのではないでしょうか。

人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さが無く、粗雑になる。粗雑と言うのは、対象をまったく見ないで観念的にものを言っているだけという事であり、対象への緻密な心配りが欠けているという事である…

・・・善意でやっていると本人は思っているから、それに沿って人からありがたがられるときには上機嫌なのだが、反対者や批判者には、人が変わったように邪悪な言動を繰り返すこともあるわけだ・・・

心の緻密さが欠けるという事は、神を含む、いっさいのものが欠けるという事に他なりません…

メンタルを病んだ人は、「正当」と「正当化」との識別も出来ない…と思います。「現実」と「観念」の区別がつかなくなる…これは、心理学の方面からも、よく指摘されています。他人の善意の意見を「誹謗中傷」だと取る場合が多いのも、メンタルを病む人の特徴です。

聖職者もまた、普通の1人の人間です。その職の特殊さゆえに、常人よりもメサイア・コンプレックスに陥りやすい…ミノタウロスの「知の迷宮」に陥りやすい、という傾向を、強烈に自覚する必要があるのでは無いでしょうか。

科学者が、「科学的正しさ/科学的真理」を追求する余り、「知のミノタウロス」に食われてしまう…人間性を失ってしまうというケースは、結構よく見られます。(ニュートン的世界観から量子的世界観に移るときに、この反省が行なわれています。だから或る意味、科学&数学のほうが、宗教&哲学よりも、根源的な「神」に近いところにあるのかも知れません)

同じように、宗教者・聖職者・思想家が、「宗教的正しさ/宗教的真理」を追求する場合にも、己の抱く観念の無闇な正当化のために、全ての思考と言語を捧げ切ってしまうあまり、人の心を忘れてしまう…「知のミノタウロスに食われてしまう」という事象が、普遍に起こりうるのではないでしょうか。

実際、スピリチュアルを語るには優れていても、政治・軍事・外交を語ると、とたんに「言語」がおかしくなる…という宗教者の例は、歴史上に無数にあります。そして、宗教的情熱…現実直視を喪失した「観念(思考)」に突き動かされるが故に、繰り返される歴史の悲劇。

政教分離というのは、人の心の闇の深さ、ミノタウロスの迷宮の深淵をまざまざと直視したが故に、いつしか、文明社会の知恵として生じてきたものなのだ…と確信します。

宗教者・思想家が、観念的側面から、政治を支配しよう…という場面が多すぎる…そういう現在の日本の状態は、政教分離の観点からも、大いに憂慮されるべきものだ…と、思います。

歴史上の事例からすると、政治的な資質と、スピリチュアルな資質とは、全く別のものだ…と思われてなりません。政治は、徹底したリアリズム、現実直視・現実対応主義です。ひるがえってスピリチュアルは、基本的には、観念優先主義です(インドやチベットの聖者を考えると、良く分かります)。

…その昔のスピリチュアルの雄であった西欧キリスト教は、「神と人との再結縁」よりも、「神の代理人としての世俗支配権」を選択しました。その選択がもたらした、禍々しいまでに血塗られた歴史は、推して知るべしだと思われます。キリスト教における「世界(ゴッド)」と「人間」との遠大な距離感は、この選択が原因だと思います。また、現代の新興カルト登場の淵源でもある、と思います…

スピリチュアルを語るその口と同じ口で(多くは反戦活動&反日活動にかこつけて)、現実を直視して動くしかない政治を批判し、さらに宗教的論理・宗教的観念の下に支配しようとする事は、聖職者として間違っている、人々をかえって救いようの無い地獄に追いやっている行為なのではないか?と思うものであります。それはまた、かつての国家神道が歩んだ道であり、そしてその国家神道以上に、凄惨に血塗られてゆく道になるに違いない…と危惧するものであります…

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