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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

中国史の迷宮・おまけ

章学誠についてまとまった文章

「章學誠の史學」(内藤湖南・著)/青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2244_14526.html

あと、「正閏論」の紛糾の奇怪さは、わが国でも、「南北朝正閏論」から雰囲気を読み取る事が可能かと思われます。足利幕府の頃に、わが国の朝廷も南北朝に分裂しましたが、吉野の南朝と、京都の北朝と、どちらが正統か?…で、延々と、話は明治時代までこじれています(帝国議会も政治論争で紛糾したそうです)。

こういう微妙な、陰湿な確執が易姓革命ごとに繰り返し続いていたとしたら、それは、中国「史学」というものが、ものすごく微妙な状態になっていても致し方ない、と感じる部分もありますね^^;

2009.10.22追記=章学誠について、アムゼルさまよりコメントをいただきました。どうもありがとうございます

http://marcooichan.blog.shinobi.jp/Entry/107/#comment5

章学誠については一時、家内が<側例>という一種のドキュメント(そのほとんどは大工さんなどの仕事の手順や材料とその仕入先などを手書きで残したメモのようなものですが)の研究に必要のため勉強していて章学誠の研究が大いに役立ったようです。西尾幹二氏の『江戸のダイナミズム』にも少し触れられていますが、章はいわゆる「清朝考証学」の中心人物で文献学を学問の中心にそえ「近代」的な学術スタイルを実現しました。学問と縁のないわたしにはあまり関係のない話なのですが、尊敬している学者です。そんなところからもわたしの「シナの変容」への切り口になるかなあ、とも考えていたのですが、どうも生齧りではよくないと思ってそのままにしてあります。ただそんなことを述べようと思っていました。

以上


お題:中華って何千年?

本題です。「なんちゃって」な疑問ですが、〝中国史の迷宮〟を考えているうちにふと浮かび上がってきたお題で、考えれば考えるほど分からなくなってきたので、この際「なんちゃって」考察をさ迷ってみました(「フマジメだ」と怒らないでくださいまし^^;)。

◆「中華五千年」説

現代もっともポピュラーな言い回し。陳舜臣・著『中国五千年』という本があります。現代の科学考古学を援用して、仰韶文化から竜山文化のあたりに「中華」のスタート時期を定めたものと考えられます。言い回しの歴史が浅いだけに殺風景な雰囲気ですが、如何にも現代らしいです。数字も一番大きいですし、たぶん、現代中国人がもっとも好む言い回しではないでしょうか。

…とは言え、最近は「世界一誇り高い半万年の歴史」という言い回しが隣国で出ているようで、これからどうなるのかは、甚だ不明です。微妙な思いを持って眺めるところであります。

◆「中華四千年説」

『史記』に述べられた神話的始祖・夏王朝をスタート時期に持ってきたときに、この言い回しになるようです。従って、幾分か、「中華の中華なるところ」というか、そのあたりの神話的な雰囲気の基準を持っている数字と申せましょうか。夏王朝の存在の怪しさ、そしてこの数字の微妙さを見ると、現代はヒビが入り始めている説であると言えそうですが、特に文化的に「中華」伝統を強調する時に便利なようで、この数字は捨てられないようです。

◆「中華三千年説」

殷王朝をスタート時期に持ってきたときに、この言い回しになるようです。戦前はこの言い回しが多かったようです。殷墟の発見が大きかったものと思われ、昔の書籍では、この数字がよく使われたものであったようです。

以上

並べてみれば、考古学調査の進展と共に「三千年」、「四千年」、「五千年」と、白髪三千丈よろしく数字が膨らんできたと言えますでしょうか。ひとつずつ丁寧に、「中華」や「中国」という主格ラベルを付けてゆくところが、いかにもいかにも、漢語様式に忠実で、納得です(漢語はその「独唱型」という性質上、トップに「宗族」ラベルを付けてゆく傾向を持っている、と考察しています)。

あと、四千年という数字は、とりわけ、料理関係でよく用いられるようです。文化的カテゴリで頻繁に使われている事もあり、「中華料理の四千年の伝統」を強調するからかも知れません。

