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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書:意識と存在

お勧めの本/井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫1991)

井筒は、「意識と本質」とは何かという普遍的で根源的な問題に関する広範囲にわたる多言語資料を読み解くことで、古代ギリシアから、キリスト教世界、ユダヤ教、ヒンドゥー教、イスラーム、さらには中国をも含めた、全世界的な諸宗教・哲学言説を見通し、まったく新しい比較宗教学、思想史を提示する。本書は決してやさしくはないが、学問とは、かくも深く難しいことを思い知らせてくれる一方で、一人の学者がこのような学識を備えることができるのかという驚嘆も与えてくれる稀有な書といえる。私がイスラームに根本的な興味を持つきっかけになった書であり、個人的な思い入れもあいまって推薦する次第である。

――『科学と宗教 対立と融和のゆくえ』(中央公論新社2018、日本科学協会・編)「第5章イスラームと科学技術、三村太郎」


「意識と存在」という同テーマの2冊の本を読書しました。特に引き込まれた文章を、メモ。

『意識と本質』井筒俊彦・著(岩波文庫)より

禅の覚知に現成する「真如」とは、決して絶対無分節、すなわち「無」だけではない。ここでの無分節は、「無」でありながら――というよりむしろ、真に深い意味での「無」であるという、まさにそのことによって――限りない分節、つまり「有」なのである(「無一物中無尽蔵」)。
そしてまた逆に、それらの限りない分節の「有」が、そのまま無分節でもあるのだ。(正勤希奉、問う、「如何なるか是れ諸法の空相」。師曰く「山河大地」。)
「諸法の空相」それ自体にほかならぬこの山河大地は、その空相において己の分節を否定する。が、それらが現に山河大地、すなわち存在分節、である限りにおいては、それらは互いに相通し、透明であり、無礙である。
「本質」で固めてしまわない限り、分節はものを凝結させないのである。内部に凝結点をもたないものは四方八方に向かって己を開いて流動する。すべてが、黄檗のいわゆる「粘綴(ねんてつ)無き一道の清流」(どこにもねばりつくところのない、さらっとした一道の清流)となって流れる。「粘綴(ねんてつ)なき」この存在分節の流れは、ものとものとを融合させる。
華厳哲学では無「本質」的に分節された事物のこの存在融合を「事々無礙」という。黄檗はそれを「虚空」と呼ぶ。分節即無分節の意である。

『意識と存在の謎』高橋たか子・著(講談社現代新書)より

(高橋氏の談話)私はこれまで多種多様な人々に出会ってきましたが、大別すると、表層における分節の少ない、つまり粗雑な人々と、数え切れないほどの分節のはたらく人々とがあり、後者の方が、直面している現実をかなりきちんと見る。表層がきわめて細分化している人々と言ってもいいが。

分節即無分節の究極が、「虚空」。能狂言の舞台理論「花・幽玄」とかなり共通するところがあるなあ、と感心しました。微粒子的感覚とか、感性とか、緻密な思考は憧れですね^^

意識の構造を、「根源無(ゼロポイント)」の上に咲く蓮の花(上側へ向かって開く円錐形)として捉えているところ、なるほどなるほど…と、うなづき。

※自分が想像している意識構造は、ゼロポイントの位置も含めていささか異なるのですが、これはイメージにも個人差(偏見&思い込み)がある、という程度のもので、学生時代の専攻内容や、現在やっている占いの影響が大なのかも知れません^^;

2冊の本を読んで感じたのは、心理学及び哲学で言う「分節」は、数学で言う「微分・積分」に非常に似ている(或いは同じプロセスを違う言葉で捉えているだけ?)…ということです。「意識」が描いてゆく「存在の軌道」というものがあって、それがどれだけ緻密で精妙なカーブを達成できるのかは、分節の微細化とその再構成の巧みの度合いによるのだ…と、解釈しました。

あと、面白いと感じたのが『意識と存在の謎』に書かれていた「意識の中間層」のお話でした。「意識の中間層」、ここはちょうど夢の中で到達する魔境、迷宮的な領域に当るところで、レム睡眠~ノンレム睡眠の深度と同調しているのではないかという説明が出ていました。

そして、脳幹は生命の座であり、同時に死の座であり、ノンレム睡眠の中でも最も深い〈最熟睡〉に向かうときには、意識が脳幹に向かって沈んでゆくのであろうという話。

※最熟睡=臨床的には5分~10分、長くても15分程度、断続的なものらしいです。臨床データ(睡眠時の脳波)をじっくり観察してみる限りでは、最熟睡という名に似合わず、生命信号がシステマティックに行き交っているような感じです。

「死」に向かうときも、意識が脳幹に向かって収斂してゆくのであり、最深部、すなわち脳幹へ向かって辿っていく終極の意識のルートが、臨死体験者によって記憶され、報告されている訳です。

ただし、その記憶が中間層~最深層のどの部分なのかは、誰にも分からないです。臨死体験者の場合、程度の差はあれど相当に深いレベルまで意識降下しているのは確実で、その後に人格が急変するというのも、普段は意識する事も無かった生命の深層部分を、まざまざと「経験」した結果ではないかと思われます。

意識の表層~中間層における迷いや煩悩が余り無い、またはごく淡いものであるために簡単にブロックを解除できて、スマートに中間層を通り抜けられる人は、特に臨死局面で無くても、すぐに最深部に到達するらしいという話が出ていました。もしかしたら、普通に目が覚めていても、最深部(=無念無想界)に到達できる人もいるのかも知れません。

何とは無しに、広漠たる「生死の海」という言葉をしみじみと思いました。

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