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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

宣伝アピール類の文章・考

少し前、訳あって、宣伝アピール類の文章チェックする機会がありました。

「先方から、いくつかの質問事項に回答する形で、宣伝アピール文章を出してくれ、という事で。特定の事物ごとに個別にテキスト作成してみたんだけど、どうかな?」という感じ。

ふむ。

事物1件あたり、あらすじ風、300文字~400文字程度。

読んでみました。

……あれ?

もう一度、二度、三度と、全文を読み直してみました。

…………(ビミョウな表情)……(◉▾◉ )……(◉▾◉)

「あぁ……アピールの順番が! 順番が!」

と、我に返って、ツッコミ。

そこは「如何にして、その信念に至ったか」を逆転披露する所じゃ無くて、「根拠・プロセスを述べたうえでの現状の説明」を問われている場面じゃ!

何故に、あちらの部分で問われている「結論」や「回答」の内容をさしおいて、「(単に)○○しました!」や「無関係な途中談話(失敗談のオマケ付き♪)」を、前と後の両方の位置で、優先的ズラズラ盛って来るんじゃ!

混乱の余り、グルグルしてしまいました。

ふう。

半分以上の確率で、書類選考で落とされるタイプの文章かも知れない……と、感じました。

で、でも、アピールする内容と、順番を、何とかすれば、ギリギリ書類選考の合格ライン(100点満点中、50点レベル)に乗れるかも知れない……?

……「頭痛が痛い」と共に、書類選考の担当者の感覚を、(あくまでも想像ですが)実感してしまったような気がします……

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登場する事物を個別にギュッと絞ってある文書でさえ、こんな感じ。

……多数の登場キャラクターと人物ドラマ場面を扱う小説テキストって、とんでもない国語力と、ストーリー構成力が必要なのね……と、改めてシミジミ。

簡単な要約、みたいな文書であっても、目的と論述の方向が混乱しているテキストとなると……

正直、読みこなすのは……難問だな、と思いました。

「このテキストを書いた人は、いったい、どのような関連過程を記したかったのか? どのような結論をアピールしたかったのか?」

どこまでも目的&主旨に到達しない「堂々めぐり・ストーリー」に突入……そんなグルグル・メリーゴーランド作業に割く時間が有ったら、別の文書の検討に移った方が早いですし……

その後。

やはり多少の問題が出て来た、という事で(文章チェックさん1名、お手上げ状態になったらしく)。

「どのように直したら良いかな? 添削できる?」という話があり。

添削サービス作業、上積み。

混乱している文章は、「5W1Hが整理されていない」「前・後がつながっていないように見える」タイプが多いようです。

思いつくままにポンポン論述しました! さらにドラマチック修飾と演出(無関係な途中談話♪)てんこ盛り盛り! という感じ。

5W1Hを整理して、枝葉を剪定して、時系列順に並べるだけで、かなり見通しが良くなるようです……と感じられるところ多々。上手なタイプの印象的な文章と比べると、当然、アピール力は弱いけれど……「平均の中の下っぽい」ながらも、なんとか主旨をつかめるようになる……

さらに、結論へと至る論述の経路が整理されて、前後一本の筋が通るようになると、アピール印象パワーも随分と違ってくる……と感じられます。

(ただし、内容・情報が、ガッツリ存在する文章に限る)

上手なタイプの文章は、修飾と演出においても、目的と方向性をシッカリそろえて手堅く整理してある。それで、「アレッ」と思うほど文字数が少なくても、印象的な……と感じるらしいです。脳ミソへの浸透がスムーズ。

多いか少ないかは分かりませんが、或る程度、テキスト添削してみて。

「目的・方向性を見失わない論述」&「結論へと至る経路を、適切に提示してある構成」=希少価値、と感じました。

これが、小説テキストへ応用できるのかどうかは、分かりませんが。

同じテキスト同士、何かしら共通する部分もあるかも? と思われ。

以上まとめてみた……という風です。

(ザックリ省いた部分が多く、「お前は何を言ってるんだ」文章かも知れませんが……)

おしまい(◉▾◉)

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制作知識:モノクロ印刷メモ

モノクロ印刷について分かったこと:
・ペーパーに高品質(ハイクオリティ)で打ち出す場合は1200dpi
・ペーパーに中品質(標準レベル)で打ち出す場合は600dpi
・ペーパーに低品質(たまに高品質Web画像)で打ち出す場合は300dpi
・Web用に標準品質の画像を打ち出す場合は72dpi

当サイトでは、コミック用パソコンには「コミックスタジオ」というソフトを積んでおりまして、「直感」により、600dpiを基準に決定してお絵かきをしていました…ので、案外、「直感」は、「的のど真ん中」を当ててた…って事になりますでしょうか…^^;;;