  • 現代科学的中華を強調するときは五千年。
  • 文化伝統的中華を強調するときは四千年。
  • とくに中華王朝の歴史を強調するときは三千年。

この色分けは興味深いと思います。笑

さて興味深いのは「中華王朝三千年説」で、これをマジメに考察すると、

殷周革命は前1024年あたりとされているので、-1024年+3000年=1976年

(前1027年革命を採用するなら1973年。ちなみに愛新覚羅溥儀は1967年に死去されている。あとで「1976年」を調べてみてビックリしましたが、周恩来・毛沢東の死去、唐山地震など、大きな出来事が相次いだ年だったようですね。これまた意味深です)

※四千年説をとってみても、-2070年+4000年=1930年・・・ですが、この数字も意味深かも。(夏王朝が始まったと「主張」されているのが、前2070年、あるいは前2069年のようです)

「三千年」説・・・幅はありますが、だいたい1976年をもって、「中華」は終了したと、「中国」人みずからが、高らかに、宣言しておる訳ですね。。。

「易」をよく研究した孔子いわく、五十にして天命を知る。1976年+50年=2026年

いわゆる「中華」呪縛も終わるのが、この年代なのかも知れません。

殷墟も既に見つかって、秦の始皇帝のお墓(兵馬俑)まで暴かれている訳ですし・・・

ここに「プロ・シナ」を長く重く呪縛していた「中華王朝史」終わり、「ネオ・シナ」はじまる、と考えてみると、いかにも意味深であります。

以上、冗談のような(というか、本当の冗談なのですが)、なんちゃって思考実験でした。

物語的・占い的に考えるならば、余りにも《強い運命》は、《自らの滅び》を準備せざるを得ないものです。この《強い運命》を、易では、「命」とか「乾為天/龍神/中華」とかいう風にラベリングし、易姓革命をその果てに見ていたのではないか…と、思われます。

そして、「乾為天」自身にも、メタ運命として、自らの「易姓革命」を定めるところがあるのならば。その寿命が、あの大地の場合、三千年に設定されているのではあるまいか。「地球の大地」自身が、その三千年の時間しか「乾為天ワールド=中華王朝ワールド」を支えられなかったのだ、とすれば。

傍目から見ても、「中国」人は余りにも大地の「命」を浪費し、使い捨ててきた…

物語や占いが好きな者としては、この程度の「こじつけ」しか思いつかないなあ、というのが辛いところですが、シナ変容・救済につながる「こじつけ」の、ささやかなきっかけになるなら、それはそれで光栄な事であります…

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中国史の迷宮・後

正閏論/政治イデオロギーとしての史観

《テキスト=『「三国志」の迷宮』(文春新書1999)山口久和・著》

中国の歴史書の叙述スタイル:

  • 編年体・・・時間の流れに従って事件を叙述してゆく/経書の『春秋』が濫觴
  • 紀伝体・・・司馬遷が『史記』を記す事で創出される
    • 本紀・・・天子の行動を中心に国家の大事を記す
    • 列伝・・・臣下や学者、庶民の伝記、諸外国の出来事を記す
    • 志・・・地理、法制、経済など、文化史と経済史をまとめる
    • 表・・・年表、功臣表など
  • 紀事本末体・・・一つの事件を中心に記事を纏め上げ、時間の経過に従って事件の推移が分かるように記す/宋の袁枢が編年体の『資治通鑑』を元にして『通鑑紀事本末』を書いたことに由来

正閏論:

中華世界に君臨する「正統」の皇帝は、ただ1人のみである。この議論は漢代に本格化し、「正閏論」としてまとめられる。

元はといえば、始皇帝の秦が中華文明の正統の後継者だったかどうか、という議論から始まったものであったが、この「正閏論」の結果、真の中華皇統の皇帝は「正位」として「本紀」に記されるべし、そして、皇帝を僭称する者は「閏位」として「列伝」に記されるべし、という措置が取られるようになる。

