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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

航海篇1ノ5

◆考察:判断基準、境界物、異世界に対する反応から各言語の思考様式を探る

印欧語
外なる神、普遍を明確化(正義か、悪か)/序列・排除作用が強い/結合手は相・反・合の三手。世界の抽象化や、法則化を志向する世界観であると思われる。
古漢語
宗族・支族の区別が明確(敵か、仲間か)/同化・同質化作用が強い/結合手は合の一手のみ。華夷秩序の世界観を生むのが、この判断基準であると思われる。
日本語
自生・作為の区別が明確(自然か、不自然か)/複合化・多岐並列化作用/結合手が多種類。多分に「和」を基底とする判断基準である。

…「和」については今だ考察中である…

◆以上の比較から考察できること◆

印欧語と古漢語については、「善/悪」、「内/外」という二元的思考が支配的である。

この事は、ユーラシア大陸を支配してきた宗教的思考が何千年もの間、「光と闇」という二元的思考の伝統を守り続けてきた事実からも、しかと伺えることである。二元的思考こそが、苛酷にして広大なユーラシア大陸を
生き延びるに適した思考であったのだろう。

東アジアの果てで華夷秩序の考え方が生まれてきたことは、実に大きな「宗教革命」であったと思うものである。何故なら華夷秩序は、二元的思考による世界観を、更に非対称化した世界観になるからである。漢字による文字ショックの波に乗って、限りなく絶対一元化された思考…

しっかりと構成された二元的思考は、必然的に絶対一元的思考に移ってゆく。広大な領土や絶対一神教を保ち続けられるエネルギーは、二元的思考の強烈さや、安定感から来るのである。この意味において、印欧語と古漢語は、振る舞いは大きく異なるものの、同じユーラシア大陸の種族である。

三位一体の物語もまた、相・反・合を通じた思考の一元化プロセス(統合化プロセス)を経て生じてきたものである、と考えられないだろうか。(三位一体=「御父」「御子」「御霊」は、絶対一神が三つに分かれた各要素である、という考え方。この三要素の統合されたものが、絶対一神なるものであるそうだ…)

では、日本語が繰り出す物語とその思考は、どのように語れるのであろうか。

ここでは、「三元的思考」である――という説を提唱するものである。日本仏教の考え方では「一即多」「多即一」という捉え方もあるのであるが、おのづから「多」という要素が混入するにおいて、三元的思考、ないしは、多元的思考の影を見て取らずには居れないのである。

一、二、三は、また一、二、多でもある。三元的思考は、多元的思考に容易にシフトする。

三元から多元へ。その通路を開く鍵となるのが、自然/作為という判断基準であろう。日本語の述語の基底には、この「自然/作為」判断の影が、色濃く映し出されている。例えば「…する」の「スル」は、作為の「ス」と自然の「ル」が和したものであり、外国語の動詞を頭につければ即席の日本語動詞となる。(例:オープンする)

先ほどの「三位一体」を比較に取れば、日本語の思考が繰り出す物語は、「御父」「御子」「御霊」はとこしえに「三なる絶対神」である・・・という物語となろう。すなわち、「要素における合(絶対一神化/統合化)」という事象はあり得ない、とする議論を採ることになる。

日本において「合」の代わりに導き出される思考、それが即ち「和」である。

だがしかし、この「和」とは何であるのか、未だ説明できるほどには至っていない。もっとも身近にありながら、謎の思考なのである。「和」の根源、ないしはその基底を突き止めることは、今なお課題のひとつである。

最後に、「和」を考えるヒントとして一首の和歌を引用する――

淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

良寛の作である。三千大千世界は本来は「さんぜんだいせんせかい」と読むと言われているが、良寛が独自に振ったルビが、「みちあふち」である。これは「道の出会うところ」というほどの意味であるらしい。

いささか不十分な、かえって謎かけに近い試論となったが・・・今は、ここで筆を置くことにする。

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