実は、前の印刷機が「先輩の知り合いのお下がりの、そのまたお下がり」で、えらい中古で、古いインクが固まって出てきたりするので、「ガチガチの印刷&盛り上がったインクをハタキで叩き出す」のが普通でした。

もはや忘れられた世代に相当するのか、100dpi前後レベルの印刷機であったらしく、グラデーションすら出なかったのですね(グラデーション・トーンが使えなかった)。観光案内マップなどのWeb画像はちゃんと出ていたので、余計「600dpi」というのがイメージ出来なかったです(遠い目)。

…印刷機に関するこの妙な制約が、当サイトの画風の確立に、えらく影響しているかも知れません(再び、遠い目)。

この中古の印刷機は、数ヶ月前につつがなくアセンション(=昇天)したもようで、「あの世の宇宙人の呪文のようなもの」を延々と打ち出すようになったので、貯金が溜まったのを幸い、新品の印刷機と交換しました。こちらは600dpiが素直に出てきて、600dpiの画像ってこんなにグラデーションが細かく出るのかと、ビックリしました(アセアセ)

…ちなみに〝ソフトへの初期投資はケチらずに☆〟って事で、最初から一番高い「コミックスタジオ」を購入(正直、お財布の中身が不安でしたが…)。お蔭さまで、いろいろな画像変形・描画オペレーションが使えるので、ドラマチックな場面作りに役立っているようです(600dpiレベルなので、画素処理も時間がかからずに済んでいるようです。1200dpiだと、メモリの都合もありますし、画素数を考えても、10倍から20倍くらい処理時間がかかっていたかも)…^^;

で、パソコン閲覧用の画像にして打ち出すとき、そのまま600dpiで打ち出すと、ものすごく大きくなるので(=パソコン画面からはみ出し&2MBぐらい=)、最初は訳が分からず、えらく苦労しました。500KB未満にしようとすると、点々の「謎の絵」になったり(その頃は、jpeg、gif、pngの区別も付いていませんでした)…^^;

今は、Web用画像は、png表示がメイン。今のところ、以下のような認識…

  • jpeg画像=画像データ縮小など、手を入れるたびに画質の劣化が大きく、一発勝負タイプ。フルカラー、微細グラデーションに強い。
  • gif画像=べた塗りの幾何図形の描画に向いている。画質劣化なし。複雑な画像になると、指数関数的にデータが重くなる。
  • png画像=gifに似て、手を入れても画質劣化なし(pngデータ圧縮ソフトは、フリーで色々出ている)。複雑な画像にも強いが、フルカラー並に色数が多いと、指数関数的にデータが重くなる。

当サイトのイラストは、線描をハッキリさせた、グラデーションを含まないモノクロ画像という事もあって、減色で軽くしています。16色でも256色と遜色なく見られますし、16色を切ると100KB未満に落とせるので、転送データ圧縮の点でも助かっています。16色未満でも結構見られるのは、旧世代の印刷機に鍛えられたからなのか、それとも技術がまだまだという事なのか…ちょっと悩み&苦笑

…画像縮小の際に科白の文字がつぶれて、ハッキリと読めなくなるのが大問題だなあと思っていましたので、ここだけは、科白を「ちまちまと」カキコしている訳です…(=付属のペイントを使っています。将来、スクリーン画像の文字を認識して読み上げるような福祉ソフトの進化があれば、ペイントで書いた定型的な文字だし、コマ割りも直方形のみですし、スムーズに対応できるのでは…と、予想しています)…;^^ゞ

こうしてみると、生身の人体(及び脳みそ)って、実はものすごく精妙な感覚機能・描画再現機能を持っているのだなあと、改めて、大自然の神秘を、シミジミと感じるのであります。

★ついでの追加★《モノクロ印刷・おまけの資料》

☆ペーパーサイズ/ピクセル値の相関比率をまとめた表
http://www.benricho.org/size_scale/pixel.html
☆計算できるページもついていて、とっても便利だと思うのです
http://www.benricho.org/size_scale/pixel_conv.html

出雲から出土した遺物と神社配置についてのメモ

参考書籍『海と列島文化2日本海と出雲世界』小学館1991

*****

●出雲神宝事件(日本書紀、崇神天皇60年の条)

『日本書紀』巻第五

崇神天皇は群臣に詔して「武日照命(たけひなてるのみこと)、別名武夷鳥(たけひなとり)、あるいは天夷鳥(あめのひなどり)が天から持って来られたという神宝が出雲大神(いずもおおみかみ)の宮に収蔵してあるのだが、これを見たい」とおっしゃられた。