陳寿の『三国志』は、こうした因習の中で、魏を正統として書かれたものである(もちろん異なる立場の下で、蜀を正統として史書を編む者も居た)。


・・・《以下、考察》・・・

秦の始皇帝の時代、諸夏思想といいますか、封建的な王権思想が弾圧され、焚書坑儒の露と消えました(と、考えられます)。孔子は、焚書坑儒の前の時代の、人物です。従って、前編に引用した孔子の「董狐の筆」コメントは、秦の始皇帝より後のシナでは、まったく別の意味心理で理解された可能性もあるわけです。

漢文の解釈というものの難しさを考えると、この辺は、シナ版リテラシーなる独特の「ねじくれた才能」が必要な世界だと推察しているのですが、いかんせん中国語(シナ語)のリアルの世界を知りませんので、この考察が正しいかどうかは、分かりません。

ただ、現代、源流を同じくする漢字を使っているのに、日本と中国とでは意味が異なる単語が多いです。優秀な留学生を媒介にした、ある程度の緊密な交流のある近現代にして「この事態」ですから、古代の春秋戦国と秦との間では、時代・地域をまたいでの書記言語の意味変化は、もっと深刻だったのではないかと・・・(何故に後に「科挙」が選択されたのか、大変よく分かるような)・・・^^;

・・・さて、「紀伝体」は、伝統的に、古来より「天子たる王統」を正統(=中華)として記してきたとされています。この手法は、おそらく、陰陽五行説が整備され、強制的な歴史時空ダイヤグラムの中で、地方の王権神話を滅ぼしていったプロセスに学んだものではないか、と思われる節があります。実際に『史記』を記した司馬遷は、陰陽五行説の知識に通じていたようです。

だからこそ、それ故に、三国(魏・呉・蜀)時代のように複数の王朝が乱立した場合、「紀伝体」で前の王朝を記す、という行為は、歴史認識の上で、極めてナーバスな問題をはらむ事になった・・・と想像されます。確か、後に政権を取った王朝が、先代の王朝の歴史を編纂する事で、自らの中華の正当性を証しする、というのがあったような・・・

参考テキストによれば、

〝宋の時代の司馬光の『資治通鑑』は、魏を正統として記されたものであったが、曹魏政権の用いた年号を記述に使っている言い訳として、単に年号が無ければ事件の日時を記す事ができないだけで、決して「正閏論」に関わりのあるものではないという主張を行なった〟

となっています。おおむね、王朝乱立が続いた頃に、「正閏論」もまた、集中して論じられたのではないでしょうか。それが漢代以後の、いわば秦漢時代の遺産の中に生きた〈後シナ文明〉の、「史」の実情ではなかったか・・・と、推察されます。

「正閏論」は、歴史観の問題以上に、「中華正統」を巻き込んでの政治的イデオロギーの紛糾をも含む、複雑な問題となりつつあった・・・というのっぴきならぬ背景が、この司馬光の屈折した主張に読み取れると思われます。

〈シナ文明〉を特徴付ける中華思想を完成したのが、おそらく漢代。漢代に興隆した「正閏論」の呪縛の重さが、見て取れるものであります。それはまた、「中華」という呪縛の重さでもあったかも知れない、と思われる節があります。政治的イデオロギーと史書の伝統とが交錯し、複雑にねじれ、異形の「歴史時空」を生み出していた・・・

それは「史」を重要視した〈シナ文明〉~〈後シナ文明〉ならではの、独特な事象に違いない・・・

更にもっと先鋭的な政治的イデオロギーとして現れたのが、南宋の朱子が主張した「蜀漢正統論」であります。漢王室の皇統を継ぐものは劉氏であるべしという理念を尊重し、現実に天下13州の殆どを領有した曹操政権を、「あってはならぬ現実」として糾弾するという内容でありました。

ちなみに、朱子は、司馬光の『資治通鑑』に対して、理念(理)に照らして現実(気)を糾弾するという思想「理先気後」の下に、『資治通鑑綱目』を記した人だそうで・・・要は、「魏は中華の簒奪者だ」という立場でありますね・・・^^;

朱子学が官学として栄えた近世以降にあっては、「観念」が「現実(リアリズム)」よりも重んじられたそうです。陳寿や司馬光の「曹魏正統論」は、割と歴史的現実を反映したものではありましたが、「異形の歴史時空」の中で、異端の現実(?)として押しやられる運命にあった・・・と申せましょうか。

とはいえ、朱子の立場にも同情すべき余地はある訳です。北宋が満州族の「金」の侵攻によって滅び、長江の南に亡命して出来たのが南宋であり、朱子はこの南宋の人物でありました。

ついでながら南宋はその後、「金」と、さらには蒙古族の「元」の侵攻を受けて領土を縮小してゆき、滅亡する運命にありました。朱子が、かつての古代の蜀漢の運命に深い共感と同情を抱き、「蜀漢正統論」を主張したのは、歴史観に名を借りた政治的イデオロギーに過ぎなかったとしても、充分うなづけるものではある、と思われます。

そして更に陳寿の立場を振り返れば、陳寿は魏の後を継いだ西晋の役人だったのであり、陳寿が「曹魏正統論」の立場で史書を記したのも、必然と申せましょうか。司馬光もまた同様の政治的立場にあったようです(司馬光の場合は、後周の禅譲を受けた北宋の人物であり、かつての魏の禅譲を受けたと主張する西晋と、事態が似ているといえる)。

清朝の歴史家・章学誠が、「諸賢地を易(か)うればみな然り」と述べているそうです。人物の立場を入れ替えれば、その人物の主張もまた入れ替わるであろう、というような意味だそうです。

〝章学誠は、人間が記録した全てのテキストは(経書であれ史書であれ詩文であれ)、イデオロギー的偏向を内在しており、したがって読者はテキストの文字面を超えて著者の心術にまで入り込む豊かな共感能力と想像力を身に付けなければならないと主張し、この能力を「文徳」と呼んでいる〟

・・・現代のシナは、と言いますと、これまた噂の江沢民教育が効いていて、コチコチの「中華」理念優先主義であるようです。「文徳」があるかどうかは・・・ちょっと分かりません。あったとしても、「ダーティー文徳」の方が強いように思えます・・・^^;

【添付ノート】

種々の文献資料から判断するに、陳寿は比較的公平な歴史記述家であったようです。

陳寿は、北伐における諸葛孔明の軍事的能力には疑問が付く、という記述を行なっていますが、それは個人的怨恨からではなく、単に、当時の一般的な軍事的評価がそういう内容であった(後世になっても長いこと、孔明の北伐作戦は愚策であると評価されていた)、という理由に基づくものであったそうです。

そして、「曹魏正統論」の立場にある史官であったとは言え、諸葛孔明の人格に深く傾倒し、孔明の遺文を集めて『蜀相諸葛亮集』を編んだのも、陳寿でありました。

なお、お金のかかる遠征を繰り返した上に魏に大勝する事も無かったために、「軍事的暴挙」と評されていた孔明の「北伐」が、実は「攻撃的防衛(以攻為防)」戦略の一環であった、という事を見抜いたのは、17世紀の王夫之になってからである・・・という事です。

《終》

中国史の迷宮・前

董狐の筆

《テキスト=『「三国志」の迷宮』(文春新書1999)山口久和・著》

《引用/一部、分かりやすさのため編集あり》

中国の伝統的な書籍分類の四部(これは同時に学問分類でもある)は、経、史、子、集の四つのカテゴリーを用いて〈知〉の世界を分類し、この順序に従って諸学の価値の序列化を行なっている。

  • 経=儒教経典とその注釈書
  • 史=歴史・地理
  • 子=諸子百家と哲学書
  • 集=詩文集

中国が伝統的に儒教社会であることを思えば、「経」が〈知〉の正殿に鎮座していることは理解できるとして、「史」が〈知〉の重要な領野として位置づけられていることに注目してほしい。