そこで、使者として、矢田部造の遠い祖先である武諸隅(たけもろすみ)、別の書には大母隅(おおもろすみ)と伝わっている武将を遣わして献上させた。

このとき、神宝を管理していたのは出雲臣の遠い祖先である出雲振根(いずものふるね)であったが、筑紫国へいっていて留守だったので、弟の飯入根(いいいりね)が(独断で)皇命をうけて弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)につけて、神宝を貢上してしまった。

筑紫から帰ってきた振根はこのことを聞いて、弟を責めた。

「数日待つべきであった。何を恐れてたやすく神宝を差し出したのか」

心の傷が癒えなかったのか、そのことを何年も根に持った振根は、弟を殺そうと思い立った。

「このごろ、止屋(やむや、現在の島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵にあさざが生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」

こう言って、弟を誘い出した。

淵のほとりに辿り着いて、兄は弟に言った。

「淵の水が清い。どうか一緒に水浴をしないか」

そう言って、弟を誘いだし、先に陸にあがって、弟の刀をあらかじめ作っておいた本物そっくりの自分の木刀とすり替えた。弟は驚いて兄の木刀を手にとったが、木刀を抜くことはできなかった。そして、振根は飯入根を斬り殺してしまった。

時の人はこの情景を以下のように和歌に詠んだ。

や雲立つ 出雲梟帥(いづもたける)が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多(さは)巻き さ身無しに あはれ

飯入根の弟と子供は、このことを詳しく朝廷に訴えた。その結果、振根は天皇の遣わした将軍、吉備津彦(きびつひこ)と武渟川別(たけぬなかわけ)によって殺されてしまった。

その後、出雲臣はしばらく出雲大神を祭らぬままでいたが、丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市氷上町あたり)の女性で氷香戸辺(ひかとべ)という人が、皇太子・活目尊(いくめのみこと、正しくは活目入彦五十狭矛尊(いくめいりびこいさち の みこと)に自分の幼子が歌っている歌を伝え、その結果、天皇は鏡を祭らせた、という。

この8年後に崇神天皇は崩御している。

『書紀』巻第六によると、(上記の出来事から34年後の)垂仁天皇26年には、天皇の命で大連の物部十千根(もののべ の とおちね)が、出雲に神宝の検校をしにいったと伝えられている。

●氷香戸辺の幼子が歌ったとされる歌

「玉菨鎮石(たまものしづし) 出雲人(いづもひとの)祭(いのりまつ)る 真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ) 押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)、底宝(そこたから)御宝主(みたからぬし) 山河(やまがは)の水泳(みくく)る御魂(みたま) 静挂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主」

●出雲、命主神社から出土した物

・勾玉…越、糸魚川産。透明な緑色・大玉の品で、極めて希少な優品。出雲オオクニヌシが越ヌナカワヒメに求婚した件など、出雲と越の強いつながりを暗示させる。

・銅戈…筑紫の様式。出雲と筑紫の交流をうかがわせる。

●荒神谷遺跡(斐川町・神庭)

出土した物

・銅剣358本。出雲産。4列に整然と並べられて埋められていた。A列=34本、B列=111本、C列=120本、D列=93本

・銅矛16本。筑紫産。「中細形」2本、「中広形」14本。「中広形」のうち4本は、研ぎ分けによる綾杉紋がある。なお筑紫国では、弥生中期に刃部分が巨大化し始めた「細形」、弥生後期に巨大化した「広形」がある。

・銅鐸6個。近畿エリア産。

注目点…【銅剣が地下に埋納されている】草薙剣が熱田神宮で保管されている方式に通じる=剣を納めた箱を「二重に赤土にて包めり」

注目点…【荒神谷祭祀(~10世紀まで継続されていた?)】推測

島根大学理学部による「考古地磁気測定」データ※熱残留磁気。イタリアで古代土器を使って過去の地磁気の変化を研究したのが始まりで、遺跡・遺物の年代知る方法として発展。特に高熱、長期間にわたって土器を焼いた窯、古代の製鉄炉などで有効。ちょっと焚火をしただけでは熱残留磁気(赤土の中の鉄分が含む磁気)が残らないため。

荒神谷遺跡では、土器を焼いた窯や製鉄などの設備は無いので、本来は熱残留磁気が出て来る場所ではない
⇒しかし、出て来た。相当に長期間、高熱で何かを焼いていた証。多くの何かを焼いた証の焼土層、炭化物も多く観察された、と報告されている。

熱残留磁気の測定で得られる年代は、同一の地面が反復して熱せられたとすると、その最後の年代であると推定される。

荒神谷遺跡・銅剣の埋納エリアではAD950±100年、AD590±30年の二つの年代が示された。また、銅剣が埋納されていた斜面下エリアでは、AD1250±80年を示した。なお、別途、AD250±80年というデータも示された(※古い年代の焼土層が移動して堆積した?)