西欧の学問伝統と比較してみると、西欧の中世においては、歴史は自由七科(リベラルアーツ)の中に特別な地位を占めず、七科の中の「文法」に付属していた。

※自由七科=文法、論理、修辞、算術、幾何、音楽、天文

ようやく15世紀中葉にいたって、歴史は大学の教科の中に入りはじめたが、なお修辞学に近く、文学の一部門とみなされていたのである。

史料の文献批判的吟味とそれにもとづく歴史事象の客観的な記述を目指す近代的歴史学についていえば、西欧においては、18世紀後半のドイツのゲッチンゲン学派あたりから芽生え、中国にあっては、やはり18世紀の乾隆期の考証学者から生まれ出たのは時代的には同じであった。

しかしながら、「史」の重要性の認識は、殷周時代のむかしから一貫して変わらぬ中国文化の特徴であった。

では、中国人の歴史認識とはいったいどのようなものであったのだろうか。

思うに、輪廻転生という生の無時間的循環を前提にして人生の意義を探求した古代インド人とは異なり、また神の最後の審判によって永遠の生命を得ることを希求した古代ユダヤ人とも異なり、中国民族はひたすらこの1回限りの人生を楽しみ、いまここにあるかけがえのないこの生の永続を願った。

しかしこれは、はかない願望でしかない。荘子の言葉を借りれば、彭祖のごとく900才の寿命を保ったところで、やはり人間の生は有限のもの。結局、死にゆくべき存在である。

しかし、この深刻な認識も、中国人をペシミズムに駆り立てることは決してなかった。

・・・(中略)・・・

中国人はよく「青史に名をとどむ」と口にする。これはなにもおのれの功業を後世に誇示しようというのではなく、記録のかたちで生の永続化を望んでいるのである。

たとえ、記録されるべき生が汚辱にまみれたものであったにしても、それでもなお彼らは歴史による生の記録を欲したのである。宮刑の恥辱を被ってもなお『史記』を書き継ぎ、みずからの生の記録を後の世に残そうとした司馬遷は、中国人の歴史意識をもっとも強烈に体現するものであろう。

なによりも、歴史はありのままの記録でなければならない。したがって歴史を記述する史家・・・司馬遷のような私人の歴史家であれ、国家の歴史を司る公的な史官であれ・・・に、求められるのは事実をありのままに記録することである。

『春秋左氏伝』の宣公2年に、つぎのような事件が記されている。

晋の霊公は無道な暴君であった。重臣の趙盾がなんど諫言しても聞き入れないどころか、逆にけむたくなった趙盾を殺そうとした。そこで趙盾はやむを得ず逃走した。やがて霊公が臣下の趙穿に殺害されると、趙盾は逃亡先から戻ってきた。このとき、太史(歴史官)の董狐は「趙盾、其の君を弑す」と記録して、周の朝廷に報告した。趙盾が「事実と違うではないか」と抗議すると、董狐は「あなたは晋の重臣であるのに、逆賊の趙穿を討とうとはしない。事件の責任を負うのはあなた以外にありません」と答えた。

孔子はこの事件を評してこう述べている。「董狐は古えの良き史官(歴史記録者)である。書法どおりに記録して、事実を曲げて隠したりしなかった。趙盾は古えの良き大夫である。書法に従って弑逆の悪名を甘んじて受けた」と。

由来、「董狐の筆」とは、権勢をおそれずに事実を直書する歴史家の筆法を意味するようになった。これと反対に、権力におもねったりあるいは私憤を晴らすために、事実を曲げて記録する曲筆は、史家のもっとも忌むべき行為とされた。

北斉の魏収が撰した北魏の歴史書『魏書』130巻は、曲筆の最たるものであろう。彼はみずからが使える北斉の高氏に媚びを売るために、かつて高氏が臣事していた北魏の諸帝をあしざまに罵っている。また魏収は人物伝を草するにあたって、自分と敵対関係にあった人物の善事はこれをいっさい隠して書かず、一方、権臣の楊遵彦(ようじゅんげん)一門の伝記には美辞を書き連ねて追従した。

『魏書』が完成すると、魏収の曲筆を朝廷に訴え出る者は100人を越えたという。このため、魏収の『魏書』は「穢史(わいし)」と呼ばれ、古来、史家の戒めとされてきたのである。

《引用終わり》