荒神谷遺跡では、場所によっては、60センチメートルにも達する焼土層が確認されている。一度の焚火の結果では無く、長年にわたって数多く反復された焚火の結果と考えられる。

荒神谷遺跡には祭祀場があり、火を使った祭祀が長年おこなわれていたと推定される。実際、荒神谷遺跡の存する地名が「神庭」となっており、聖地であり祭祀場であったことをうかがわせる。

荒神谷遺跡へ通ずる道は一本しかない。その入り口となる谷口に「神庭岩船山古墳」がある。現在はかなり傷んでいるが、もとは墳丘の長さ約58メートルの前方後円墳であり、出雲国では最大級の規模である。大きなくり抜き式の舟形古墳石棺(5世紀後半ごろ)。この石棺は大和スタイルではなく、丹後、讃岐、越、特に筑紫スタイルに多い。

*****データ他から考えられる事*****

荒神谷遺跡の祭祀場では、青銅器の埋納に際し、あるいは埋納後に、大規模に火を焚く儀式が定期的に繰り返されていたのではないか。

最も古い焼土層データ年代、AD250±80年とすると⇒荒神谷の祭祀場の火焚き神事がスタートしたのは、弥生時代~古墳時代ごろと考えられる。

最も新しい焼土層データ年代、AD950±100年、あるいはAD1250±80年とすると⇒荒神谷での謎の祭祀行為(火焚き神事)が終了したのは10世紀ごろ。今のところ該当する歴史記録は無いが、国家文献(大和朝廷による国家記録)に残されない類の、秘密の神事だった、という事も考えられる。

*****荒神谷(出雲)と、諏訪の関係*****

荒神谷遺跡の東、北、西に、遺跡をグルリと囲むようにして、タケミナカタ神を祀る諏訪系の神社が勧請されている。現在は五つの神社がある。

西から北、東へとグルリと回る形でいくと

「波迦(はか)神社」旧名称:『風土記』波如社(はねのやしろ)、祭神:神倭健尊、健部臣古禰尊、合 健御名方神

「波知(はち)神社」旧名称:『風土記』波禰社(はねのやしろ)、祭神:天津彦火瓊々杵尊 /式内社「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 伊弉諾尊、伊弉册尊、蛭兒命、天忍日命、 大己貴命、大年神、建御名方命」

「佐支多(さきた)神社(神庭岩船山古墳から西へ200~300メートルほどの場所)」健御名方命、八坂戸賣命※『風土記』、佐支多の社。元は「瀬崎田」、なまって「佐支多」に変わる

「諏訪神社」建御名方神 配 神功皇后、武内宿禰命 合 米原内兵衞綱廣

「諏訪神社」

「(諏訪神社元宮)」

南北朝時代の後に勧請されたもので、古代の事情とは無関係と思われるが、興味をそそられる位置関係。

タケミナカタは出雲の神の一人(水神系/竜神、蛇神の姿も持つ)で、出雲から大和への国譲りに際し、最後まで抵抗した神と伝えられている。

一時的ではあるが「諏訪へ逃亡した建御名方命が、再び帰還できる日に備えて権威の象徴であった祭器を埋めた。それを守るために子飼いの家臣(諏訪社)を密かに配置した」という現代バージョンの新しい説話が出現していた。荒神谷遺跡の銅剣・銅矛の多さが、当時としては如何に衝撃的であったかが、うかがえるエピソード。

*****

タケミナカタ神:父が出雲国のオオクニヌシ、母が越国のヌナカワヒメ。「ミナカタ」は「水潟」に通ずるとされる。水神系。現在は諏訪国の神。諏訪神、諏訪明神、諏訪大明神とも。

(ウィキペディアより適宜、編集)

『古事記』、葦原中国平定(国譲り)

天照大御神・高御産巣日神(タカミムスビ)らによって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫る。

大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った。

タケミナカタは千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。そしてタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチの手は氷や剣に変化した。タケミナカタがこれを恐れて下がると、タケミカヅチはタケミナカタの手を若葦のように握りつぶして、放り投げた(=古代の神事相撲を象徴したものとする説がある)。

タケミナカタは逃げ出したが、タケミカヅチがこれを追い、ついに科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束した。

※『日本書紀』ではタケミナカタが登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)

※『先代旧事本紀』「天神本紀」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされている。使者は『書紀』と同様に武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)

●歴史上の出雲国の海岸線の変化

弥生時代の海岸線:まだ出雲鉄の生産が小規模にとどまっていた頃、宍道湖は海だった。

奈良時代、現代の海岸線:出雲鉄の生産が盛んになり土砂流出が激化。海岸線が見る見るうちに埋まった。